鴨着く島

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出雲神宝(記紀点描⑪)

2021-08-26 09:37:45 | 記紀点描
日本書紀の崇神紀と垂仁紀には、時代が離れているにもかかわらず、同じ事物が話題として登場する。

それは「出雲神宝」(いずものかんだから)で、出雲のオオクニヌシたちの末裔(出雲族)が神の宝として大切に斎き祭っている物である。

 【崇神天皇の「出雲神宝」調査命令】

北部九州から私見では270年頃に大和へ入り、前王朝である橿原王朝を駆逐した崇神王権は纏向王朝とも言うが、アマテラス大神と倭国魂(ヤマトクニタマ=大和土着の神霊)を苦労しつつも何とか祭ることができた。

(※また他の神々についても天皇親祭を取り入れたりした。このような祭政一致に近い統治をおこなったので、崇神王権のことを「呪教王朝」と名付けた歴史学者もいる。)

古代ほど王権奪取に於いて必要なものは、一つは武力であるが、もう一つ大事なのが「祭祀権の継承」であった。

神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の大和平定では、「大和の物実(ものざね)」として天の香久山の土を採取してこれを祭ったり、また「水無の飴(たがね)」を作って幸先を占ったりする描写はあるが、具体的な神々を祭ったということはなかった。

ところが北部九州からやって来て王朝を築いた崇神王権では、上に触れたように多くの神々を祭ることに腐心した。そして崇神王権の祭祀は大和土着の祭祀者たちの助力を得て順調に行われ、天下が大いに平らぎ、それによって崇神天皇は「御肇国天皇(ゴチョウコクテンノウ)」すなわち和語で「はつくにしらすすめらみこと」という尊称を得ている(12年条)。

だが、それに飽き足らなかったのか、崇神天皇は晩年になると次のような詔勅を出した。

〈「武日照(タケヒナテル)命が天から招来したという神宝は、出雲大神の宮の蔵に収めてあると聞くが、それを是非とも見たいものだ。」

そして、武諸隅(タケモロスミ)を出雲に派遣した。〉(60年条)

この詔勅にあるように「タケヒナテルが天から持って来た神宝」こそが出雲神宝である。なお、タケヒナテルはタケヒナトリとも言い、アマテラス大神のミスマルの玉から生まれた五男神の一人である「アメノホヒ」の子である。またタケモロスミは物部氏族である。

崇神60年と言えば、崇神天皇は68年に崩御しているから最晩年の頃で、なぜそんな年になって思い出したのか、経緯が無く突然出てくる話なのが不可解と言えば不可解だ。それまで忘れ去っていたのを何かの情報を得て思い出したのだろうか。

先日のブログ「邪馬台国問題 第14回」で書いたように、崇神天皇の九州における「大倭(北部九州倭人連合)」政権時代に、同じ九州北部で覇を競った相手が「厳奴(イツナ)=伊都国」ことオオクニヌシ率いる王権であった。

覇権争い勝利を収めた大倭政権は北部九州で一大勢力であった厳奴(イツナ)を解体して一部を佐賀平野からさらに西の山中(厳木町)に移した後、多くの厳奴(イツナ)人を出雲に流した。

その際に厳奴(イツナ)の神宝はすべて没収したはずであるが、おそらく没収し忘れたか、厳奴(イツナ)人がうまく隠しおおせたかした物があると知ったのではないだろうか。そこで先の詔勅を出したのだろう。

その後の成り行きは以下の通り。(※現代文の意訳で、簡略化してある。)

〈崇神天皇の命を受けたタケモロスミが出雲に行くと、当主の出雲フルネは筑紫に出張していた。代わりに迎えた弟のイイイリネはタケモロスミの要請に応じて「神宝」を提出し、それをもう一人の弟のウマシカラヒサ、そこ子のウカヅクヌの2名を使者として大和へ持参させた。

筑紫から帰って来た当主のフルネは弟のイイイリネが自分に諮らず神宝を渡してしまったことを咎め、ついにイイイリネを殺してしまう。

その内紛をウマシカラヒサが大和に告げたので、崇神王権はキビツヒコとタケヌナカワワケを派遣して当主のフルネを誅殺した。

出雲ではこれを畏れて「出雲大神」の祭祀ができなくなった。

その時、丹波のヒカトべという人物が「私の子が次のような独り言を言うのでございます」と、宮廷に届け出た。「その独り言というのは

『玉藻(たまも)の鎮め石 出雲人の祭る 真種(またね)のうまし鏡 押し羽振る うまし御神 底宝 御宝主。
 山河の水くくる御魂 静掛かる うまし御神 底宝 御宝主。』

であります。これは子供が言える言葉ではありません。何か神託のようなものではないでしょうか。」

天皇は「出雲人に祭らせよう」と詔勅した。〉

最後に崇神天皇は先に押収した出雲神宝を出雲に返却したうえで「出雲人に祭らせよう」としたのか、出雲神宝は崇神側に置いたまま「神宝無しで祭るように」としたのか、判断に苦しむところだ。

しかし崇神の後継者である垂仁天皇の26年条に、垂仁天皇が「何度も使者を立てて出雲の神宝を検校(調査)するのだが、どうもはっきりしない。」として今度は物部十千根(トヲチネ)大連を遣わして調べさせたところ、神宝がすっかり判明した(掌握できた)ので、トヲチネ大連に管理させた――という記事がある。

これによると、最初に崇神天皇が掌握した「出雲神宝」は一応は出雲に返却したと見るのが順当だろう。

 【垂仁天皇による「出雲神宝」調査】

垂仁天皇の26年に、天皇は天皇の最側近である物部十千根(トヲチネ)大連に対して次の命令を下した。(※現代文にしてある。)

〈しばしば使いを出雲に遣わし、出雲の神宝を検校(調査)させるのだが、「これこそが出雲の神宝です」とはっきり申告した者はいない。ならばお前が直々に出雲に行って調査しなさい。

 すなわち十千根(トヲチネ)の大連は、神宝を見出し、「これが間違いなく出雲神宝であります」と復命した。それでその神宝を管理させるようにした。〉

以上の記事によれば、崇神天皇が最初にタケモロスミを派遣して没収し、その後出雲に返却したた神宝とは別の「出雲神宝」を物部十千根大連が掌握して大和に戻ったことになる。

最初の「出雲神宝」がどんな物であったかも分からなければ、十千根大連が掌握して大和にもたらした「出雲神宝」の具体的な姿も書紀の記事の上では全く分からない。

 【「出雲神宝」とは何か】

最初に崇神天皇時代に調査掌握され(崇神60年)、さらにまた新たに垂仁天皇時代に大連という側近中の側近を派遣して調査掌握した(垂仁26年)という「出雲神宝」とは何なのか?

これら二つの記事には肝心の「出雲神宝」がどんなものであったのかについて書かれていない。わざと書かなかったような気もする。

崇神王権時代は先に触れたように、アマテラス大神はじめヤマトクニタマや三輪の大神(オオモノヌシ)などの神々を祭るのに腐心していた。そのような王権にとって、大和王権とは一線を画している出雲の国が彼らの神々を祭るための「神宝」は是非とも掌握しておきたいはずである。

祭祀に当たっては神の座の前に数々の奉幣を供え、納めてある神宝を使って神を祭るのだが、崇神天皇の時代、半島南部の新羅から到来した「アメノヒボコ」が、すでに七種の神宝を招来しており、それによると「鏡・剣・玉」のセットになっていた。

出雲の神宝がこの範疇に入るものだったとすれば、鏡だったのか、剣だったのか、それとも玉だったのか、それら全種だったのか、一種だったのか、具体的な神宝名は伏せるとしても、そのくらいなことは書かれていておかしくないだろう。

それを憚るような極めて特殊な、つまり通常の神宝ではなかったがゆえに、掌握はしたのだけれども書くことをためらった可能性もある。

そこで私は出雲神宝が具体的に何なのであるのか、以下に二つの仮説を提示しておく。

 〔仮説① 「天叢雲剣」説〕

出雲と言えば天下りした(天上界から追放された)スサノヲノミコトがヤマタノオロチの体内から見つけ出した「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」だが、この剣はスサノヲノミコトが天上界に献上したと書紀の神話では記している。

しかし天上界に献上したというのは説話上の話で、実際にはスサノヲが出雲の大神ことオオクニヌシを祭る神宝として出雲に「置き土産」にしたと、崇神王権では解釈していたのかもしれない。

天叢雲剣は名を「草薙剣」と変え、景行天皇の皇子ヤマトタケルが東国に遠征する際に、伊勢神宮に斎宮として詰めていたヤマトヒメから授けられたとある。してみると、天叢雲剣はすでに崇神王権の手には入っており、「同床共殿」を嫌った天皇がアマテラス大神を祭るヤマトヒメに託していたことになる。

剣あるいは太刀は「玉体を守る」として、今日でも天皇の行幸(皇居外への移動)では宮内庁職員が奉持して行くことになっているし、かつては賊を征伐に出かける将軍に天皇が授ける「節刀」は天皇の身代わりとなった。

出雲国造はその代替わりに宮廷に参上し「神寿詞(かむ(ほぎの)よごと)」を読み上げるという重要な行事があるが、その際には宮廷からは「金装太刀一振り」が授けられる。

古代ではそれほど剣や太刀には大きな意味が込められていたのである。ましてアマテラス大神の弟であるスサノヲ伝来の「天叢雲剣」は神宝に十分適うものであったはずである。

 〔仮説② 「漢委奴之国王」の金印説〕

「漢委奴之国王」と刻まれた金印が福岡県の志賀島で発見されたのは、天明4(1784)年のことであった。

この金印が意味するのは、漢王朝に倭の奴国王が朝貢し、その見返りとして「お前を倭人の奴国王と認める」というお墨付きを貰ったということである。(※委は倭ではなく、委奴を「いと」と読むべきだという説があるが、私は採用しない。)

倭国が漢王朝に遣使したのは『後漢書』によって西暦57年(光武帝の37年)と分かっており、この倭国こそが金印を授けられた奴国のことだろうと考えられている。私もそう思っている。

だが、奴国を春日市を中心とする一帯に比定することには与しない。当時の奴国とは北部九州全体を勢力に持つオオクニヌシ系の国だったと考えるからである。オオクニヌシは別名を八千矛之命(ヤチホコノミコト)と言われるように、武力に秀でた「厳(イツ)」という属性を持っていた。

その属性を捉えて統治する国が「厳奴(イツナ)」と呼ばれたと考える。

この厳奴は、西暦57年から約100年後に半島から福岡県の糸島(五十)に来住した崇神王(五十王権)一族が伸長して「大倭」(北部九州倭人連合)となった時、必然的に戦わざるを得なかった。(※この戦いこそがアマテラス大神を天の岩戸に籠らせてしまう争乱だったと思う。)

厳奴(イツナ)対「大倭」の戦いは大倭の勝利に帰した。その結果、厳奴は一部が「厳木町」(イツキ=伊都城)へ、大部は日本海の出雲に流された。

その際、崇神五十王権は、武器とともに厳奴の「神宝」を接収し、いわゆる三種の鏡・剣・玉なる神宝はすべて差し出させただろう。

しかし出雲に流されたオオクニヌシの末裔たちは、北部九州に覇を唱えていた間に漢王朝から貰った「漢委奴之国王の金印」については、うまく隠しおおせて出雲に持参したのではないだろうか。

崇神王権が北部九州から大和入りして前王権である橿原王朝に代わって「纏向王朝」を築いたのちに、おそらく漢籍に習熟した渡来人系の家臣の中から「後漢の光武帝から金印を授けられているはずですが、宮廷の倉庫にそれがございますか?」などと言われたが、そんなものは接収していない、ということになり、崇神天皇が出雲神宝の調査命令を出すことになった。

その当時の出雲の当主フルネは、大和の崇神王権から出雲神宝調査の使者が来ると聞き、「崇神王権に差し出すくらいなら、出雲に流される前に勢力を張っていた父祖の地に隠してしまおう」と思い立ち、筑紫に行ったのではないか。そして父祖の地の港であった志賀島の海岸べりに石組みを設置し、その中に金印を置いたのではないか。



以上の2説が思い浮かんだのであるが、「出雲神宝」が通常考えられる神宝とは著しく違い、他には絶対存在しない類のものであろうと仮説に託してみた。私としては後者説だが、両方であってもおかしくない。どちらも唯一のものだからだ。

しかし、天叢雲剣であるのならば、垂仁天皇の次の景行天皇の時代には伊勢神宮にあるのが分かっており、崇神から垂仁の2代にわたって出雲に調査団を送って家探しする必要はなかったであろう。とすれば「金印」だろうか。金印はまさに1500年後の天明4(1784)年まで、誰知ることもなく志賀島の海岸に眠っていたのだから――。