「史話の会」9月例会を開催した。
今月はテキスト『邪馬台国真論』の「神武東征の真相」に入った。
日本古代史学では「神武東征」はおろか、応神天皇あたりも怪しい、ただ雄略天皇は幼名の「ワカタケル」と剣に象嵌で刻まれたものが崎玉稲荷山古墳と熊本の江田船山古墳から出土しているので、どうやら実在したようだ。
つまり西暦でいえば470年前後の第21代雄略天皇の存在は間違いないだろうーーとの見解が主流である。
とにかくそれよりはるか前、20代も前の神武天皇など造作に過ぎない、ましてその初代天皇が非常に遅れた南九州からやって来たなど、おとぎ話の類だ、というわけで、初代神武天皇の事績はでっち上げだとされている。
ところが自分が魏志倭人伝の解釈に取り組み、「投馬(つま)国」が南九州にあったことを証明し、投馬国王の王の称号に「彌彌(みみ)」が使われていたことを知った時、記紀に記されている南九州の神武天皇の皇子に「タギシミミ」「キスミミ」がいることと、大和への東征を果たし「橿原王朝」を樹立した後に迎えた王妃イスケヨリヒメとの間の皇子たちの名が「ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ」と「ミミ」のオンパレードという記事から見て、南九州にあった「投馬国」からの東遷は間違いないと確信したのである。
以上、いわゆる「神武東征」とは南九州の投馬国からの東遷に他ならないという結論である。
そこで記紀の「神武東征」を調べてみよう。全くの出鱈目(造作)だったのだろうか、その判別やいかに。
まず私は九州からの東遷は3回あったと考えている。次の3回である。
1回目・・・ニギハヤヒの東遷
2回目・・・「神武」の東遷
3回目・・・崇神天皇の東遷
1回目は物部氏の祖「ニギハヤヒ」によるものである。
古事記では、ニギハヤヒは神武が大和入りして諸族を平定した最後に登場し、神武に対して自分も天津神の苗裔であることを示す「天津瑞(あまつしるし)」を献上している。
また書紀では、筑紫(九州)を出発して4年後の12月に大和の豪族ナガスネヒコを撃つのだが、ナガスネヒコはすでに天磐船(いわふね)に乗って天下りして来た「櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)」を主人として仕えていた、と言った。そして天津神の子である証拠の「天羽羽矢(あめのはばや)」と「天歩靫(あめのかちゆぎ)」を見せたところ、神武は「間違いない」と天津神の子であることを認めた。
しかしナガスネヒコは殺され、その一党は神武に帰順している。(※ナガスネヒコは「中津根彦」で、大和中央土着の王という意味である。)
そのナガスネヒコが仕えていたという饒速日は正式名を「櫛玉饒速日」というが、尾張一宮の真清田(ますみだ)神社には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」という長い神名で祭られているが、これによると天火明(あめのほあかり)と饒速日(にぎはやひ)とは同一人物である。
そうするとニニギノミコトの皇子たちに「天火明=ニギハヤヒ」と「ホホデミ」「ホスソリ」とは兄弟である。したがってニギハヤヒも南九州から大和へ「東遷」したとことになる。
以上が南九州からの「ニギハヤヒの東遷」である。
2回目は俗に「神武東征」と言われる東遷である。
この東遷は記紀ともにかなり詳しく描かれている。ただ、両者には内容の違いが多い。
古事記では、カムヤマトイワレヒコと兄のイツセノミコトの二人だけが高千穂の宮で東征を決意して出発したと説き、イワレヒコの皇子タギシミミの姿は見えない。
そして大和入りの後、新しい皇子(ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ)が生まれた後に突然登場し、腹違いの弟たちを殺害しようとして逆に殺されるという何とも情けない人物として描かれている。
日本書紀では、東征には「皇子たちと船乗りたち」とともに出発している。その中にはもちろんタギシミミもいたのだが、東征の行程の中でただ一か所「熊野」に到った時に「天皇、独り、皇子タギシミミと軍を率いて進み、熊野の荒坂津に到ります」というところで登場している。ここではタギシミミの個性も何も感じられず、ただ「タギシミミも東征に加わっていた」ということだけを提示したに過ぎない。
古事記では東征に参加したとも何も書かれず、書紀ではただ一か所で無個性な書きぶりである。つまりいないも同然のタギシミミであった。
私はこのことを重視し、タギシミミは神武天皇に仮託されている、つまり、神武天皇とはタギシミミその人だろうと考えたのである。
タギシミミとは記紀のどちらも記すように、南九州(古日向)のアイラツヒメの子である。この古日向は魏志倭人伝上の「投馬(つま)国」であり、その王の呼称は「彌彌(みみ)」であったから、記紀の記すタギシミミが古日向の生まれであることとは見事に対応している。
「タギシ」とは「舵(かじ)」のことであるから、「タギシミミ」とは「船舵(ふなかじ)王」と読み取れ、これは船団を組むにふさわしい王名である。そのタギシミミをあたかもいなかったかのように記した「東征説話」であったのだが、その理由は次のことだろう。
のちにクマソやハヤトという名称を付与され、大和王権にたびたび反旗を翻した古日向、すなわち投馬国のことを表には出したくなかった。このような編纂上のバイアスがタギシミミを蔑ろにし、あまつさえ「仁義に背く者」として殺害されるというストーリーに仕立て上げられたのである。
(※タギシミミが大和生まれの弟たちを亡き者としようとして逆に殺害される、というストーリーの解釈については、当ブログ「タギシミミはなぜ殺されたのか(記紀点描⑥)」に詳しい。)
いずれにせよ、南九州(古日向)からの「神武東征」は、実は、投馬国王タギシミミによる「東遷」であった。
それは大和生まれの皇子たちの名が揃って投馬国由来の「ミミ」名を持っていることと、2代目の綏靖天皇(幼名カムヌマカワミミ)の即位前紀に「タギシミミは年すでに長じ、久しく朝機を歴(へ)ていた」と書かれていることから明らかだろう。
要するにタギシミミこそが「神武天皇」であり、2代目の綏靖天皇の前に、「長いこと朝廷の機(はたらき)をしていた」ということで、タギシミミが神武天皇だったのだと言っているに等しいのだ。
タギシミミが「もとより仁義に乖(そむ)けり」(綏靖天皇即位前紀)として殺害するに値するような人物であったら、綏靖天皇の和風諡号に「神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミ天皇)」とタギシミミと同じ「耳(ミミ)」名を付けるわけがないであろう。どうせ造作なのだから構わないというのか。いや、造作だったらなおさら「ミミ」の痕跡を消し去ればよい。いとも簡単なことではないか。
以上から、いわゆる「神武東征」は南九州(古日向)の投馬国王タギシミミによる「東遷」であり、史実だったと考えてよい。
(※東遷の動機については、南九州を襲った「危機的状況」からの逃避的移住だったと思われるが、その点については次回に回したい。また3回目の東遷である「崇神東征」についても来月の「史話の会10月例会」で講義する予定である。)
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今月はテキスト『邪馬台国真論』の「神武東征の真相」に入った。
日本古代史学では「神武東征」はおろか、応神天皇あたりも怪しい、ただ雄略天皇は幼名の「ワカタケル」と剣に象嵌で刻まれたものが崎玉稲荷山古墳と熊本の江田船山古墳から出土しているので、どうやら実在したようだ。
つまり西暦でいえば470年前後の第21代雄略天皇の存在は間違いないだろうーーとの見解が主流である。
とにかくそれよりはるか前、20代も前の神武天皇など造作に過ぎない、ましてその初代天皇が非常に遅れた南九州からやって来たなど、おとぎ話の類だ、というわけで、初代神武天皇の事績はでっち上げだとされている。
ところが自分が魏志倭人伝の解釈に取り組み、「投馬(つま)国」が南九州にあったことを証明し、投馬国王の王の称号に「彌彌(みみ)」が使われていたことを知った時、記紀に記されている南九州の神武天皇の皇子に「タギシミミ」「キスミミ」がいることと、大和への東征を果たし「橿原王朝」を樹立した後に迎えた王妃イスケヨリヒメとの間の皇子たちの名が「ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ」と「ミミ」のオンパレードという記事から見て、南九州にあった「投馬国」からの東遷は間違いないと確信したのである。
以上、いわゆる「神武東征」とは南九州の投馬国からの東遷に他ならないという結論である。
そこで記紀の「神武東征」を調べてみよう。全くの出鱈目(造作)だったのだろうか、その判別やいかに。
まず私は九州からの東遷は3回あったと考えている。次の3回である。
1回目・・・ニギハヤヒの東遷
2回目・・・「神武」の東遷
3回目・・・崇神天皇の東遷
1回目は物部氏の祖「ニギハヤヒ」によるものである。
古事記では、ニギハヤヒは神武が大和入りして諸族を平定した最後に登場し、神武に対して自分も天津神の苗裔であることを示す「天津瑞(あまつしるし)」を献上している。
また書紀では、筑紫(九州)を出発して4年後の12月に大和の豪族ナガスネヒコを撃つのだが、ナガスネヒコはすでに天磐船(いわふね)に乗って天下りして来た「櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)」を主人として仕えていた、と言った。そして天津神の子である証拠の「天羽羽矢(あめのはばや)」と「天歩靫(あめのかちゆぎ)」を見せたところ、神武は「間違いない」と天津神の子であることを認めた。
しかしナガスネヒコは殺され、その一党は神武に帰順している。(※ナガスネヒコは「中津根彦」で、大和中央土着の王という意味である。)
そのナガスネヒコが仕えていたという饒速日は正式名を「櫛玉饒速日」というが、尾張一宮の真清田(ますみだ)神社には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」という長い神名で祭られているが、これによると天火明(あめのほあかり)と饒速日(にぎはやひ)とは同一人物である。
そうするとニニギノミコトの皇子たちに「天火明=ニギハヤヒ」と「ホホデミ」「ホスソリ」とは兄弟である。したがってニギハヤヒも南九州から大和へ「東遷」したとことになる。
以上が南九州からの「ニギハヤヒの東遷」である。
2回目は俗に「神武東征」と言われる東遷である。
この東遷は記紀ともにかなり詳しく描かれている。ただ、両者には内容の違いが多い。
古事記では、カムヤマトイワレヒコと兄のイツセノミコトの二人だけが高千穂の宮で東征を決意して出発したと説き、イワレヒコの皇子タギシミミの姿は見えない。
そして大和入りの後、新しい皇子(ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ)が生まれた後に突然登場し、腹違いの弟たちを殺害しようとして逆に殺されるという何とも情けない人物として描かれている。
日本書紀では、東征には「皇子たちと船乗りたち」とともに出発している。その中にはもちろんタギシミミもいたのだが、東征の行程の中でただ一か所「熊野」に到った時に「天皇、独り、皇子タギシミミと軍を率いて進み、熊野の荒坂津に到ります」というところで登場している。ここではタギシミミの個性も何も感じられず、ただ「タギシミミも東征に加わっていた」ということだけを提示したに過ぎない。
古事記では東征に参加したとも何も書かれず、書紀ではただ一か所で無個性な書きぶりである。つまりいないも同然のタギシミミであった。
私はこのことを重視し、タギシミミは神武天皇に仮託されている、つまり、神武天皇とはタギシミミその人だろうと考えたのである。
タギシミミとは記紀のどちらも記すように、南九州(古日向)のアイラツヒメの子である。この古日向は魏志倭人伝上の「投馬(つま)国」であり、その王の呼称は「彌彌(みみ)」であったから、記紀の記すタギシミミが古日向の生まれであることとは見事に対応している。
「タギシ」とは「舵(かじ)」のことであるから、「タギシミミ」とは「船舵(ふなかじ)王」と読み取れ、これは船団を組むにふさわしい王名である。そのタギシミミをあたかもいなかったかのように記した「東征説話」であったのだが、その理由は次のことだろう。
のちにクマソやハヤトという名称を付与され、大和王権にたびたび反旗を翻した古日向、すなわち投馬国のことを表には出したくなかった。このような編纂上のバイアスがタギシミミを蔑ろにし、あまつさえ「仁義に背く者」として殺害されるというストーリーに仕立て上げられたのである。
(※タギシミミが大和生まれの弟たちを亡き者としようとして逆に殺害される、というストーリーの解釈については、当ブログ「タギシミミはなぜ殺されたのか(記紀点描⑥)」に詳しい。)
いずれにせよ、南九州(古日向)からの「神武東征」は、実は、投馬国王タギシミミによる「東遷」であった。
それは大和生まれの皇子たちの名が揃って投馬国由来の「ミミ」名を持っていることと、2代目の綏靖天皇(幼名カムヌマカワミミ)の即位前紀に「タギシミミは年すでに長じ、久しく朝機を歴(へ)ていた」と書かれていることから明らかだろう。
要するにタギシミミこそが「神武天皇」であり、2代目の綏靖天皇の前に、「長いこと朝廷の機(はたらき)をしていた」ということで、タギシミミが神武天皇だったのだと言っているに等しいのだ。
タギシミミが「もとより仁義に乖(そむ)けり」(綏靖天皇即位前紀)として殺害するに値するような人物であったら、綏靖天皇の和風諡号に「神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミ天皇)」とタギシミミと同じ「耳(ミミ)」名を付けるわけがないであろう。どうせ造作なのだから構わないというのか。いや、造作だったらなおさら「ミミ」の痕跡を消し去ればよい。いとも簡単なことではないか。
以上から、いわゆる「神武東征」は南九州(古日向)の投馬国王タギシミミによる「東遷」であり、史実だったと考えてよい。
(※東遷の動機については、南九州を襲った「危機的状況」からの逃避的移住だったと思われるが、その点については次回に回したい。また3回目の東遷である「崇神東征」についても来月の「史話の会10月例会」で講義する予定である。)
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