鴨着く島

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応神天皇の時代①(記紀点描㉑)

2021-10-06 11:13:36 | 記紀点描
 【応神治世年代の特定】
応神天皇の時代も母の神功皇后時代と同様、半島情勢に深くかかわっていた。

日本書紀では応神紀において、事績を載せた紀年が元年から69年までで23年分ある中で、9年分が半島とかかわりのある記事である。

その中で、次の記事によって応神天皇治世年代を特定できる。(※崩御年を古事記が記しているので、最後に挙げた。)

・元年・・・皇太子(応神天皇)、即位せり。この年は太歳、庚寅(かのえ・とら)。
・3年・・・この年、百済の辰斯(シンシ)王、立ちて、貴国の天皇に礼なし。故に、紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木菟(づく)宿祢を遣わし、その礼なきをを噴譲(ころば)しむ。百済国、辰斯王を殺して謝りぬ。紀角宿祢ら、すなわち阿花を立てて王とし、帰りぬ。
・16年・・・この年、百済の阿花王、薨ず。天皇、直支(トキ)王を召して曰く「汝、国に帰りて位を継げ」と。
・25年・・・百済の直支(トキ)王、薨ず。すなわち子の久爾辛(クニシン)、立ちて王となる。
(※古事記・・・割注で崩御年を「甲午の年の9月9日」とする。)

3年条、16年条、25年条は、おそらく660年に滅亡後の百済から、渡来人(亡命王族)が持参した『百済記』による記事のようだが、3年の「阿花王の即位」は西暦392年、16年条の阿花王の死亡年は405年、25年の直支(トキ)王の死亡年は420年である。

以上から応神天皇の即位の年である「庚寅」は西暦390年と特定できる。神功皇后は「己丑(つちのと・うし)」の年に崩御したとあるので、これは完全に整合している。

即位の年はこれでいいとして、古事記による崩御年が「甲午(きのえ・うま)」なのが引っ掛かる。この応神治世に最も近い甲午は西暦394年であり、そうなると390年に即位してわずか5年で崩御したことになり、これはあり得ない。

とすると「甲午」なる年は誤りであり無視するか、「甲」か「午」のどちらかに誤りがあるのか、と選択を迫られる。

無視するのは簡単だが、これまで古事記に書かれた天皇の崩御年(干支)では、応神天皇の前後に治世のあった9天皇にその崩御年が記されており、おおむね年代的には正しいだろうとしてきた。

成務天皇(乙卯=355年)、仲哀天皇(壬戌=362年)、神功皇后(己丑=389年)、応神天皇(甲午=394年?)、仁徳天皇(丁卯=427年)、履中天皇(壬申=432年)、反正天皇(丁丑=437年)、允恭天皇(甲午=454年)、雄略天皇(己巳=489年)

であるが、応神天皇以外はほぼ間違いない年代特定であると思われるのに、ただ一人応神天皇だけが誤謬である、とするのは若干気が引けるのだが、上記の16年と25年条の百済王の死亡年を考えると、この甲午年はやはり誤りだと考えるほかない。

それでは「甲午」のうち「甲」が誤りか、「午」が誤りなのか、どちらだろうか。

「甲」が誤りだとしてこの前後の「午年」を探すと、406年が「丙午」であり、その次は418年の「戌午」である。

また、「午」の方が誤りだとすると、「甲」の年は、404年に「甲辰」があり、その次は414年の「甲寅」がある。

この4者を崩御年とみると、404年なら治世は15年、406年なら17年、414年なら25年、418年なら29年である。

そこで応神天皇紀で記事の記された紀年を見ると、元年から崩御の41年までに23年分あることが分かる。その23年が実際の統治年ではないかと考えると、414年崩御が最も近いことになる。

したがって私はこの414年崩御、すなわち390年から414年までの25年というのが応神天皇の統治期間としておおむね正しいと考える。

 【王宮を書かない日本書紀】
ところで、古事記には応神天皇の王宮として「軽明宮(かるのあきらのみや)」が記載されているのだが、日本書紀にはそれがないのである。

書紀には母の神功皇后が「磐余若桜宮」という王宮を建てたとあり、そうであるならば応神天皇も即位時に「若桜宮」を引き継いでもよさそうなものだが、それすら記されていない。応神にとって母の起こした宮殿は「そんなの関係ねー」存在だったようだ。

そもそも神功皇后も大和の地に無縁だったように見えるのだ。だからというわけではないが、応神も大和とはかなり縁がないように見える。

その代わり、22年条に不可解な記事がある。

<22年の春3月、天皇、難波に御幸(いでま)し、大隅宮にまします。>

はじめて王宮が記されるのが、何と22年目の記事である。その名は「大隅宮」。

この宮で、妃の吉備からやって来た兄媛(えひめ)が望郷の念を起こし、ついに吉備に帰るというストーリーが描かれ、さらに天皇自身が吉備を経巡り、吉備各地の豪族に出会い、それぞれの土地を安堵するという「巡見説話」が続く。

この大隅宮については逆に古事記には記されていないのだが、これも不審を倍加させる。

この大隅宮を注釈では、安閑天皇の2年(535年)条に見える「難波大隅島」のこととしている(今の大阪市東淀川区の東大道町と西大道町にかかる地域)。

しかし安閑天皇はこの「大隅島」に牛を放牧せよと命令しており、ここが応神天皇の大隅宮所在地であれば、応神崩御後まだ120年ほどしか経っていないわけで、旧跡においてそのような「不敬」なことはさせないであろう。

したがって大隅宮がそこにあったとは考えられない。ではどこだろうか?

私は古日向(南九州)の大隅半島にあったと考えている。もちろん応神時代に大隅が大隅と呼ばれていたわけではなく、7世紀後半に生まれた「大隅」という地名を昔にさかのぼらせてそう書いたのである。

41年条は応神天皇の崩御の年で、<天皇は明宮に崩御せり。時に御年111歳。(割注)、あるいは曰く、大隅宮にて崩御せり、と。>と書いているが、明宮とは古事記の宮殿名「軽島明宮」のことで、日本書紀では崩御の時にようやく古事記と同じ王宮名を書いている。

要するに、日本書紀にとって「軽島明宮」という王宮名は書きたくなかったとしか思われないのだ。特に「軽島」の方は、最後にやっと正式な王宮名を書いたと思っても単に「明宮」でしかない。

その理由を考えてみたいが、それは「軽島」を解釈した時に、ああ、なるほど、と納得がいったのである。

「軽島」は、大和の橿原市にある大軽町にあったというのが、通説である。だが、この辺りから宮殿跡を示すものは何も発見されていない。春日神社に王宮跡という石碑があり、付近には軽寺もあり、飛鳥時代の頃から開かれていた土地だが、軽島明宮の伝承地にはなっていない。

研究者によっては、応神天皇は仁徳天皇の仮託(分身)で、対半島政策を仮の応神天皇名で推し進めたように潤色した。そのため大和に王宮を建てたと書く必要がなかった、と考える人もいる。

私も応神天皇の「軽島明宮」が大和にあったとは考えていない。

それではどこにあったのか。

「軽島」を私は「カニ島」が本義と見るのである。応神天皇が宇治の木幡村で出会った「ミヤヌシヤカワエヒメ」に言問うた(言い寄った)時に、歌を詠み「この蟹は いずこの蟹 百伝う 角鹿の蟹」と言ったとあるが、この蟹がヒントになる。

角鹿は現在の敦賀のことだが、この敦賀は「笥飯(気比)宮」の所在地で、応神天皇がまだ幼い時に武内宿祢に伴われて角鹿に行き、笥飯大神を奉拝した所であった。また、大加羅国の王子のツヌカアラシトが漂着した場所であり、半島南部との交通の開けた所でもあった。

この「角鹿の蟹」こそが、「蟹(かに)島」こと「軽島」ではなかったか。

同時にまた「カニ島」は「鹿児(かに)島」の含意であるとも考える。南九州の鹿児島である。

南九州クマソの大首長であった武内宿祢は、腹違いの弟のウマシウチノスクネによって「武内は筑紫(九州)はもとより、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)をも糾合して、応神王権とは別に独立しようとしている」と讒言されたほどの勢力を南九州に有していた。

武内宿祢は仲哀天皇を産んだヤマトタケルの本身であるから、応神天皇にとっては実の祖父に当たる南九州の王である。武内の有する南九州の水運は朝鮮半島への渡海に精通しており、半島出兵の水軍も掌握していたから、応神天皇時代の半島攻略には欠かせない存在だった。

したがって応神天皇は「角鹿宮」とともに、南九州の宮すなわち「大隅宮」を建てていたと考えて無理はない。

応神天皇は仁徳天皇の分身で、主に半島出兵などにかかわっていた時代の仁徳天皇の仮託であり、実在しない架空の天皇であるーーという研究者の説を、私は次のように言い換える。

応神天皇は414年頃まで仁徳天皇と併存していた天皇で、主に九州に在住し、半島政策に没頭し、特に高句麗との戦いに出兵していた天皇であり、最後は祖父の武内宿祢の地、南九州(古日向)の「大隅宮」(鹿児(かに)島宮)で亡くなった可能性のある天皇であるーーと。