【応神朝と仁徳朝の並立年代】
「応神天皇の時代②」では、応神王朝と仁徳王朝は別の王朝で並立していた時代があった――という結論を得たが、その並立年代はいつの頃だろうか。
まず、応神王朝が西暦390年に始まったことはすでに述べた。また応神王朝の終焉は②において推論したように、414年前後であり、仁徳王朝の終焉は427年であった。
あとは仁徳王朝の始まりが分かれば、おのずから並立年代は判明する。しかしこれが難しい。なぜなら仁徳天皇紀には、応神天皇紀にはある百済記引用の百済王の即位や死亡年の記事がないからである。
そこで全く別の視点から仁徳天皇の即位年を特定してみたい。
それは日向の諸県君の娘である「髪長媛(かみながひめ)」のオオサザキへの入内記事である。
諸県(もろかた)とは南九州(古日向)のうち、今日の宮崎県南部と南西部一帯の地域で、広域の都城市から西へ小林市・えびの市まで、また最南部は鹿児島県志布志市と大崎町の臨海地帯までの広大な地域を指している。
この地域は南九州の一大穀倉地帯で、古日向の中心と言ってよかった。ここの統治者が諸県君であり、応神王権側の一大勢力である。
娘の「髪長媛」の「髪」は「神」に通じ、「神長媛」とは諸県の祭司長と言える存在だった。
そのことを裏付ける歌を、髪長媛を貰い受けたオオサザキ(仁徳天皇)が次のように詠んでいる。
<道の後(しり) こはだおとめを 神の如(ごと) 聞こえしかど 相い枕まく>
歌の意は「はるか遠い所の乙女は 神のように素晴らしいと 聞いていたが いまこうして 共寝しているのだ」だが、この時の「神の如」という表現に、髪長媛の存在感の大きさが表されている。
要するに髪長媛は南九州の諸県地方にとっては、邪馬台国女王のヒミコのような存在だったのである。
つまり髪長媛は諸県において祭祀を司る最重要な女性であったわけで、その女性がはるか中央の仁徳に輿入れするということは諸県のみならず南九州(古日向)の仁徳王権への恭順に等しかった。
この仁徳への輿入れの記事は応神13年のことであった。応神元年から13年までに記事を載せているのは10年分であるから、元年の西暦390年プラス9年で、西暦399年のことと判明する。
したがって仁徳天皇の即位は399年頃として大過ない。
そうすると応神天皇の治世は390年から414年で、仁徳天皇の治世は399年から427年であるから、並立の期間は399年から414年の15年ということになる。
ただ応神天皇の後に即位したのはウジノワキイラツコという和珥(わに)氏の血筋の皇子であったが、仁徳天皇とは3年にわたり後継争いをしており、414年からの3年間は「宇治天皇」(播磨風土記)の時代があったと考えるので、414年から416年まではウジノワキイラツコが天皇位にあったとみる。
そうなると仁徳王朝は「応神・宇治王朝」とは17年間の並立期間があり、その後、427年の仁徳の死までの12年間は単立の王権であったとなる。
応神王権は九州に張り付いて半島の勢力圏にあった弁韓(任那)を足掛かりに、高句麗によって浸食されつつある百済を救援すべく出兵をしていた(高句麗「広開土王碑」)のだが、仁徳王権は難波にあって半島との関りは最小限度で済んでいた。
そのことが仁徳紀に半島に関する記事が著しく少ない理由だろう。
さて、上代の王権は天皇の統治能力もさることながら、妃に迎えるヒメの祭司能力に負うところが大きかった。次代の仁徳天皇が腐心したのもその祭祀にかかわる女性の入内であった。この後は記紀点描「仁徳天皇」に続く。
「応神天皇の時代②」では、応神王朝と仁徳王朝は別の王朝で並立していた時代があった――という結論を得たが、その並立年代はいつの頃だろうか。
まず、応神王朝が西暦390年に始まったことはすでに述べた。また応神王朝の終焉は②において推論したように、414年前後であり、仁徳王朝の終焉は427年であった。
あとは仁徳王朝の始まりが分かれば、おのずから並立年代は判明する。しかしこれが難しい。なぜなら仁徳天皇紀には、応神天皇紀にはある百済記引用の百済王の即位や死亡年の記事がないからである。
そこで全く別の視点から仁徳天皇の即位年を特定してみたい。
それは日向の諸県君の娘である「髪長媛(かみながひめ)」のオオサザキへの入内記事である。
諸県(もろかた)とは南九州(古日向)のうち、今日の宮崎県南部と南西部一帯の地域で、広域の都城市から西へ小林市・えびの市まで、また最南部は鹿児島県志布志市と大崎町の臨海地帯までの広大な地域を指している。
この地域は南九州の一大穀倉地帯で、古日向の中心と言ってよかった。ここの統治者が諸県君であり、応神王権側の一大勢力である。
娘の「髪長媛」の「髪」は「神」に通じ、「神長媛」とは諸県の祭司長と言える存在だった。
そのことを裏付ける歌を、髪長媛を貰い受けたオオサザキ(仁徳天皇)が次のように詠んでいる。
<道の後(しり) こはだおとめを 神の如(ごと) 聞こえしかど 相い枕まく>
歌の意は「はるか遠い所の乙女は 神のように素晴らしいと 聞いていたが いまこうして 共寝しているのだ」だが、この時の「神の如」という表現に、髪長媛の存在感の大きさが表されている。
要するに髪長媛は南九州の諸県地方にとっては、邪馬台国女王のヒミコのような存在だったのである。
つまり髪長媛は諸県において祭祀を司る最重要な女性であったわけで、その女性がはるか中央の仁徳に輿入れするということは諸県のみならず南九州(古日向)の仁徳王権への恭順に等しかった。
この仁徳への輿入れの記事は応神13年のことであった。応神元年から13年までに記事を載せているのは10年分であるから、元年の西暦390年プラス9年で、西暦399年のことと判明する。
したがって仁徳天皇の即位は399年頃として大過ない。
そうすると応神天皇の治世は390年から414年で、仁徳天皇の治世は399年から427年であるから、並立の期間は399年から414年の15年ということになる。
ただ応神天皇の後に即位したのはウジノワキイラツコという和珥(わに)氏の血筋の皇子であったが、仁徳天皇とは3年にわたり後継争いをしており、414年からの3年間は「宇治天皇」(播磨風土記)の時代があったと考えるので、414年から416年まではウジノワキイラツコが天皇位にあったとみる。
そうなると仁徳王朝は「応神・宇治王朝」とは17年間の並立期間があり、その後、427年の仁徳の死までの12年間は単立の王権であったとなる。
応神王権は九州に張り付いて半島の勢力圏にあった弁韓(任那)を足掛かりに、高句麗によって浸食されつつある百済を救援すべく出兵をしていた(高句麗「広開土王碑」)のだが、仁徳王権は難波にあって半島との関りは最小限度で済んでいた。
そのことが仁徳紀に半島に関する記事が著しく少ない理由だろう。
さて、上代の王権は天皇の統治能力もさることながら、妃に迎えるヒメの祭司能力に負うところが大きかった。次代の仁徳天皇が腐心したのもその祭祀にかかわる女性の入内であった。この後は記紀点描「仁徳天皇」に続く。