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雄略天皇②~倭の五王の「武」か~(記紀点描㉙)

2021-10-24 11:18:06 | 記紀点描
雄略天皇の幼名(和風諡号)は古事記では「大長谷若建」であり、また日本書紀では「大泊瀬幼武」と書き、ともに「オオハツセワカタケル」と読ませる。「オオハツセ」は宮殿のあった大和の地名であるから、基本の幼名は「ワカタケル」である。

このワカタケル名が「大王」を付けて、熊本と埼玉の二か所の古墳から発掘された鉄刀と鉄剣に刻まれた銘文中にあったということで、雄略天皇の実在性が俄然、確実性を帯びた。

熊本県のは江田船山古墳で、銀象嵌の大刀の刀身に漢字75文字が刻まれており、「治天下〇〇〇〇〇大王世」とある部分が「ワカタケロ」と読め、「ロ」は「ル」とも重なるので、これは「ワカタケル大王」としてよいとなった。

また、埼玉県のは崎玉古墳中の稲荷山古墳で、金象嵌の鉄剣の身に漢字115文字で刻まれており、当地の豪族「乎獲居臣(おわけのおみ)」が先祖名および今仕えている大王に対して「奉事根源」(仕え奉まつりし根源=由来)を書いたものである。

最後の方に、乎獲居臣は代々武人として仕えており、今の「獲加多支鹵(ワカタケロ)大王」に到るまで「杖刀人首」(杖刀人=武人の長)であったことが見え、ここにも「ワカタケル大王」が刻まれていた。

しかもこの稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文には「辛亥の年の7月に記す」という年月まで刻まれており、この辛亥年を西暦471年と特定し得ることから雄略天皇の統治時代(457年~489年)に収まるとして、両銘文に記された「ワカタケル大王」は雄略天皇で間違いないことになった。

【倭の五王】

邪馬台国関連の記事の載った「魏志倭人伝」(魏書)と後継の王朝「晋」についての『晋書』からは、倭国についての記事が西暦289年までしか見られない。その後、西暦413年になって倭国の記事が再び『晋書』に現れる。したがって300年代については「空白の4世紀」と呼ばれている。

400年代に入ってからは中国の正史に「倭王」の名が記されるのが当たり前になる。というのは倭王が大陸王朝に対して「爵号」を求めて朝貢することが多くなったためである。

『宋書』によると、倭王「讃」が421年と425年の2回、「珍」が438年に1回、「済」が443年と451年の2回、「興」が462年に1回、「武」が478年に1回、合計7回だが、倭王の名は出さない「遣使貢献」の記事がその間に1回(430年)あるから、宋王朝の時代に倭国から8回の遣使貢献があったことになる。

ここに出てくる倭王の讃・珍・済・興・武を「倭の五王」と言っている。

さらに宋王朝の後継である南斉王朝に対して、倭王「武」が「鎮東大将軍」の爵号を受け(479年)、次の王朝である梁から同じ倭王「武」が「征東将軍」の爵号を授与されている(502年)。

この五王を記紀上の天皇と考えると、名に天皇に相当するのかが古くから探求されてきた。

大雑把に言って候補は400年代とされている「応神」「仁徳」「履中」「反正」「允恭」「安康」「雄略」の各天皇である。

これでは7天皇なので、5天皇に絞らなければならない。

そこで、まず『宋書』の記事に記されている親子関係と兄弟関係を見ると、讃と珍は兄弟とある。そうなるとこの7天皇の中では「応神」と「仁徳」は外され、「履中」と「反正」が該当する。

次に済だが、済は誰の子とも兄弟とも書かれずに独立して記され、子に興と武がいるように書かれている。そうなると済は「允恭」に当たり、確かに二人の皇子がいる。それは「安康」と「雄略」である(允恭は履中・反正と兄弟だが、その点は抜けてしまったと考えておく)。

しかし讃を「履中」とすると、履中天皇は在位が426年から432年であるから、宋書の讃の遣使貢献年(421年・425年)に該当せず、また珍が「反正」では、これもまた在位年代(433年~437年)と遣使貢献年(438年)とは合致しない。

次の済だけは「允恭」としたとき、允恭天皇の在位は438年から454年であるから、遣使貢献年の443年と451年が在位期間のうちに入っている。

興を「安康」とすると、興の遣使貢献年は462年であり、これは安康天皇の在位期間から外れてしまう。

最後の武だが、武を「雄略」とすると、雄略天皇の在位期間は457年から489年であるから、遣使貢献した478年というのは該当する。

以上の在位期間の内に宋への遣使貢献年が含まれているかどうかの比較検討からは、3番目の倭王「済」と5番目の倭王「武」については、400年代に在位した7天皇のうち允恭天皇と雄略天皇が該当する可能性が高いことが分かった。

しかし宋の次の南斉に代わって王朝を築いた梁の『梁書』には上で触れたように、梁の武帝が即位した西暦502年に、武帝は倭王武に対して「征東大将軍」の爵号を勅命しており、これが物議をかもしている。倭王武が雄略天皇であったとき、502年は雄略の在位期間(457年~489年)を大きく逸脱してしまうのである。

【狗奴国王の可能性はないか?】

『梁書』の「諸夷・東夷伝」によると、「倭国」についておおむね次のように書かれている。

正始年間(240年~248年)に卑弥呼が死んだので、男王を立てたが国中が服さず、・・・卑弥呼の宗女「台与」(トヨ)を立てて王とした。その後は男王を立て、みな中国の爵号を受けた。
  
 晋の安帝の時、倭王賛がいた。賛が死んで弥が立ち、弥が死んで子の済が立った。済が死に、子の興が立ち、興が死ぬと弟の武が立った。

 南斉の建元年間(479年~582年)、武を「安東大将軍」から「鎮東大将軍」に進めた。

 高祖(武帝)は即位すると、武を「征東大将軍」に任命した。>

以上のように、梁書では倭王済は弥(珍)の子であるとしており、この五王は家系を同じくする三世代だったことが分かる。ところがそうなると、済を生んだ弥(珍)は「仁徳」ということになってしまい、賛が浮いてしまう。賛が応神であれば弥(珍)と兄弟になってしまう。

結局、『宋書』においても『梁書』においても、「倭の五王」を記紀における400年代の天皇に当てはめようとしても無理があるのだ。

そこで、この『梁書』の下線部分の描写に注目してみたい。

この部分は邪馬台国こそが「倭国」であるとみなしているわけで、その倭国の女王卑弥呼が247年に死に、後継に一族の少女トヨが立ったことをまず記している。

注目すべきはその次の一文である。

「その後」とはつまり女王トヨが死んだ後で、トヨの後継は女王ではなく男王を立てたのである。さらに、その後の男王たちは「みな中国の爵号を受けた」とあるではないか。

ここから類推してみると、400年代当時の倭国とはかつて女王卑弥呼のいた邪馬台国に他ならず、卑弥呼が死に、次の女王トヨが死んだあとは男王たちが立ち、彼らはみな大陸王朝に遣使貢献し、それぞれが爵号を受けていた。その記事こそが宋書および梁書に記載されたいわゆる「倭の五王」に関する記事であった、となる。

もう一つ考察したいのが倭王武の「上表文」である。

そこには大略次のように書かれている。

<我が国ははるか遠くにございます。昔からわが祖先が甲冑を着て山川を跋渉して参りました。(中略)貴国に参上したいのですが、途中を高句麗が無道にも邪魔をしております。(中略)私の亡き父の済はこの強敵を打ち砕こうと大挙して攻めようとしましたが、にわかに父と兄を失い、今は諒闇に祈るばかりで、挙兵することができませんでした。

しかし今や亡き父と兄の志を遂げようと致しております。(中略)もし皇帝の徳を頂ければ、強敵を打ち破って平定し、初志を貫く所存です。願わくば、「開府儀同三司」の爵号を頂戴したいと存じます。>

このように上表しているのだが、「にわかに父と兄を失い」という下線の箇所が問題である。

記紀の描く400年代の天皇歴代で「にわかに父と兄を失う」という記事は存在しない。武を雄略天皇とした場合でも同様で、父の允恭天皇と兄の安康天皇が同時に死亡してはいない。したがってこの上表文を見る限りでは、武が雄略天皇である可能性は極めて低いのである。

以上から私は「倭の五王」というのは、梁書にあるように、当時の邪馬台国とそれの後継国家こそが倭国であり、大陸王朝へ遣使貢献していたと考えたい。

具体的に言うならば、私見の邪馬台国(八女邪馬台国)は二代目女王のトヨの時代に南の狗奴国(菊池川以南の熊本県領域)から侵略された。女王トヨは豊前方面に逃避したが、八女邪馬台国は狗奴国によって支配されることになった(西暦288年頃)。

つまり八女邪馬台国は狗奴国の領域になったのであり、そこには当然新しい王が赴任する。彼らはすべて男王だったはずで、大陸が南宋によって統一されると爵号を求めて、遣使貢献し始めたのだろう。

倭王武の上表文に書かれた「父兄をにわかに失う」目に遭った王が狗奴国にはいたに違いない。のちの「筑紫の君・磐井」の祖父か父であったのかもしれない。

(※以上は試論である。ただ、いずれにしても、「倭の五王」は400年代の畿内天皇家の系譜には合致しないということだけは言えるだろう。)