鴨着く島

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漢字の伝来と使用(記紀点描㉚)

2021-10-27 14:39:11 | 記紀点描
【漢字の伝来】

漢字そのものが公式に列島に伝来したのは、記紀によれば応神天皇の時代である。

応神天皇の15年8月の記事に、<百済の王、阿直伎(アチキ)を派遣して、良馬を二匹貢献した。(中略)阿直伎、よく経典を読めり。即ち太子ウジノワキイラツコは師とし給う。>とあり、応神天皇の皇太子であるウジノワキイラツコが、百済からやって来た阿直伎(アチキ)という使者に経典を習ったという。

この時漢字で書かれた正式な経典を阿直伎が持参していたのかどうかは分からないが、応神天皇は「もっと学識の優れた師匠はいないか」と催促したところ、阿直伎はそれならということで、王仁(ワニ)という者を紹介したので、荒田別と巫別の2名を百済に派遣して連れて来させた。

応神16年に王仁が渡来し、この時は正式な経典を種々持参しており、ウジノワキイラツコは本格的に漢文を習得し始めた。

これが正式な漢字伝来ということになる。同じ16年条には、<この年、百済の阿花王(第17代阿莘王)みまかりぬ。>とあることから、この年とは西暦405年であると分かる。皇太子のウジノワキイラツコが列島で最初の漢字習熟者だということも。

(※古事記「応神記」によると、応神天皇の崩御年は412年であり、その後皇子のウジノワキイラツコとオオサザキが後継を3年間譲り合い、結局ウジノワキイラツコが自殺したので、オオサザキが即位した。仁徳天皇である。しかし播磨風土記には「宇治天皇」という記載があり、後継の譲り合いをしたという3年は、実質的に宇治天皇すなわちウジノワキイラツコが天皇であった可能性が高い。

 宇治地方(淀川から木津川流域)と奈良県北部の和珥氏の勢力を背景にしたウジノワキイラツコと、河内地方から大和川流域を勢力下においたオオサザキ(仁徳)との後継争いがあり、結果として仁徳側が勝利を収めたのである。)

ところで、『三国史記』の「百済本記」第13代近肖古王の項によると、その時代(346~375年)以前には、百済はまだ文字を記すことができず、高興という博士を招来して初めて記録ができるようになった、とあり、百済もウジノワキイラツコが漢字を習得した頃からわずか50年前まで文字の使用はなかったと言っている。

要するに魏書などでいう「東夷諸国」(朝鮮半島と倭人列島)で、文字(漢字)が正式に使用されるようになったのは、4世紀後半ということになる。

【漢字使用の証拠】

列島で漢字を正式に紙もしくは木片(木札)に書き記すようになったのは7世紀以降だが、それ以前ではいくつかの「金石文」の発見・発掘によって、わが国で最初期の「漢字の使用」が明らかになっている。

その証拠の金石文とは(1)東大寺山古墳出土の鉄刀銘 (2)石上神宮の七枝刀銘 (3)隅田八幡宮の人物画像鏡銘 (4)稲荷山古墳出土の鉄剣銘 (5)江田船山古墳出土の太刀銘 (6)千葉稲荷台1号墳出土の鉄剣銘 (7)島根岡田山1号墳出土の鉄刀銘 などである。

(1)東大寺山古墳出土の鉄刀銘(意訳して示してある)

 <中平〇年五月、良き練がね(良質の鉄)で作ったもので、天上でも天下でも幸運をもたらす・・・>

東大寺山古墳は奈良県天理市櫟本町にある前方後円墳で、全長130メートル、4世紀半ばの造営とされており、一帯は和珥氏の勢力圏であったので、和珥氏の首長が埋葬されていると考えられている。

副葬品は数千点に及び、鉄刀だけでも7振りもあったという途轍もない権力者の墓であった。その一本に「中平〇年」と金象嵌がされていた。中平は後漢の霊帝時代の年号で、西暦184年から190年までを指すから、上にあげた7つの金石文では最も古い。

この銘文からわかるのは鉄刀が造られた年号だけで、誰が、誰に、何のために作ったかは不明である。しかもこの銘文を刻んだのは倭人でないことも明白で、列島に漢字がもたらされた400年頃からすれば、200年以上もさかのぼることになる。

おそらく和珥氏の祖先にあたる人物(おそらく武将)が、半島に居た頃に後漢の誰かから手に入れた伝世物だろう。一番可能性が高いのは、神功皇后が長門の豊浦宮から畿内に向かう途中で押熊王の叛乱に出くわすのだが、その押熊王と戦って勝利した「武振熊(たけふるくま)」という将軍だろう。この人物は「和珥氏の祖」と形容されている。ただし東大寺山古墳に葬られた時期としては4世紀末頃ではないか?

(2)石上神宮の七枝刀銘(同上)

<泰和4年5月16日、百錬の鉄をもって七枝刀を造る。百人の兵を遠ざけることができる。(中略)先の世以来、このような刀は有らず。百済王の世子(太子)奇生聖音、それゆえ倭王旨のために造りて、後世に伝えたい。>

泰和とは東晋の年号で「太和」というのがありその誤字だろうと言われている。西暦の369年である。

制作の年月日まで記録されているのは稀であるが、それだけこの七枝刀の贈り主は貰い主に対し、強く明確な贈呈の意志を持っていたということでもある。

その贈り主とは「百済王の太子(跡継ぎ)である奇生聖音」という人物で、倭王で旨(し)に対して贈った物である。

この西暦369年時点での百済の王は「百済本記」によると「近肖古王」で治世年代は346年から375年である。すると太子は子の「近仇首王」であるが、ここに刻まれた「奇生聖音」という名とは似ても似つかない。強いて言えば近仇首王の幼名は「貴須」(キス・キシュ)であるから、「奇生(キショウ)」と重なり、「聖音」は美称ででもあろうか。

実はこの話を裏付ける記事が日本書紀にはあるのだ。それは神功皇后の52年条の記事である。(以下の引用は例によって省略かつ意訳してある)

<秋9月10日に、久氐(クテイ)等(百済の臣)、千熊長彦(ちくま・ながひこ=倭人)に従いて参りけり。すなわち七枝刀一振りと七子鏡一面、そのほか種々の貢献物があった。使者の久氐は「我が国の西を流れる川の源の谷那鉄山から採れた鉄を使って作りました。永きよしみのため聖朝(倭国)に奉納いたします。」と言った。>

この記事の後の55年条には「百済王の近肖古が死んだ」とあり、また翌年56年条には「百済の王子貴須、立ちて王となる」と書かれている。近肖古王の死亡年は西暦375年で、翌376年に太子の貴須が即位して近仇首王となっていることは分かっているので、この52年条の出来事は372年のことになる。

369年(太和4年)に百済の谷那鉄山で採れた鉄を練りに練って作り上げた世にも珍しい「七枝刀」は、倭王「旨」が百済のために支援してくれたことと、これからも支援を頼みたいがゆえに、特別に製作した――ということがよく伝わる銘文である。

この倭王旨(し)とは普通に考えれば神功皇后のことだろう。「オキナガタラシ」という和風諡号の最後の「シ」をとり略号化して「シ(旨)」としたと思われる。神功皇后はいわゆる「新羅征伐」を敢行しており、任那のみならず百済にとっては同盟国倭の王でもあった。

この銘文は同時にまた、369年という時点で、百済ではすでにこのような漢文を取り入れたことを示す貴重な証拠品でもある。倭人はまだ漢文は作れなかったが、読んで意味をとることくらいはできたに違いない。(※もっとも、漢字の読み書きのできる渡来人はいただろう。)

(3)隅田(すだ)八幡宮の人物画像鏡

これは剣または太刀に刻まれたものではなく、鏡の周縁にレリーフされた銘文である。

<癸未年八月、日十大王年(与)、〇弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遣開中費直・穢人今州利、二人等、取白上同二百旱、作此鏡。>

「癸未(みずのと・ひつじ)は西暦年で表した場合、383年・443年・503年という候補があり、いまだに史学者の間で決着を見ていない。

「日十大王」とは「日下王」(大草香皇子)であり、次の「年」は「与(~と)」に見立てる考えがあるが、その方がいいようである。

というのは次の「意柴沙加宮」が「おしさかのみや」であるのは確実で、この「おしさか」は「押坂」であり、允恭天皇の皇后が「押坂オオナカツヒメ」であった。したがって私見ではこの癸未(みずのと・ひつじ)の年は443年ということになる。

すると前半は「日下大王たる大草香皇子と、腹違いの弟に当たるオアサヅマワクゴ皇子(允恭天皇)とが、押坂の宮に居た時に」となる。大草香皇子は仁徳と日向髪長媛との間の子であり、オアサヅマワクゴ皇子は仁徳と葛城イワノヒメとの間の子であり、腹違いの皇子同士なのだが、オアサヅマの方は子供の頃極めて体が弱く、新羅から来た使者(薬師)によって救われたという事績があった。

一方の大草香皇子はそのような問題なく、反正天皇亡きあとは大草香皇子が天皇位に就いて何らおかしくはなかった。

允恭天皇の即位前紀にあるように、病弱のオアサヅマ皇子は即位を逡巡していたのだが、その間、暫定的に大草香皇子が「摂政」的に天皇の代行をしていた。その場所が「意柴沙加宮(押坂宮)」ではなかったか。

しかし結局は、半島への出兵で勢力を消耗していた日向系の大草香皇子に対して、仁徳勢力の本流を担ったオアサヅマ皇子を推す勢力が、大草香皇子の即位を阻んだのだろう。

いずれにしても、半島系の倭人「斯麻(シマ)」という人物が、大草香とオアサヅマ両皇子のために、「開中費直(かわちのあたい)」と「穢人(わいじん)今州利(いますり・コンスリ)の二人に命じて銅を製錬して、二人の長寿を願い、鏡を作って上納した、という銘文である。

「開中費直(かわちのあたい)」とはおそらく列島に経典を持参した王仁の子孫「西文直(かわちのあたい)」の一人で、銘文作成を担当したようだ。この開中費直(かわちのあたい)を倭人と考えるならば、倭人として初めてまとまった漢文を作った人物になる。

また、穢人(ワイ人)の「今州利(いますり)」という人物だが、この人が銅の精錬と鏡の制作技術を担当したのだろう。

「穢人」とは魏志濊(ワイ)伝によれば、漢が朝鮮半島の北部に楽浪郡を設置(前108年)するまではそこを本拠地としていた種族であり、楽浪郡の設置によって東側に追いやられ、また王族の多くはさらに北部の高句麗や扶余に移動している。

この440年代という時代にはすでに「濊国」は無く、半島は高句麗、百済、任那(倭国半島部)、新羅の4つの国に収れんしていたのだが、出身地としてかつては存在した国名(地方名)を名乗ることは不思議ではない。むしろ今州利(いますり)にしてみれば今は亡き祖国「濊」を誇りに思い、自称していたのかもしれない。

(4)さきたま古墳群の稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘

(表)<辛亥の年7月中に記す。乎獲居(おわけ)臣の上祖の名は意富比垝(おほひこ)・・・(中略)多加披次獲居(たかはしわけ)・・・。>

(裏)<・・・乎獲居(おわけ)臣は、世々、杖刀人の首(おびと)として仕えて今に至る。獲加多支鹵大王の王宮が斯鬼宮であった時、私は天下を佐治していた。この百錬の利刀を作らしめ、私が大王に仕え奉るその由来を記すものである。>

この金象嵌の銘文は、埼玉地方の豪族であった「オワケノ臣」の家系を記すとともに、ワカタケル大王が斯鬼宮(しきのみや)いた時に「杖刀人の首(おびと)」として仕えていたことを伝えようとしたものである。

ワカタケル大王とは雄略天皇のことだが、ここで不可解なのが「斯鬼宮(しきのみや)」である。雄略天皇の宮殿は桜井市の山間、初瀬川沿いの「長谷(はつせ)の朝倉宮」なのである。

では「斯鬼宮(しきのみや)」とはどこの誰の宮なのだろうか?

古事記にその解明の手掛かりがあった。

雄略記によれば、雄略天皇の皇后は大草香皇子の妹・若日下部(わかくさかべ)王であった。この皇女を訪ねて河内に出かけた時に、堅魚(かつお)木を上げて作られている立派な家があった。

堅魚木を上げて作られるのは天皇の宮殿しかないと思っていた雄略天皇が、その家の持ち主を尋ねると、「志幾(しき)の大県主」の家であった。

「斯鬼宮(しきのみや)」とは、この「志幾(しき)の大県主」が堅魚木を上げて作った宮のことではないだろうか?

行旅中に三重の能褒野で亡くなったヤマトタケルの霊魂が白鳥となって飛び、河内の志幾に留まったとされる(景行天皇記)が、そこを本拠とする
「志幾(しき)の大県主」こそが、大悪天皇と言われた時代の雄略天皇だった可能性を考えてみたい。

ワカタケル大王が初瀬の朝倉という桜井市の山間部に宮殿を作り、オワケ臣のような「杖刀人首」を侍らせていたとは考えにくいのである。

さて、この銘文が記す「辛亥」の年だが、これは西暦471年としてよい。雄略天皇の治世年代(457年~489年)に該当している。

この時代になると倭人でもこのような漢文が書けたのだ。乎獲居(おわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加披次獲居(たかはしわけ)というように、すべて後の「万葉仮名」として使われる漢字の用法にかなっている。

(5)江田船山古墳出土の銀象嵌太刀銘

<天下を治めし獲〇〇〇鹵大王の世、典曹人である無利弖(むりて)が、八月中、よく練り上げた刀を奉納いたします。この刀は子孫の長寿を蒙らしめる物であります。刀作りを指揮した者の名は伊太加(いたか)であり、銘文を作成した者は張安(チョウアン)であります。>

熊本県玉名市の江田船山古墳はさほど大きな古墳ではないが、横穴式石室の中に立派な家形石棺が収められていた。

この銘文に見える「獲〇〇〇鹵大王」は埼玉の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれたワカタケル大王と同じで、この古墳の主「無利弖(むりて)」も畿内のワカタケル大王に仕えた人物ということになる。向こうは杖刀人(武人)として、こちらは典曹人(文官)として仕えており、様々な仕え方があったと分かる点で興味深い。

稲荷山古墳の鉄剣銘には実際に作刀した人物とおよび銘文を作成した人物のことは刻まれていないが、こちらはそのどちらも書かれている。

それによると作刀者は伊太加(いたか)であり、銘文の作成者は張安(チョウアン)である。前者が倭人であることは疑いがないが、後者はおそらく渡来中国人であろう。

直接中国から渡って来たのか、半島を経由したのかは当然不明だが、江田船山古墳の所在する玉名市は倭人伝時代の「狗奴国」の領域であり、どちらにしても、畿内ではない地方豪族が渡来人を抱えていたことが分かるという点において貴重な史料である。

(6)及び(7)

(6)は千葉県稲荷台1号墳から出土したもので、「敬安」という人物が○○王から賜与されたことが刻まれている。

また(7)は島根県岡田山1号墳出土の鉄刀銘で、「額田部」という部民制度の存在をうかがわせる史料である。

どちらも倭人自身の作文であると思われる。作刀年代は不明であるが、6世紀以前であることは間違いない。


以上が7世紀になって文字(漢字)が公式に採用される前の文字資料である。

5世紀の初めに応神天皇の子のウジノワキイラツコが最初に学んだ漢文はおそらく儒教の経典であったが、6世紀に仏教の経典がもたらされて以降、漢字文化は倭人の間に急速に浸透していったものと思われる。