【はじめに】
古事記では第26代継体天皇(在位507~531年)の事績について、越前が出自であるということと、この天皇の時代に筑紫の君・磐井の叛乱(527~8年)に対して物部アラカビと大伴金村を派遣して磐井を殺したことが事績らしい事績であり、あとは宮殿名と皇后・妃及びその間の子供(皇子・皇女)の列挙しかない。
この記述の仕方は、後続の安閑天皇以下、古事記の記載では最後の第33代推古天皇(在位593~628年)まで、ほぼ踏襲され、まるであの「欠史八代」と言われる第2代綏靖天皇から9代開化天皇の8代の天皇に比べられる「欠史」ぶりである。
継体天皇から推古天皇まではあの「欠史八代」の数字に合わせたかのように同じ8代であり、古事記最後の推古天皇までの8代を「第2次欠史八代」と呼びたい。
さてこの「第2次欠史8代」の時代に、物部氏や大伴氏に代わって大きく勢力を伸ばしたのが「蘇我氏」である。
【蘇我氏の台頭】
記紀に蘇我氏の名が現れるのは、第8代孝元天皇の系譜においてであり、それによると蘇我氏は武内(タケシウチ)宿祢の苗裔である。
古事記「孝元天皇記」によると、孝元天皇とイカガシコメ(ウチシコメの娘)との間に生まれた「比古布都押之信(ヒコフツオシのマコト)」がヤマシタカゲヒメ(ウズヒコの妹)を娶って生まれたのが武内宿祢であった。武内宿祢は孝元天皇の孫ということになる。(※腹違いに味師内宿祢=ウマシウチ宿祢がいる。)
この武内宿祢には9人の男子が生まれており、その一人が蘇我氏の祖の「蘇我の石河宿祢」で、割注によると「蘇我臣、川邉臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣等」に岐れている。
「宣化天皇紀」の元年(536年)条には、「大伴金村大連、物部麁鹿火大連に並んで蘇我稲目宿祢が大臣に就任した」(意訳)とある。蘇我氏で最初に政府高官として登場したのが「蘇我稲目(イナメ)」であり、稲目は始祖の石河宿祢から数えて5代目の当主ということになっている。
大伴氏と物部氏がいわゆる「軍事氏族」であるのに対して、蘇我氏は大臣すなわち文官系の最高執政者として朝廷の中枢に加えられたということである。
最高執政官としての蘇我稲目は朝鮮半島に兵力を送って勢力が削がれていく大伴氏や物部氏を尻目に、地方の豪族たちの米を中心とする経済基盤に着目し、それを中央王権に貢がせるべく置かれてきた「屯倉」をより一層掌握したことで、自らの権力を強固にしている。
【屯倉の歴史と蘇我氏】
記紀に登場する最初の屯倉は、垂仁天皇の時代、大和に「来目屯倉」である(垂仁天皇27年条)。その後はずっと飛んで仁徳天皇の17年に「茨田屯倉」が置かれたとある。淀川水系の新田開発によるものであった。
また継体天皇の時に反乱を起こして成敗された筑紫君磐井の子の葛子が、朝廷に献上して罪を逃れようとした「糟屋屯倉」の話は有名である。
しかし何と言っても屯倉設置が国策となるのは安閑天皇の時代である。
安閑元年には皇后と妃の財政強化のために三か所の屯倉を定めたり、国造が罪を犯したので国を取り上げて屯倉(伊甚屯倉)としたり、武蔵国造が2派に分かれて争ったが、朝廷が支援した現国造が4か所の屯倉を献上した――などとある。
安閑天皇の2年(535年)には、ついに全国的に26か所もの屯倉設置を強行した。
筑紫国に2か所、豊国に5か所、火の国(肥前)に1か所、播磨国に2か所、備後国に5か所、婀娜(あな)国に2か所、阿波国に1か所、紀国に2か所、丹波国に1か所、尾張国に2か所、駿河国に1か所、上毛野国に1か所の26か所だが、西は筑紫(九州)から東は上毛野(群馬)まで、まさに6世紀当時の大和王権の範囲が網羅されている。
さらに次代の宣化天皇は、「筑紫は応神天皇の時代から海外(半島)との交流の要衝であり、そこには穀物の貯えが必要である」という詔を出し、阿蘇の君に茨田屯倉(難波)から、蘇我稲目に尾張国の屯倉から、物部麁鹿火に新家屯倉(伊勢)から、阿部臣に伊賀屯倉からそれぞれモミを出させ、那の津に新しく建てた「宮家(みやけ)」に搬入させている。
宮家も屯倉も同じく「みやけ」と読ませるのだが、詔勅によって建設された宮家は、単なる倉庫に近い屯倉ではなく、そこに王権から派遣された管理者が常駐し、おそらく半島との交流に備えて文官と武官を備えた施設だったと思われる。
尾張の屯倉からのコメの搬出を差配した蘇我稲目はこの後も、多くの屯倉管理を任されており、文書管理にも明るく、欽明天皇の世になっても引き続き大臣(おおおみ)に就任した。しかも娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇の第2妃として入内させている。
堅塩媛(きたしひめ)は実に7男6女を生み、そのうち橘豊日(たちばなのとよひ)皇子は用明天皇となり、豊御食炊屋(とよみけかしきや)皇女は推古天皇として即位している。稲目は二人の天皇の外祖父であり、当時の臣下としては他に並ぶ者がいない権力者に上り詰めたのであった。
大臣・蘇我稲目の強みは何と言っても屯倉という経済基盤を掌握し、それを王権と密接に結びつけたことだろう。その一方で大連の家系である大伴氏と物部氏は半島情勢の不穏化に直面しており、軍事力の消耗と保持のために勢力を削がざるを得なかった。
稲目に管理を任された屯倉は吉備国の「白猪屯倉」「児島屯倉」、紀国の「海部屯倉」、大和の「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」など多数あった(設置年代は557年から558年にかけて)。
特に巨大なのが「白猪屯倉」で、美作国大庭郡内の5つの郡を兼ねた大きさであった。この屯倉の管理者には帰化人を当てた。のちに屯倉の名を襲って白猪史(しらいのふびと)という姓を得ている。また「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」は「韓人」「高麗人」で分かるように、半島からの渡来人(亡命または捕虜)を住まわせ屯倉としたものである。
いずれにしても蘇我稲目は文官として最高の大臣であり、かつ半島からの渡来人を積極的に活用しており、これまでにはないタイプの開明な権力者であった。その極め付けが「仏教への傾倒」であったろう。
【仏教の受容と蘇我氏】
百済の聖明王(在位523~553年)から仏教(仏像と経典)が倭国に伝えられたのは西暦538年であった(「上宮聖億法王帝説」)。宣化天皇の3年のこととされる。
しかし書紀では欽明天皇の6(545)年に、聖明王から、まず「丈六(高さ1丈6尺)の仏像」が送られ、7年後の13(552)年になって「仏像・仏具・経典」が献じられたと記す。538年か552年かで仏教の渡来時期が分かれるのだが、後々の仏教の長い受容期間(廃仏毀釈までの約1300年)を思えば、ほとんど問題にはなるまい。
さて、この仏教に最初に興味を示したのが蘇我稲目であった。稲目は欽明天皇13年の10月に百済の聖明王から送られてきた「金銅製の釈迦仏と幡(はた)蓋(きぬがさ)、経典」を目の当たりにして、「西の諸国はみな敬っておりますれば、わが国もそれに従わざるを得ますまい」と仏教の受容を進言したのである。
これに反対したのが物部氏と中臣氏であった。しかし欽明天皇は「そうしたいのであれば蘇我稲目よ、試みに拝礼すべし」と稲目を支持したのであった。
天皇のお墨付きを得て稲目は早速、飛鳥の小墾田の我が家に置いて拝礼を始めた。これが日本で最初の仏像安置の家屋、のちの豊浦寺の前身であった。その後、2度も仏像は反対派の物部氏によって堀に捨てられたりしたのだが、稲目の仏教崇拝が途切れることはなかった。
稲目は欽明天皇崩御の1年前の31(570)年に死ぬのだが、後を継いだ馬子はますます仏教に傾斜し、姉の堅塩媛の産んだ用明天皇の子・厩戸皇子こと聖徳太子が仏教の大家となるに及んで共同戦線を形成し、ついに仏教反対派の重鎮・物部守屋を打倒する。用明天皇の2年、天皇が崩御したその年、西暦587年の7月のことである。
翌588年、百済から僧侶と仏舎利が届き、馬子はこれにより「法興寺」を建立した。蘇我稲目・馬子2代こそ仏教受容の先駆けであった。漢字・漢文に精通した開明政治家の面目躍如と言うべきだろうか。
古事記では第26代継体天皇(在位507~531年)の事績について、越前が出自であるということと、この天皇の時代に筑紫の君・磐井の叛乱(527~8年)に対して物部アラカビと大伴金村を派遣して磐井を殺したことが事績らしい事績であり、あとは宮殿名と皇后・妃及びその間の子供(皇子・皇女)の列挙しかない。
この記述の仕方は、後続の安閑天皇以下、古事記の記載では最後の第33代推古天皇(在位593~628年)まで、ほぼ踏襲され、まるであの「欠史八代」と言われる第2代綏靖天皇から9代開化天皇の8代の天皇に比べられる「欠史」ぶりである。
継体天皇から推古天皇まではあの「欠史八代」の数字に合わせたかのように同じ8代であり、古事記最後の推古天皇までの8代を「第2次欠史八代」と呼びたい。
さてこの「第2次欠史8代」の時代に、物部氏や大伴氏に代わって大きく勢力を伸ばしたのが「蘇我氏」である。
【蘇我氏の台頭】
記紀に蘇我氏の名が現れるのは、第8代孝元天皇の系譜においてであり、それによると蘇我氏は武内(タケシウチ)宿祢の苗裔である。
古事記「孝元天皇記」によると、孝元天皇とイカガシコメ(ウチシコメの娘)との間に生まれた「比古布都押之信(ヒコフツオシのマコト)」がヤマシタカゲヒメ(ウズヒコの妹)を娶って生まれたのが武内宿祢であった。武内宿祢は孝元天皇の孫ということになる。(※腹違いに味師内宿祢=ウマシウチ宿祢がいる。)
この武内宿祢には9人の男子が生まれており、その一人が蘇我氏の祖の「蘇我の石河宿祢」で、割注によると「蘇我臣、川邉臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣等」に岐れている。
「宣化天皇紀」の元年(536年)条には、「大伴金村大連、物部麁鹿火大連に並んで蘇我稲目宿祢が大臣に就任した」(意訳)とある。蘇我氏で最初に政府高官として登場したのが「蘇我稲目(イナメ)」であり、稲目は始祖の石河宿祢から数えて5代目の当主ということになっている。
大伴氏と物部氏がいわゆる「軍事氏族」であるのに対して、蘇我氏は大臣すなわち文官系の最高執政者として朝廷の中枢に加えられたということである。
最高執政官としての蘇我稲目は朝鮮半島に兵力を送って勢力が削がれていく大伴氏や物部氏を尻目に、地方の豪族たちの米を中心とする経済基盤に着目し、それを中央王権に貢がせるべく置かれてきた「屯倉」をより一層掌握したことで、自らの権力を強固にしている。
【屯倉の歴史と蘇我氏】
記紀に登場する最初の屯倉は、垂仁天皇の時代、大和に「来目屯倉」である(垂仁天皇27年条)。その後はずっと飛んで仁徳天皇の17年に「茨田屯倉」が置かれたとある。淀川水系の新田開発によるものであった。
また継体天皇の時に反乱を起こして成敗された筑紫君磐井の子の葛子が、朝廷に献上して罪を逃れようとした「糟屋屯倉」の話は有名である。
しかし何と言っても屯倉設置が国策となるのは安閑天皇の時代である。
安閑元年には皇后と妃の財政強化のために三か所の屯倉を定めたり、国造が罪を犯したので国を取り上げて屯倉(伊甚屯倉)としたり、武蔵国造が2派に分かれて争ったが、朝廷が支援した現国造が4か所の屯倉を献上した――などとある。
安閑天皇の2年(535年)には、ついに全国的に26か所もの屯倉設置を強行した。
筑紫国に2か所、豊国に5か所、火の国(肥前)に1か所、播磨国に2か所、備後国に5か所、婀娜(あな)国に2か所、阿波国に1か所、紀国に2か所、丹波国に1か所、尾張国に2か所、駿河国に1か所、上毛野国に1か所の26か所だが、西は筑紫(九州)から東は上毛野(群馬)まで、まさに6世紀当時の大和王権の範囲が網羅されている。
さらに次代の宣化天皇は、「筑紫は応神天皇の時代から海外(半島)との交流の要衝であり、そこには穀物の貯えが必要である」という詔を出し、阿蘇の君に茨田屯倉(難波)から、蘇我稲目に尾張国の屯倉から、物部麁鹿火に新家屯倉(伊勢)から、阿部臣に伊賀屯倉からそれぞれモミを出させ、那の津に新しく建てた「宮家(みやけ)」に搬入させている。
宮家も屯倉も同じく「みやけ」と読ませるのだが、詔勅によって建設された宮家は、単なる倉庫に近い屯倉ではなく、そこに王権から派遣された管理者が常駐し、おそらく半島との交流に備えて文官と武官を備えた施設だったと思われる。
尾張の屯倉からのコメの搬出を差配した蘇我稲目はこの後も、多くの屯倉管理を任されており、文書管理にも明るく、欽明天皇の世になっても引き続き大臣(おおおみ)に就任した。しかも娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇の第2妃として入内させている。
堅塩媛(きたしひめ)は実に7男6女を生み、そのうち橘豊日(たちばなのとよひ)皇子は用明天皇となり、豊御食炊屋(とよみけかしきや)皇女は推古天皇として即位している。稲目は二人の天皇の外祖父であり、当時の臣下としては他に並ぶ者がいない権力者に上り詰めたのであった。
大臣・蘇我稲目の強みは何と言っても屯倉という経済基盤を掌握し、それを王権と密接に結びつけたことだろう。その一方で大連の家系である大伴氏と物部氏は半島情勢の不穏化に直面しており、軍事力の消耗と保持のために勢力を削がざるを得なかった。
稲目に管理を任された屯倉は吉備国の「白猪屯倉」「児島屯倉」、紀国の「海部屯倉」、大和の「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」など多数あった(設置年代は557年から558年にかけて)。
特に巨大なのが「白猪屯倉」で、美作国大庭郡内の5つの郡を兼ねた大きさであった。この屯倉の管理者には帰化人を当てた。のちに屯倉の名を襲って白猪史(しらいのふびと)という姓を得ている。また「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」は「韓人」「高麗人」で分かるように、半島からの渡来人(亡命または捕虜)を住まわせ屯倉としたものである。
いずれにしても蘇我稲目は文官として最高の大臣であり、かつ半島からの渡来人を積極的に活用しており、これまでにはないタイプの開明な権力者であった。その極め付けが「仏教への傾倒」であったろう。
【仏教の受容と蘇我氏】
百済の聖明王(在位523~553年)から仏教(仏像と経典)が倭国に伝えられたのは西暦538年であった(「上宮聖億法王帝説」)。宣化天皇の3年のこととされる。
しかし書紀では欽明天皇の6(545)年に、聖明王から、まず「丈六(高さ1丈6尺)の仏像」が送られ、7年後の13(552)年になって「仏像・仏具・経典」が献じられたと記す。538年か552年かで仏教の渡来時期が分かれるのだが、後々の仏教の長い受容期間(廃仏毀釈までの約1300年)を思えば、ほとんど問題にはなるまい。
さて、この仏教に最初に興味を示したのが蘇我稲目であった。稲目は欽明天皇13年の10月に百済の聖明王から送られてきた「金銅製の釈迦仏と幡(はた)蓋(きぬがさ)、経典」を目の当たりにして、「西の諸国はみな敬っておりますれば、わが国もそれに従わざるを得ますまい」と仏教の受容を進言したのである。
これに反対したのが物部氏と中臣氏であった。しかし欽明天皇は「そうしたいのであれば蘇我稲目よ、試みに拝礼すべし」と稲目を支持したのであった。
天皇のお墨付きを得て稲目は早速、飛鳥の小墾田の我が家に置いて拝礼を始めた。これが日本で最初の仏像安置の家屋、のちの豊浦寺の前身であった。その後、2度も仏像は反対派の物部氏によって堀に捨てられたりしたのだが、稲目の仏教崇拝が途切れることはなかった。
稲目は欽明天皇崩御の1年前の31(570)年に死ぬのだが、後を継いだ馬子はますます仏教に傾斜し、姉の堅塩媛の産んだ用明天皇の子・厩戸皇子こと聖徳太子が仏教の大家となるに及んで共同戦線を形成し、ついに仏教反対派の重鎮・物部守屋を打倒する。用明天皇の2年、天皇が崩御したその年、西暦587年の7月のことである。
翌588年、百済から僧侶と仏舎利が届き、馬子はこれにより「法興寺」を建立した。蘇我稲目・馬子2代こそ仏教受容の先駆けであった。漢字・漢文に精通した開明政治家の面目躍如と言うべきだろうか。