12月19日(日)に東地区学習センターで史話の会12月例会を開催した。今回はテキストである『邪馬台国真論』の224ページから240ページを解説した。
さて、南九州からの「東征」は実は南九州投馬国の東征であり、その主体は神武天皇の長男とされているタギシミミ本人の「東征」であった――というのが『邪馬台国真論』の結論である。
ところが、南九州投馬国の王であったタギシミミが大和に入り「橿原王朝」を開いたのだが、こんなのはすべて造作である。つまり史実ではない――とするのが今日の古代史学である。
その神武東征を全くの創作だ、と考える日本古代史の学者たちは、古文書等の解釈を踏まえ、南九州には王権に反抗する勢力、すなわちクマソ及び隼人という化外の民しかいなかったと説く。
ナンセンスも甚だしい。南九州が「化外の民の集団」という認識が始まったのは記紀を編集し始めた7世紀後半の天武天皇時代で、その前の斉明天皇及び天智天皇の時に、朝鮮半島の権益をめぐって「唐・新羅連合軍」と戦い、白村江の戦役で海戦を担った南九州の鴨族や北部九州の安曇族、宗像族がその勢力を失ったからなのだ。
つまり、まさに「敗戦の将、多くを語らず」という事態になったのである。日本書紀はこのコンセプトで書かれたと言ってよい。
さて、南九州投馬国の王であったタギシミミが東遷を果たして大和中枢に橿原王朝を築いた後に、北部九州からやって来た王権があった。それが第10代天皇の崇神であった。
崇神天皇の和風諡号「ミマキイリヒコイソニヱ」が示しているように、崇神天皇の本貫の地は「イソ」すなわち「五十」で表される北部九州の糸島であった(仲哀天皇紀および筑前風土記逸文)。
この崇神王権が北部九州の糸島にやって来る前は、半島の辰韓に王権を築いていた「辰王」であった(魏志韓伝の「辰韓条」)。
ところが、西暦240年代に大陸の魏王朝が半島に置いていた植民地「帯方郡」を拠点に半島南部を掌握しようと食指を伸ばし始めたので、それに危機感を抱いた辰韓王(辰王)はついに半島を離れ、北部九州の「五十(いそ)地方」(仲哀天皇紀及び筑前風土記逸文)こと糸島に王宮を移したのであった。その時の辰王王権の当主は第7代天皇とされている「孝霊天皇」だった。
半島を完全に離れ、糸島を根拠地にして王権を拡充したのが、第8代「孝元天皇」そして第9代「開化天皇」の兄弟だったのである。
開化天皇の王宮は「春日の率川(いそかわ)宮」であったが、「春日」も「五十川」も福岡県福岡地域に実在している。
しかし邪馬台国女王ヒミコが死んだ西暦247年の頃は半島に魏の大将軍・司馬懿が虎視眈々と隙あらば半島南部を席巻しようかという時代であった。万が一とはいえ、司馬将軍は半島からさらに対馬・壱岐を通って北部九州にまで矛先を向けかねない。そのため半島を離れてせっかく北部九州糸島に王宮を構えたのだが、さらに王宮を列島の中央に移そうと考えたのが崇神であった。
その結果、北部九州からの「東征」が敢行され、南九州からの大和への「東征」が16年余りかかったのに対して、わずか3年余りで大和中央に到り、南九州からの後裔である橿原王朝に代わって大和王権を継いだのである。
以上が北部九州からの「崇神東征」の中身で、崇神王権は垂仁天皇、景行天皇を経て第13代の成務天皇まで続くことになる。
(※北部九州は渡来して来た「辰王」(辰韓王)を中心に発展・糾合し、「大倭」すなわち北部九州倭人連合を形成したと考えられる。したがって崇神東征とは「大倭東征」であり、東征後に「大倭」は「大和」という地名の基になったのであろう。)
さて、南九州からの「東征」は実は南九州投馬国の東征であり、その主体は神武天皇の長男とされているタギシミミ本人の「東征」であった――というのが『邪馬台国真論』の結論である。
ところが、南九州投馬国の王であったタギシミミが大和に入り「橿原王朝」を開いたのだが、こんなのはすべて造作である。つまり史実ではない――とするのが今日の古代史学である。
その神武東征を全くの創作だ、と考える日本古代史の学者たちは、古文書等の解釈を踏まえ、南九州には王権に反抗する勢力、すなわちクマソ及び隼人という化外の民しかいなかったと説く。
ナンセンスも甚だしい。南九州が「化外の民の集団」という認識が始まったのは記紀を編集し始めた7世紀後半の天武天皇時代で、その前の斉明天皇及び天智天皇の時に、朝鮮半島の権益をめぐって「唐・新羅連合軍」と戦い、白村江の戦役で海戦を担った南九州の鴨族や北部九州の安曇族、宗像族がその勢力を失ったからなのだ。
つまり、まさに「敗戦の将、多くを語らず」という事態になったのである。日本書紀はこのコンセプトで書かれたと言ってよい。
さて、南九州投馬国の王であったタギシミミが東遷を果たして大和中枢に橿原王朝を築いた後に、北部九州からやって来た王権があった。それが第10代天皇の崇神であった。
崇神天皇の和風諡号「ミマキイリヒコイソニヱ」が示しているように、崇神天皇の本貫の地は「イソ」すなわち「五十」で表される北部九州の糸島であった(仲哀天皇紀および筑前風土記逸文)。
この崇神王権が北部九州の糸島にやって来る前は、半島の辰韓に王権を築いていた「辰王」であった(魏志韓伝の「辰韓条」)。
ところが、西暦240年代に大陸の魏王朝が半島に置いていた植民地「帯方郡」を拠点に半島南部を掌握しようと食指を伸ばし始めたので、それに危機感を抱いた辰韓王(辰王)はついに半島を離れ、北部九州の「五十(いそ)地方」(仲哀天皇紀及び筑前風土記逸文)こと糸島に王宮を移したのであった。その時の辰王王権の当主は第7代天皇とされている「孝霊天皇」だった。
半島を完全に離れ、糸島を根拠地にして王権を拡充したのが、第8代「孝元天皇」そして第9代「開化天皇」の兄弟だったのである。
開化天皇の王宮は「春日の率川(いそかわ)宮」であったが、「春日」も「五十川」も福岡県福岡地域に実在している。
しかし邪馬台国女王ヒミコが死んだ西暦247年の頃は半島に魏の大将軍・司馬懿が虎視眈々と隙あらば半島南部を席巻しようかという時代であった。万が一とはいえ、司馬将軍は半島からさらに対馬・壱岐を通って北部九州にまで矛先を向けかねない。そのため半島を離れてせっかく北部九州糸島に王宮を構えたのだが、さらに王宮を列島の中央に移そうと考えたのが崇神であった。
その結果、北部九州からの「東征」が敢行され、南九州からの大和への「東征」が16年余りかかったのに対して、わずか3年余りで大和中央に到り、南九州からの後裔である橿原王朝に代わって大和王権を継いだのである。
以上が北部九州からの「崇神東征」の中身で、崇神王権は垂仁天皇、景行天皇を経て第13代の成務天皇まで続くことになる。
(※北部九州は渡来して来た「辰王」(辰韓王)を中心に発展・糾合し、「大倭」すなわち北部九州倭人連合を形成したと考えられる。したがって崇神東征とは「大倭東征」であり、東征後に「大倭」は「大和」という地名の基になったのであろう。)