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天武天皇の時代(記紀点描㊽)

2022-02-23 16:33:55 | 記紀点描
【天武天皇時代の特質】

壬申の乱で大友皇子(漢風諡号・弘文天皇)方の近江王朝に勝利した大海人皇子こと天武天皇(在位672~686年)の時代相を一言でいえば、「神仏両拝を基軸にした中央集権国家を目指した時代」ということになるだろう。

神仏両拝という用語はないが、神仏混交あるいは習合が「本地垂迹」「反本地垂迹」という「神が先か仏が先かの論争」に至った中世より前の、神道の定型化(神社化)が仏教の伽藍様式に触発されてそれなりの社殿が建立され始めた時代に、いわば神仏への礼拝が「棲み分け」によって確立しつつあった様相を「神仏両拝」で端的に表現してみた。

実際、まず天武天皇からして、今はの際の天智天皇から皇位を継ぐように言われたが、即座に断り、僧形になって近江から吉野へ隠遁したのだった。

仏教が百済から倭国にもたらせられてから、熱心に取り組んだ蘇我氏の影響を受けて仏教に関心を持つ天皇や皇族は多くいた。中でも蘇我氏の血を引く聖徳太子(574~622年)は仏教学者と言っていいくらいの経典理解を示したが、太子自身は僧形にはならず、また僧形になった天皇はいなかった。

しかし天武天皇は近江から隠遁するため、つまり逃避するために仮に僧形になったにせよ、法服を身に纏った唯一の天皇であった。

天皇として即位後も、次のように仏教関連のイベントを行っている。

・僧尼2400名に設斎(法会)を開催させた。(天武紀4年4月条)
・金光明経・仁王経を講義させた。(同5年11月条)
・飛鳥寺にて設斎(法会)。一切経を読誦させた。(同6年8月条)
・宮中において金光明経を説く。(同9年=5月条)

など、かつては蘇我氏だけの私的な法会などを、天皇自らが主宰するようになった。

その一方で、神道系の催しもかなり行っている。

・大来皇女を伊勢の斎宮に行かせた。(天武紀元年4月条)
・十市皇女・阿閉皇女(のちの元明天皇)が伊勢に参宮した。(同4年2月条)
・旱(ひでり)のため、諸方に使いを送り御幣を奉納して諸神に祈らせた。(同5年夏条)
・天神地祇祭祀のため祓い禊する。(同7年春条)
・御幣を国懸社・飛鳥四社・住吉社に奉納した。(同15年7月条)

大来皇女や十市皇女・阿閉皇女が参宮した頃の伊勢神宮の規模や構造などはうかがい知れない。

しかし仏教の仏像・仏具・経典などが百済の聖明王(第26代・在位523~554年)から伝えられ、それを蘇我稲目がわが屋敷の内に祀った(552年)頃から次第に仏殿が発達したことを受けて、神祭りにおいても神社という社殿を建立するようになったわけで、仏寺が伽藍様式を取り入れたように、神社もそれなりに建築様式を発達させていたと思われる。

したがって伊勢神宮本殿とは別に斎宮(殿)があったものとしてよい。そこに皇女たちが寝泊まりしてアマテラスオオカミに仕えたのである。

旱(ひでり)は水田栽培を基本とする稲作にとっては最大クラスの災害であったから、諸国に官員が派遣されて地方ごとに存在する社に幣帛を捧げているが、これは要するに「雨ごい」である。

(※持統天皇(在位687~697年)の時代になると、竜田社と広瀬社への幣帛の奉納は年中行事のようになったが、竜田社は水の神であり、広瀬社は物忌みの神であった。)

最後の6社への御幣奉納は天武天皇の病気回復祈願のためであったが、祈願の効無く天皇は686年9月9日に崩御した。11月には殯宮(もがりのみや)が飛鳥浄御原宮の南の庭に建てられた。

【天智天皇の殯宮はなく、陵もなかった】

天武天皇が崩御すると2か月後には殯宮が建てられたと記事にあるが、天智天皇の殯宮が造られたという記事はない。

また2年後の持統天皇2年(688年)の11月には「大内陵」に葬ったという記事が見えるが、この陵に関しても天智天皇のは天武紀には見当たらない。(※ただ、壬申の乱が起きる直前の672年5月、近江方が天智天皇の陵を築くために美濃と尾張の国司に人夫の徴用を命じた、といい、これに対して朴井君雄君という舎人が大海人皇子に「この徴用は決して陵を造るためではなく、有事のためのものですから、吉野から逃げた方がよいでしょう」と進言する場面がある。この時の築陵は偽りだったというわけである。ここでも天智及び天智陵の行方は追えないままだ。)

壬申の乱において敵であった大友皇子は自害しようが殺されようが、敵であった以上はその死後のことが書かれなくても理解はできるが、天智天皇は大友皇子の父ではあるものの、壬申の乱の敵方の当事者ではなかったのだから、記録に残らなければおかしい。

このことは天智天皇の死の謎をさらに深める。やはり山科で「行方知れず」になり、その遺骸も行方知れずになったと理解すべきだろうか。

天武天皇の皇后の持統天皇(幼名・ウノノササラノヒメミコ)は天智天皇の娘なのであることからして、たとえ同時に敵(大友皇子)の父であるにしても、天智天皇を一切祭らないことについては抵抗を感じてしまうのである。やはり「行方知れず」ということなのだろうか。

【天智天皇の娘4人を后妃にした天武天皇の素性】

天武天皇は天智天皇の4人の娘を后妃にしているが、これも不可解である。

古代の天皇の婚姻では、姪を娶ることは不道徳ではなかった。それどころか異母兄妹同士の婚姻も許されていた。母親が違えば同父であっても結婚は可能であった。

そう考えると兄天智の娘が天武の后妃になることは有り得ることだが、4人もの姪を後宮に入れるのは前代未聞。

皇后にしたのがウノノササラ皇女(のちの持統天皇)、妃にその同母姉のオオタ皇女。さらに異母のオオエ皇女とニイタベ皇女。この4女はすべて天智天皇の娘である。ほかに他氏から6人の娘を後宮に入れている。(※その中の一人が鏡王の娘・額田姫王で、このヒメは最初大海人皇子の妃だったのだが、のちに天智の下へ移った(移らされた)ことで天智と天武の間に亀裂が走った。この亀裂が壬申の乱の遠因だったという説もあるが、これは現在否定されている。)

天武天皇(大海人皇子)が天智紀の中では姿を見せていないのも不可解な話である。いや無いことはない。その際は決まって「皇弟」もしくは「大皇弟」「東宮」と書かれ、幼名の大海人皇子という名(個人名)は決して出てこないのだ。

最初に大海人皇子が登場するのは、舒明天皇(在位629~641年)の2年(630年)条で、天皇と宝皇女(のちの皇極天皇)との間に生まれた三子(葛城皇子・間人皇女・大海人皇子)の一人として登場するのだが、その後の動向は一切不明である。

父の舒明天皇が崩御した時に兄(天智)の方は「この時に東宮葛城皇子は、年16才にして誄(しのびごと)したまう」と記録され、あまつさえ当時の年齢が記されている(舒明紀13年条)。(※舒明天皇の崩御年は641年であるから、天智天皇の生年は626年と逆算される。)

天智天皇の時代、天智(中大兄皇子)が対百済救援軍を組織して筑紫の朝倉宮に行き、そこで母の斉明天皇が崩御し、中大兄皇子が斉明天皇の殯宮を長津宮(磐瀬行宮)に設けても、大海人皇子は姿を見せないのだが、実母であり天皇である人の葬送に姿を見せないような関係というのは普通では考えられない。大和の統治を任されていて、繁忙で席を離れることができないにしても、何らかの悲痛・弔意の場面があってしかるべきところである。

それの片鱗もないということは、わたしはどうも大海人皇子こと天武天皇は、天智天皇の弟でも斉明天皇の子でもないのではないか、という思いに至るのである。

では誰であろうか?

その候補としてあげたいのが、藤原鎌足の長子とされ、孝徳天皇の白雉4年(653年)に遣唐使とともに唐へ仏教を学びに同船した「定恵(じょうえ)」である。

定恵は本名を中臣真人といい、藤原氏(といっても653年の時点ではまだ中臣氏であった。藤原姓は天智の死の2年前の669年からである)という本来なら神道系の家筋であり、しかも嫡子が仏教僧になるという点で、極めて異例なことである。

この定恵が唐から帰って来たのが、天智天皇の称制4年(665年)の9月であった。唐からの使者、劉徳高・郭務悰らの乗った船に同船して筑紫に到着したのである(孝徳紀5年2月条に引用の「伊吉博徳の書」)。そして『藤氏家伝』によれば、同年(665年)には亡くなったとある。

この年の前年に天武天皇が一度だけ「太皇弟」として現れるようになり、668年の天智天皇の即位後は「東宮」を含めて登場の場面が増えて行く。しかし天智天皇が大和から近江宮に遷都した後、671年に我が子大友皇子を太政大臣にしたのがきっかけとなり、「東宮」(皇太子)を返上した挙句、法服を纏って吉野宮へ隠遁する。

この時の法服を纏うということ自体が、天武の仏教への傾斜を端的に表しており、このことは天武が相当深く仏教を学んだ人物であったことを象徴している。

そのうえ、【天武時代の特質】で指摘したように、国を挙げての仏教への取り組みに並々ならぬものが伺われることから、私は藤原真人こと定恵こそが天武天皇なのではないかと思うのである。

天武天皇の漢風諡号が「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」と「真人」を含んでいることも、この考えを後押しする。また「瀛(おき)」は大陸中国から見た島国という意味であり、この名付けは、唐に学僧として12年も留学していた中臣真人が故国に帰った後、天皇位に就いたという暗喩ではないだろうか。

以上、兄である前代の天皇の娘を4人も后妃にしていることから天武は天智との間に血縁関係はないこと、仏教に非常に造詣が深くかつ傾斜していること、そして天武の漢風諡号が「中臣真人」を連想させることなどから、天武天皇とは実は藤原鎌足の長子で唐に12年間も留学し、665年の帰国後はその年のうちに亡くなったと記されている定恵(本名・中臣真人)その人が天武天皇だったのではないかと考えてみたい。

この点についてはいまだ確定ではなく、後考を待ちたいと思う。