【はじめに】
「記紀点描」シリーズも最終回となった。ちょうど節目の50回である。
記紀点描㊾まではおおむね記紀の記事に従い初代神武天皇から41代持統天皇までの事績をピックアップしつつ、日本古代史の正史からは若干外れた(外された)テーマを綴って来たのだが、これからはまた違った切り口で古代史にアプローチしてみたい。これを「古代史逍遥」と名付ける。
今回は古事記の神代にさかのぼり、イザナギ・イザナミの「修理固成」の段で、日本列島の国土を次々に生む俗にいう「国生み神話」をと取り上げる。
【「建」(たけ)つながりの三か国】
古事記の国生み神話は、日本の国土をイザナミが次々に生んでいくという神話だが、今日にも伝わる旧国名や島々の名が列挙されており、興味がそそられる部分である。
天津神の教えで、男のイザナギがイザナミより先に「なんていい女なんだ!」と賞賛してから「みとのまぐわい(美斗能麻具波比=夫婦の性交)をしたところ、「淡道の穂の狭別島」(淡路島)を皮切り8つの島(大八嶋)を生んだという。・・・①
そしてその後に列島周辺の小さな島々を生んでいる。・・・②
①で生まれた8つの島は、今日にもつながる名を持った島「淡道の穂の狭別島」(淡路島)、「伊予の二名島」(四国)、隠岐の三つ子島(隠岐の島)、筑紫の島(九州)、伊伎島(壱岐)、津島(対馬)、佐渡島(佐渡)そして「大倭豊秋津島」(本州)である。
この中で面白いのが、本州や九州、四国と並んで淡路島・隠岐の島・壱岐島・対馬・佐渡島という5つのさして大きな島でもない島々が、「大八島」の仲間に入っていることである。当時のよく知られた島で、多くの海人が往来していた島々であり、また国防上の役割を担っていた島々でもある。
<建日別(たけひわけ)>
さて筑紫(九州)には4つの国があるという。「筑紫国(別名・白日別)」「豊国(別名・豊日別)」「肥国(建日向日豊久士比泥別)」そして「熊曽国(建日別)」の4つである。
「建日別」は熊曽国のことであり、南九州を指していることは明白である。
そのほかの国について、まず筑紫国であるが、この国の別名は「白日別(しらひわけ)」という。「白日」とは何だろうか?
これはずばり「新羅(しらぎ)」のことである。
新羅は2~3世紀の邪馬台国時代は「辰韓」と呼ばれていた国家群で、辰韓とその西側の国家群「弁韓」とは「雑居」しており、住民の多くは「文身(いれずみ)を施していた」と書かれている。弁韓はのちの「任那」であるから、辰韓と弁韓は倭人でも主として海人系の倭人たちが居住していたと見ることができる。
筑紫国が白日別ということは、筑紫が半島南部の辰韓(のちの新羅)と同一国家であることを意味している。具体的に言うならば海人系倭人国家である辰韓に王朝を築いた箕子朝鮮の末裔「辰王」の支配する統治領域が、九州北部にも及んでいたということである。
辰王の典型が福岡県糸島地方に根を下ろした「ミマキイリヒコイソニヱ」こと崇神天皇であった。和風諡号の「御間城入彦五十瓊殖」とは「天孫の任那の王宮に入った王で、五十(いそ)の地に王権(瓊=玉)を殖やした王」と理解され、崇神天皇は魏王朝から派遣された司馬懿(シバイ)将軍の席捲をを避けるべく九州北部の五十(糸島)地方に移住して来たのである。
(※その崇神こと「五十瓊殖(イソニヱ)」と糸島で生まれた垂仁こと「五十狭茅(イソサチ)」の親子が糸島を根拠地として次第に九州北部に勢力を伸ばし、ついに倭人連合を形成したとも考えている。それが「大倭」であった。)
そのような歴史的経緯を踏まえて筑紫国を「白日別」と名付けたものであろう。
次に、豊国の別名が「豊日別」なのは、豊日の国だからである。では「豊日」とは何か。
私はこれを邪馬台国女王ヒミコの死後に女王として立てられた「台与(トヨ)」のことだと考えている。トヨは卑弥呼亡きあと20年ほどは王座にいたが、南からの狗奴国勢力に押され、ついに併呑されるという憂き目に遭い、九州山地を越えて豊前宇佐地方に逃れたと思われる。
宇佐において言わば「亡命政権」を樹立したのではないか。したがって宇佐神宮で応神天皇および神功皇后とともに祭られている「比売之神」とはトヨのことではないかと思うのである。
次に、肥国は別名を「建日向日豊久士比泥別」とするが、これの読み方については多くが「たけひむか、ひ・とよ・クシヒのねわけ」と読んで怪しまないが、そもそも「建日向」を「たけひむか」と読む根拠が不明である。
この「建日向」は「建日に向かい」と読むべきなのだ。「建日」とは熊曽国であり、その本拠地は熊本県域だったから、八女市にあった邪馬台国とはまさに向かい合っている。
「日豊」は、これも「ひ・とよ」とは読まずに、「ひのゆたかなる」と読み、次の「久士比の泥(ね)わけ」 への形容と把握すべきである。
「久士比(くしひ)」とは「霊妙な」という意味だが、ここの場合は「統治能力のある大王」と解釈し、「泥別(ねわけ)」は「根分け」であるから、本筋の大王とは血のつながりのある王と捉えたい。
以上から「建日向日豊久士比泥別(たけひにむかい、ひのゆたかなる、くしひのねわけ)」を別名に持つ「肥国」は、おおむね今日の肥前国を指していると考える。
筑紫すなわち九州島は南九州に「熊曽国」があり、北部には「筑紫国」があり、北東部に「豊国」があり、そして今日の築後から肥前(佐賀・長崎)にかけては「肥国」があったことになる。再述するが、このうちの熊曽国が「建日別」であった。
<建日方別(たけひかたわけ)>
この国は別名「吉備児島」である。吉備の児島と言えば今は陸とつながっているが、古代は島であった。
「建日方別」というのは「建日別」の「地方」もしくは「片割れ」という意味で、言わば「建日別」の分国である。
なぜ瀬戸内海の中央部にある「吉備児島」が南九州の熊曽国の分国なのか。
これについては南九州からの「神武東征」を信じれば、容易に分かることで、古事記によれば「神武東征軍」は瀬戸内海に入ったのち、安芸の多祁理(たけり)宮で7年間、そして吉備の高島宮では8年間を過ごしている。
(※日本書紀ではこの「神武東征」の所要年数が古事記のに比べ著しく短くなっている。私はその3年余りという短期で東征を果たしたのは、南九州由来の東征ではなく、北部九州の「大倭」(北部九州倭人連合)のそれだと考える。その東征の主体こそは筑紫(白日別)王となった辰王こと崇神天皇であろう。)
後者の高島宮こそが、まだ海中にあった吉備児島に所在した。したがって吉備児島は南九州熊曽国(建日別)の分国扱いを受けたのである。
「神武東征」などまったく有り得ないとする戦後史学では考えもしない説だが、吉備は南九州との結びつきが強い地域で、古くは縄文土器に見られる「胎土」(土器用の粘土)に共通性があったり、弥生土器の「矢羽透かし彫り」に共通点があったりしている。彼我の交流は絶対に無視できない。
<建依別(たけよりわけ)>
四国(伊予の二名島)の4つの国のうち黒潮洗う土佐国を「建依別」というが、この意味は「建日が寄る国」ということで、南九州の建日別(熊曽国)の海人が海に出て、黒潮ルートに乗って紀伊半島から畿内を目指した場合、途中で寄港するに最適の港を持っていたのが土佐である。
神功皇后摂政元年紀に、皇后が新羅を討ったのちに皇子を産み、「穴門の豊浦宮」に軍勢を整え、畿内を目指そうとしたところ、畿内勢力である忍熊王の抵抗に遭い、それではと武内宿祢が生まれたばかりの赤子の皇子を抱えて、「皇子を懐き、横しまに南海より出でて、紀伊水門に泊らしめ」とあるように、武内宿祢の畿内への航路は南海航路、すなわち黒潮ルートであった。
南九州から畿内を目指す場合、黒潮ルートを採って紀伊半島に上陸し、紀ノ川を遡って五条・阿陀から葛城へ抜けるコースが最も早く、その航路を採る時は、土佐が水・食料の補給には最適な場所であった。そのことが「建依別」という国名に現れているのである。
「記紀点描」シリーズも最終回となった。ちょうど節目の50回である。
記紀点描㊾まではおおむね記紀の記事に従い初代神武天皇から41代持統天皇までの事績をピックアップしつつ、日本古代史の正史からは若干外れた(外された)テーマを綴って来たのだが、これからはまた違った切り口で古代史にアプローチしてみたい。これを「古代史逍遥」と名付ける。
今回は古事記の神代にさかのぼり、イザナギ・イザナミの「修理固成」の段で、日本列島の国土を次々に生む俗にいう「国生み神話」をと取り上げる。
【「建」(たけ)つながりの三か国】
古事記の国生み神話は、日本の国土をイザナミが次々に生んでいくという神話だが、今日にも伝わる旧国名や島々の名が列挙されており、興味がそそられる部分である。
天津神の教えで、男のイザナギがイザナミより先に「なんていい女なんだ!」と賞賛してから「みとのまぐわい(美斗能麻具波比=夫婦の性交)をしたところ、「淡道の穂の狭別島」(淡路島)を皮切り8つの島(大八嶋)を生んだという。・・・①
そしてその後に列島周辺の小さな島々を生んでいる。・・・②
①で生まれた8つの島は、今日にもつながる名を持った島「淡道の穂の狭別島」(淡路島)、「伊予の二名島」(四国)、隠岐の三つ子島(隠岐の島)、筑紫の島(九州)、伊伎島(壱岐)、津島(対馬)、佐渡島(佐渡)そして「大倭豊秋津島」(本州)である。
この中で面白いのが、本州や九州、四国と並んで淡路島・隠岐の島・壱岐島・対馬・佐渡島という5つのさして大きな島でもない島々が、「大八島」の仲間に入っていることである。当時のよく知られた島で、多くの海人が往来していた島々であり、また国防上の役割を担っていた島々でもある。
<建日別(たけひわけ)>
さて筑紫(九州)には4つの国があるという。「筑紫国(別名・白日別)」「豊国(別名・豊日別)」「肥国(建日向日豊久士比泥別)」そして「熊曽国(建日別)」の4つである。
「建日別」は熊曽国のことであり、南九州を指していることは明白である。
そのほかの国について、まず筑紫国であるが、この国の別名は「白日別(しらひわけ)」という。「白日」とは何だろうか?
これはずばり「新羅(しらぎ)」のことである。
新羅は2~3世紀の邪馬台国時代は「辰韓」と呼ばれていた国家群で、辰韓とその西側の国家群「弁韓」とは「雑居」しており、住民の多くは「文身(いれずみ)を施していた」と書かれている。弁韓はのちの「任那」であるから、辰韓と弁韓は倭人でも主として海人系の倭人たちが居住していたと見ることができる。
筑紫国が白日別ということは、筑紫が半島南部の辰韓(のちの新羅)と同一国家であることを意味している。具体的に言うならば海人系倭人国家である辰韓に王朝を築いた箕子朝鮮の末裔「辰王」の支配する統治領域が、九州北部にも及んでいたということである。
辰王の典型が福岡県糸島地方に根を下ろした「ミマキイリヒコイソニヱ」こと崇神天皇であった。和風諡号の「御間城入彦五十瓊殖」とは「天孫の任那の王宮に入った王で、五十(いそ)の地に王権(瓊=玉)を殖やした王」と理解され、崇神天皇は魏王朝から派遣された司馬懿(シバイ)将軍の席捲をを避けるべく九州北部の五十(糸島)地方に移住して来たのである。
(※その崇神こと「五十瓊殖(イソニヱ)」と糸島で生まれた垂仁こと「五十狭茅(イソサチ)」の親子が糸島を根拠地として次第に九州北部に勢力を伸ばし、ついに倭人連合を形成したとも考えている。それが「大倭」であった。)
そのような歴史的経緯を踏まえて筑紫国を「白日別」と名付けたものであろう。
次に、豊国の別名が「豊日別」なのは、豊日の国だからである。では「豊日」とは何か。
私はこれを邪馬台国女王ヒミコの死後に女王として立てられた「台与(トヨ)」のことだと考えている。トヨは卑弥呼亡きあと20年ほどは王座にいたが、南からの狗奴国勢力に押され、ついに併呑されるという憂き目に遭い、九州山地を越えて豊前宇佐地方に逃れたと思われる。
宇佐において言わば「亡命政権」を樹立したのではないか。したがって宇佐神宮で応神天皇および神功皇后とともに祭られている「比売之神」とはトヨのことではないかと思うのである。
次に、肥国は別名を「建日向日豊久士比泥別」とするが、これの読み方については多くが「たけひむか、ひ・とよ・クシヒのねわけ」と読んで怪しまないが、そもそも「建日向」を「たけひむか」と読む根拠が不明である。
この「建日向」は「建日に向かい」と読むべきなのだ。「建日」とは熊曽国であり、その本拠地は熊本県域だったから、八女市にあった邪馬台国とはまさに向かい合っている。
「日豊」は、これも「ひ・とよ」とは読まずに、「ひのゆたかなる」と読み、次の「久士比の泥(ね)わけ」 への形容と把握すべきである。
「久士比(くしひ)」とは「霊妙な」という意味だが、ここの場合は「統治能力のある大王」と解釈し、「泥別(ねわけ)」は「根分け」であるから、本筋の大王とは血のつながりのある王と捉えたい。
以上から「建日向日豊久士比泥別(たけひにむかい、ひのゆたかなる、くしひのねわけ)」を別名に持つ「肥国」は、おおむね今日の肥前国を指していると考える。
筑紫すなわち九州島は南九州に「熊曽国」があり、北部には「筑紫国」があり、北東部に「豊国」があり、そして今日の築後から肥前(佐賀・長崎)にかけては「肥国」があったことになる。再述するが、このうちの熊曽国が「建日別」であった。
<建日方別(たけひかたわけ)>
この国は別名「吉備児島」である。吉備の児島と言えば今は陸とつながっているが、古代は島であった。
「建日方別」というのは「建日別」の「地方」もしくは「片割れ」という意味で、言わば「建日別」の分国である。
なぜ瀬戸内海の中央部にある「吉備児島」が南九州の熊曽国の分国なのか。
これについては南九州からの「神武東征」を信じれば、容易に分かることで、古事記によれば「神武東征軍」は瀬戸内海に入ったのち、安芸の多祁理(たけり)宮で7年間、そして吉備の高島宮では8年間を過ごしている。
(※日本書紀ではこの「神武東征」の所要年数が古事記のに比べ著しく短くなっている。私はその3年余りという短期で東征を果たしたのは、南九州由来の東征ではなく、北部九州の「大倭」(北部九州倭人連合)のそれだと考える。その東征の主体こそは筑紫(白日別)王となった辰王こと崇神天皇であろう。)
後者の高島宮こそが、まだ海中にあった吉備児島に所在した。したがって吉備児島は南九州熊曽国(建日別)の分国扱いを受けたのである。
「神武東征」などまったく有り得ないとする戦後史学では考えもしない説だが、吉備は南九州との結びつきが強い地域で、古くは縄文土器に見られる「胎土」(土器用の粘土)に共通性があったり、弥生土器の「矢羽透かし彫り」に共通点があったりしている。彼我の交流は絶対に無視できない。
<建依別(たけよりわけ)>
四国(伊予の二名島)の4つの国のうち黒潮洗う土佐国を「建依別」というが、この意味は「建日が寄る国」ということで、南九州の建日別(熊曽国)の海人が海に出て、黒潮ルートに乗って紀伊半島から畿内を目指した場合、途中で寄港するに最適の港を持っていたのが土佐である。
神功皇后摂政元年紀に、皇后が新羅を討ったのちに皇子を産み、「穴門の豊浦宮」に軍勢を整え、畿内を目指そうとしたところ、畿内勢力である忍熊王の抵抗に遭い、それではと武内宿祢が生まれたばかりの赤子の皇子を抱えて、「皇子を懐き、横しまに南海より出でて、紀伊水門に泊らしめ」とあるように、武内宿祢の畿内への航路は南海航路、すなわち黒潮ルートであった。
南九州から畿内を目指す場合、黒潮ルートを採って紀伊半島に上陸し、紀ノ川を遡って五条・阿陀から葛城へ抜けるコースが最も早く、その航路を採る時は、土佐が水・食料の補給には最適な場所であった。そのことが「建依別」という国名に現れているのである。