現在の皇室をめぐっては、男系男子天皇が先細りになるということで、いろいろな論議がなされている。
もう女性天皇の擁立を視野に入れないと危うい――とまで言われている。
明治に制定された皇室典範の規定では、今しがた触れた「男系男子の天皇」でなければならないとされたので、後嗣の門戸が狭くなった。
現に、昭和天皇の皇子がなかなか生まれず、なかばあきらめかけた時に出生されたのが、現在の上皇(平成天皇・明仁陛下)であった(昭和8年12月23日)。
その後常陸宮もお生まれになり、男系男子危うしの危機は避けられた。
それが今、現天皇に男の子が生まれないことで、また昭和時代の危機感が再現されることになった。
それでも天皇の弟の秋篠宮が控えており、なおかつ秋篠宮悠仁さまもいらっしゃるので、当面の30年は「安泰」と見てよい。
そもそも皇室の後嗣をめぐっては、現天皇・皇后に皇子(男子)が生まれなかったことで取り沙汰されるようになったのだが、皇女の愛子さまが天皇になる可能性は無いことはないのだ。
女性天皇は歴代皇室には10代にわたって現実にあったのである。それを以下に示すと、
1.推古天皇(第33代 在位592~628年)
2.皇極天皇(第35代 在位642~645年)
3.斉明天皇(第37代 在位655~661年)
4.持統天皇(第41代 在位690~697年)
5.元明天皇(第43代 在位707~715年)
6.元正天皇(第44代 在位715~724年)
7.孝謙天皇(第46代 在位749~758年)
8.称徳天皇(第48代 在位764~770年)
9.明正天皇(第109代 在位1629~1643年)
10.後桜町天皇(第117代 在位1762~1770年)
となるが、2、3の皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、また7、8の孝謙天皇と称徳天皇も同一人物である(重祚)。
したがって10代と言っても現実には8人であり、現天皇まで126代を数えるうちのわずか8人に過ぎない。
1の推古天皇から8の称徳天皇までと、9と10の天皇では時代が全くかけ離れており、前者は飛鳥時代から奈良時代まで約180年間に現れた女性天皇、後者は江戸時代に入ってからの女性天皇である。
そこでまず9と10の天皇を先に見て行こう。
9の明正天皇は父が第108代の後水尾天皇(在位1643~1654年)で、男系男子の後嗣である。
10の後桜町天皇も父が第116代桃園天皇(在位1747~1762年)で、こちらも男系男子の後嗣である。
両天皇共に先代の父天皇が譲位または崩御の後、後嗣となるべき直系男子がまだ幼少だったため、代わりに(ピンチヒッター)として皇位を継いでいる。
さてでは前者のグループを見てみよう。これは次のように一覧で示す。(※Aは父、Bは母である。)
1、推古天皇 A欽明天皇(第9代 在位540~571年) B蘇我キタシヒメ(父は稲目)
2、皇極天皇 A茅渟王(父は押坂彦人大兄。祖父は敏達天皇 Bキビツヒメ(父は桜井皇子)
3、斉明天皇(重祚)・・・2と同じ
4、持統天皇 A天智天皇 B蘇我オチノイラツメ(蘇我馬子の妹)
5、元明天皇 A天智天皇 B蘇我メイノイラツメ(父は石川倉山田麻呂)
6、元正天皇 A草壁皇子 B元明天皇
7、孝謙天皇 A聖武天皇 B光明皇后(父は藤原不比等)
8、称徳天皇(重祚)・・・7と同じ
以上であるが、父方はすべて天皇または皇族である。したがって女性天皇とはいえ、男系男子からの血筋であることは満たされている。
簡単に即位の事情についてそれぞれ個別に見てみよう。
1の推古天皇擁立の背景には、前代の崇峻天皇の暗殺が影を落としている。欽明天皇の皇后キタシヒメ(蘇我氏)の父稲目の専横が、正当な後嗣の就任を妨げたのである。
2の即位前には蘇我馬子の孫の山背大兄(父は聖徳太子)と古人大兄(父は舒明天皇)の二人がいたが、山背大兄の自害という混乱の中、敏達天皇の孫の茅渟王の娘である宝皇女が後嗣となった。
3の皇極重祚だが、乙巳の変(大化の改新)で姉の皇極から皇位を継いだ孝徳天皇が難波宮で崩御し、その遺子である有間皇子が殺害されたので皇極が再び皇位に就いた。
4では夫の天武(第40代 在位672~686年)が崩御し、姉の大田皇女の所生の大津皇子が自害したので我が子草壁皇子を後嗣にしたのだが、即位前に死んだので、草壁の遺子軽皇子(文武天皇)がまだ幼少だったため、即位した。
5夫の草壁が即位前に亡くなり、後嗣となった軽皇子が文武天皇として即位したが、707年に崩御した時、その遺子である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼少だったため、母である元明天皇が即位した。
6の元正天皇は母である元明天皇の後嗣となった。弟の文武天皇の遺子である首(おびと)親王がまだ幼少であったためとされる。
7の孝謙天皇は父聖武天皇から生前譲位された。
8の孝謙天皇重祚だが、後嗣として譲位した淳仁天皇の配下の藤原仲麻呂が反乱を起こしたため、淡路島に流されたことを受けて再び即位した。
以上が格別に女性天皇の即位が続いた推古女帝(在位592~622年)から7代先の称徳女帝(在位764~770年)までおよそ180年であったが、この180年の間に数えられた天皇の代数は16代で、そのうちの半分の8代が女帝であった。
またこの8代の女帝の統治期間を合算すると92年になるが、この期間も180年のほぼ半分を占める。
偶然の一致かもしれないが、興味がもたれるところである。
また時代相としては、蘇我氏の専横(稲目から蝦夷までの110年)によって蘇我氏の后妃が輩出されていたのが、元明天皇時代を境に藤原氏に取って代わられたことが大きい。
藤原不比等の娘の宮子と光明子が相次いで后妃となり、その後、藤原氏は外戚として政権の中枢を担うようになった。
もう女性天皇の擁立を視野に入れないと危うい――とまで言われている。
明治に制定された皇室典範の規定では、今しがた触れた「男系男子の天皇」でなければならないとされたので、後嗣の門戸が狭くなった。
現に、昭和天皇の皇子がなかなか生まれず、なかばあきらめかけた時に出生されたのが、現在の上皇(平成天皇・明仁陛下)であった(昭和8年12月23日)。
その後常陸宮もお生まれになり、男系男子危うしの危機は避けられた。
それが今、現天皇に男の子が生まれないことで、また昭和時代の危機感が再現されることになった。
それでも天皇の弟の秋篠宮が控えており、なおかつ秋篠宮悠仁さまもいらっしゃるので、当面の30年は「安泰」と見てよい。
そもそも皇室の後嗣をめぐっては、現天皇・皇后に皇子(男子)が生まれなかったことで取り沙汰されるようになったのだが、皇女の愛子さまが天皇になる可能性は無いことはないのだ。
女性天皇は歴代皇室には10代にわたって現実にあったのである。それを以下に示すと、
1.推古天皇(第33代 在位592~628年)
2.皇極天皇(第35代 在位642~645年)
3.斉明天皇(第37代 在位655~661年)
4.持統天皇(第41代 在位690~697年)
5.元明天皇(第43代 在位707~715年)
6.元正天皇(第44代 在位715~724年)
7.孝謙天皇(第46代 在位749~758年)
8.称徳天皇(第48代 在位764~770年)
9.明正天皇(第109代 在位1629~1643年)
10.後桜町天皇(第117代 在位1762~1770年)
となるが、2、3の皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、また7、8の孝謙天皇と称徳天皇も同一人物である(重祚)。
したがって10代と言っても現実には8人であり、現天皇まで126代を数えるうちのわずか8人に過ぎない。
1の推古天皇から8の称徳天皇までと、9と10の天皇では時代が全くかけ離れており、前者は飛鳥時代から奈良時代まで約180年間に現れた女性天皇、後者は江戸時代に入ってからの女性天皇である。
そこでまず9と10の天皇を先に見て行こう。
9の明正天皇は父が第108代の後水尾天皇(在位1643~1654年)で、男系男子の後嗣である。
10の後桜町天皇も父が第116代桃園天皇(在位1747~1762年)で、こちらも男系男子の後嗣である。
両天皇共に先代の父天皇が譲位または崩御の後、後嗣となるべき直系男子がまだ幼少だったため、代わりに(ピンチヒッター)として皇位を継いでいる。
さてでは前者のグループを見てみよう。これは次のように一覧で示す。(※Aは父、Bは母である。)
1、推古天皇 A欽明天皇(第9代 在位540~571年) B蘇我キタシヒメ(父は稲目)
2、皇極天皇 A茅渟王(父は押坂彦人大兄。祖父は敏達天皇 Bキビツヒメ(父は桜井皇子)
3、斉明天皇(重祚)・・・2と同じ
4、持統天皇 A天智天皇 B蘇我オチノイラツメ(蘇我馬子の妹)
5、元明天皇 A天智天皇 B蘇我メイノイラツメ(父は石川倉山田麻呂)
6、元正天皇 A草壁皇子 B元明天皇
7、孝謙天皇 A聖武天皇 B光明皇后(父は藤原不比等)
8、称徳天皇(重祚)・・・7と同じ
以上であるが、父方はすべて天皇または皇族である。したがって女性天皇とはいえ、男系男子からの血筋であることは満たされている。
簡単に即位の事情についてそれぞれ個別に見てみよう。
1の推古天皇擁立の背景には、前代の崇峻天皇の暗殺が影を落としている。欽明天皇の皇后キタシヒメ(蘇我氏)の父稲目の専横が、正当な後嗣の就任を妨げたのである。
2の即位前には蘇我馬子の孫の山背大兄(父は聖徳太子)と古人大兄(父は舒明天皇)の二人がいたが、山背大兄の自害という混乱の中、敏達天皇の孫の茅渟王の娘である宝皇女が後嗣となった。
3の皇極重祚だが、乙巳の変(大化の改新)で姉の皇極から皇位を継いだ孝徳天皇が難波宮で崩御し、その遺子である有間皇子が殺害されたので皇極が再び皇位に就いた。
4では夫の天武(第40代 在位672~686年)が崩御し、姉の大田皇女の所生の大津皇子が自害したので我が子草壁皇子を後嗣にしたのだが、即位前に死んだので、草壁の遺子軽皇子(文武天皇)がまだ幼少だったため、即位した。
5夫の草壁が即位前に亡くなり、後嗣となった軽皇子が文武天皇として即位したが、707年に崩御した時、その遺子である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼少だったため、母である元明天皇が即位した。
6の元正天皇は母である元明天皇の後嗣となった。弟の文武天皇の遺子である首(おびと)親王がまだ幼少であったためとされる。
7の孝謙天皇は父聖武天皇から生前譲位された。
8の孝謙天皇重祚だが、後嗣として譲位した淳仁天皇の配下の藤原仲麻呂が反乱を起こしたため、淡路島に流されたことを受けて再び即位した。
以上が格別に女性天皇の即位が続いた推古女帝(在位592~622年)から7代先の称徳女帝(在位764~770年)までおよそ180年であったが、この180年の間に数えられた天皇の代数は16代で、そのうちの半分の8代が女帝であった。
またこの8代の女帝の統治期間を合算すると92年になるが、この期間も180年のほぼ半分を占める。
偶然の一致かもしれないが、興味がもたれるところである。
また時代相としては、蘇我氏の専横(稲目から蝦夷までの110年)によって蘇我氏の后妃が輩出されていたのが、元明天皇時代を境に藤原氏に取って代わられたことが大きい。
藤原不比等の娘の宮子と光明子が相次いで后妃となり、その後、藤原氏は外戚として政権の中枢を担うようになった。