以下の論考は2021年9月に吾平コミュニティ協議会の求めに応じて書いたものである。
机の上に積み重なった本や書類の下から見つけたので、廃棄しないうちにここに書き残すことにした。
『吾平山上陵の魅力と発信』
(1)古事記・日本書紀の神話から見た日向三代の特質および御陵
吾平山上陵は可愛山陵(えのさんりょう=ニニギノミコト)・高屋山上陵(ホオリノミコト・ホホデミノミコト=山幸)と並んで「神代三山陵」としてよく知られているが、吾平山上陵に眠っているとされるのはウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメノミコトである。
しかし古事記では、ホホデミの最期を「580歳を高千穂宮にいまして、御陵は高千穂の山の西にあり」とやや具体的に書いてはいるが、二ニギとウガヤフキアエズに関しては寿命も御陵も書かれていない。
また日本書紀の方は、二ニギについて「久しくあってニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵の葬った」とあり、またホホデミについて「久しくあってホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」と、御陵については具体的である。
そしてウガヤフキアエズについては「久しくあってウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」と書く。
古事記は「皇孫の日向三代」と言いながら、二代目のホホデミの御陵しか記していないので、神代三山陵を取り上げる際には日本書紀の方を参照するほかない。
ただ、古事記にだけ書かれているホホデミノミコトの寿命が580年であったという点について、これは当然一人の寿命では有り得ず、私はホホデミ時代が何代も続いていた、つまりホホデミ王朝の存在を考えている。
さらに「参照すべき」と言った日本書紀の上記下線の部分「久しくあって」という共通の表現を見た時、二ニギもウガヤフキアエズもホホデミと同じように「数百歳、〇〇宮にましまして、御陵は・・・」と補うべきだと考えている。つまり二ニギ王朝、ウガヤ王朝の存在を想定するのである。
その各王朝の継続年代については、ホホデミ王朝の580年しか確実なことは言えないのだが、少なくとも南九州(古日向)において、500年とか1000年とかの単位で存在したと考えたい。
ウガヤ王朝最後の王(第〇代ウガヤ王)が崩御された時に営まれたのが、現在残されている吾平山上陵(旧鵜戸山陵=明治7年に内務省が治定した)であると考えるのである。
(2)神代三山陵の中で、吾平山上陵の特徴とは
「鵜戸」とは「洞窟」のことで、神代三山陵のうち可愛山陵も高屋山上陵も「山上陵」であるのに対し、極めて異質な御陵である。
この洞窟陵がどうして御陵となったかについてはよく疑問とされるところで、私は次のように考えている。
一般的に言って、貴人が亡くなると「お隠れになった」という場合がある。
「お隠れになる」とはこの世から隠れる、つまり「あの世」に行ってしまうことだが、「お隠れになる」という表現は実は「今は隠れただけ。また戻って来る」というニュアンスを含んでいる。その典型が「天岩窟(あめのいわや)隠れ神話」だろう。
アマテラス大神が弟のスサノヲノミコトの乱暴狼藉に耐えかねて「岩窟」に籠ってしまい、世の中が真っ暗闇になるという話である。
この時に、岩窟の外に集まった神々のうちアメノウズメノミコトが、面白おかしくストリップまがいの所作をして踊り、それを見た神々は喝采し大声で笑った。そのどよめきが聞こえて来たので隠れていたアマテラス大神は「どうしたことか」と岩窟の戸をそっと開けて外を覗いた。
そこを見逃さず、タヂカラヲノミコトが岩戸に手を入れ、明けはなってアマテラス大神を中から引っ張り出し、世の中に明るさが戻った。そしてさんざん悪行を働いたスサノヲは追放された。
以上が「天岩窟隠れ神話」だが、これと同じような危機的な状況が南九州(古日向)に発生し、ウガヤ王朝最後の第○○代ウガヤ王は通常の山陵、つまり円墳のように地上に盛り上げた形の御陵を営めなくなり、このような洞窟陵になったのではないか?
(※ただ「山上陵」という表記については、幕末の国学者・後醍院真柱が書いているように、洞窟陵だが村里から離れた山中深い場所にあるので、「山上陵」と称して差し支えないだろう。)
ウガヤ王の吾平の御陵が洞窟陵になった「危機的な状況」が具体的に何であったのかは推測でしかないが、おそらく南九州特有の火山の大噴火もしくは巨大な南海トラフ型地震の類ではないだろうか。
あるいは今まさに世界を覆っている新型ウイルスによる疫病の流行によるものかもしれない。洞窟御陵の前面に清流を巡らすというこの上ない構成は、ウイルスによる伝染を遮断することを狙ったようにも見える。
(追記※…そしてこの危機的状況が南九州からの移住的東征(東遷)を促したと考えている。その主体は南九州に存在した「投馬(つま)国」であり、その引率者の名は「タギシミミ」だったというのが、私論である。)
(3)吾平山上陵の自然環境
吾平山上陵がある吾平町の姶良川上流のうつくしさ、自然環境の素晴らしさは、他の山陵を寄せ付けない。
吾平山上陵のたたずまいは、洞窟部分を「神殿」になぞらえれば、よく言われるように「小伊勢」と呼ぶにふさわしい。姶良川の清流は伊勢神宮の脇を流れる五十鈴川に匹敵するかそれ以上である。
(4)ウガヤフキアエズノミコトの事績
これについてはミコト自身がどうこうしたという記録はないのであるが、興味深いのがその生まれ方と育てられ方である。
ミコトは海神の娘であるトヨタマヒメから生まれたとされるのだが、母トヨタマヒメは海辺(渚)に生まれたばかりのミコトを置き去りにして海に帰ってしまう。
古事記ではトヨタマヒメの本性を「八尋ワニ」とし、日本書紀では「竜」とするが、「ワニ」は沖縄でいう「サバニ」(小舟)の「バニ」で船のこと。また「竜」はドラゴンボート、つまりこちらも船のことなのだ。要するにトヨタマヒメは海宮(海の向こう)から船に乗って渚に渡来し、船に乗って帰ったのだ。
また母は妹のタマヨリヒメ(トヨタマニ寄り添うヒメ)を地上に送ってミコトの養育をさせるのだが、未婚のタマヨリヒメは乳が出ないので困っていると、「飴屋敷」に住む老婆が乳に代わる「飴」を作ってくれ、また作り方を教えてくれて養育することができた。
この「飴」についてはキャンディーに近い固い飴と思われがちだが、実は液体状の飴も存在する。例えば麦の麦芽から作られる「麦芽糖」がある。米からは米麴を利用してつくる「もろみ」なども発行する直前に火を入れれば、アルコール発酵が抑えられて「健康飲料」になる。
アフリカのエチオピアに住むある部族では「パルショータ」という名のキビ製の「白酒」に近いものを作り、幼児から大人まで飲むのだが、栄養満点だそうである。
「飴屋敷」の老婆が作ってくれたのはこの「飲む飴」のことで、立派に乳代わりとなる。けっして宮崎県日南市の鵜戸神宮で頒布される固い「お乳飴」の類ではない。
さてウガヤノミコト自身の事績としては、養育者であった叔母に当たるタマヨリヒメと結婚して次の4人の皇子たちを産み育てたことだ。
その4人とは、彦イツセ・イナヒ・ミケイリノ・カムヤマトイワレヒコの4人だが、このうち彦イツセとカムヤマトイワレヒコの二人はカムヤマトイワレヒコの息子のタギシミミを伴って南九州から瀬戸内海を経て大和へ「東征」した。
※ただし、私見ではこの「東征」は上の(2)で指摘したように、当時南九州で突発した「危機的状況」に瀕したため、やむなく行われた「移住的な東遷」と考えている。
(5)魅力の発信が不可欠
以上が吾平山上陵を巡る「あるある」だが、これを踏まえて地域興しをするには「するする」(発信・行動)が最重要である。
私見だが、(2)からは「山陵祭」「岩戸明けまつり」というような祭事が考えられる。
「洞窟にお隠れになっているウガヤ王の復活」と「タマヨリヒメの優しさの発現」により、明るく平和な世が続くことを願う、という趣旨で行ったらどうか。(※「山陵太鼓」と下名の宮毘神社で行われていたアメノウズメの神舞を奉納する。)
かつて鵜戸神社がまだ吾平山上陵の川向かいに鎮座していた時代に、どんな祭りが奉納されていたかが参考になろう。
また、現在の鵜戸神社から祭神のウガヤ王とタマヨリヒメを乗せた山車を牽いて、故地である山陵まで行列をするという行事があってもよい。
(3)については、ドローンを使って姶良川中流から山陵に至り、さらに自然公園と姶良川源流部の滝を撮影し、それをSNSで発信することが考えられる。定期的に飛ばして吾平の自然環境と歴史の魅力を発信し続けることが肝要である。
(4)からは、液体状の「飴」を実際に作り、もろみ飲料「お乳飴」(仮称)として発売する。健康飲料として保育園・幼稚園・老健施設などに薦めたい。そのほかにも山陵ゆかりの土産品の開発が必要となる。
また、関西・関東吾平会などに呼びかけ、関西や関東からの吾平山上陵巡りツアーなるものを検討できよう。―南九州から「東征」して橿原に最初の王朝を築いた神武天皇のふるさと。神武天皇のお父さんお母さんの眠る御陵―というようなキャッチフレーズでツアー客を誘致できないだろうか。
机の上に積み重なった本や書類の下から見つけたので、廃棄しないうちにここに書き残すことにした。
『吾平山上陵の魅力と発信』
(1)古事記・日本書紀の神話から見た日向三代の特質および御陵
吾平山上陵は可愛山陵(えのさんりょう=ニニギノミコト)・高屋山上陵(ホオリノミコト・ホホデミノミコト=山幸)と並んで「神代三山陵」としてよく知られているが、吾平山上陵に眠っているとされるのはウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメノミコトである。
しかし古事記では、ホホデミの最期を「580歳を高千穂宮にいまして、御陵は高千穂の山の西にあり」とやや具体的に書いてはいるが、二ニギとウガヤフキアエズに関しては寿命も御陵も書かれていない。
また日本書紀の方は、二ニギについて「久しくあってニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵の葬った」とあり、またホホデミについて「久しくあってホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」と、御陵については具体的である。
そしてウガヤフキアエズについては「久しくあってウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」と書く。
古事記は「皇孫の日向三代」と言いながら、二代目のホホデミの御陵しか記していないので、神代三山陵を取り上げる際には日本書紀の方を参照するほかない。
ただ、古事記にだけ書かれているホホデミノミコトの寿命が580年であったという点について、これは当然一人の寿命では有り得ず、私はホホデミ時代が何代も続いていた、つまりホホデミ王朝の存在を考えている。
さらに「参照すべき」と言った日本書紀の上記下線の部分「久しくあって」という共通の表現を見た時、二ニギもウガヤフキアエズもホホデミと同じように「数百歳、〇〇宮にましまして、御陵は・・・」と補うべきだと考えている。つまり二ニギ王朝、ウガヤ王朝の存在を想定するのである。
その各王朝の継続年代については、ホホデミ王朝の580年しか確実なことは言えないのだが、少なくとも南九州(古日向)において、500年とか1000年とかの単位で存在したと考えたい。
ウガヤ王朝最後の王(第〇代ウガヤ王)が崩御された時に営まれたのが、現在残されている吾平山上陵(旧鵜戸山陵=明治7年に内務省が治定した)であると考えるのである。
(2)神代三山陵の中で、吾平山上陵の特徴とは
「鵜戸」とは「洞窟」のことで、神代三山陵のうち可愛山陵も高屋山上陵も「山上陵」であるのに対し、極めて異質な御陵である。
この洞窟陵がどうして御陵となったかについてはよく疑問とされるところで、私は次のように考えている。
一般的に言って、貴人が亡くなると「お隠れになった」という場合がある。
「お隠れになる」とはこの世から隠れる、つまり「あの世」に行ってしまうことだが、「お隠れになる」という表現は実は「今は隠れただけ。また戻って来る」というニュアンスを含んでいる。その典型が「天岩窟(あめのいわや)隠れ神話」だろう。
アマテラス大神が弟のスサノヲノミコトの乱暴狼藉に耐えかねて「岩窟」に籠ってしまい、世の中が真っ暗闇になるという話である。
この時に、岩窟の外に集まった神々のうちアメノウズメノミコトが、面白おかしくストリップまがいの所作をして踊り、それを見た神々は喝采し大声で笑った。そのどよめきが聞こえて来たので隠れていたアマテラス大神は「どうしたことか」と岩窟の戸をそっと開けて外を覗いた。
そこを見逃さず、タヂカラヲノミコトが岩戸に手を入れ、明けはなってアマテラス大神を中から引っ張り出し、世の中に明るさが戻った。そしてさんざん悪行を働いたスサノヲは追放された。
以上が「天岩窟隠れ神話」だが、これと同じような危機的な状況が南九州(古日向)に発生し、ウガヤ王朝最後の第○○代ウガヤ王は通常の山陵、つまり円墳のように地上に盛り上げた形の御陵を営めなくなり、このような洞窟陵になったのではないか?
(※ただ「山上陵」という表記については、幕末の国学者・後醍院真柱が書いているように、洞窟陵だが村里から離れた山中深い場所にあるので、「山上陵」と称して差し支えないだろう。)
ウガヤ王の吾平の御陵が洞窟陵になった「危機的な状況」が具体的に何であったのかは推測でしかないが、おそらく南九州特有の火山の大噴火もしくは巨大な南海トラフ型地震の類ではないだろうか。
あるいは今まさに世界を覆っている新型ウイルスによる疫病の流行によるものかもしれない。洞窟御陵の前面に清流を巡らすというこの上ない構成は、ウイルスによる伝染を遮断することを狙ったようにも見える。
(追記※…そしてこの危機的状況が南九州からの移住的東征(東遷)を促したと考えている。その主体は南九州に存在した「投馬(つま)国」であり、その引率者の名は「タギシミミ」だったというのが、私論である。)
(3)吾平山上陵の自然環境
吾平山上陵がある吾平町の姶良川上流のうつくしさ、自然環境の素晴らしさは、他の山陵を寄せ付けない。
吾平山上陵のたたずまいは、洞窟部分を「神殿」になぞらえれば、よく言われるように「小伊勢」と呼ぶにふさわしい。姶良川の清流は伊勢神宮の脇を流れる五十鈴川に匹敵するかそれ以上である。
(4)ウガヤフキアエズノミコトの事績
これについてはミコト自身がどうこうしたという記録はないのであるが、興味深いのがその生まれ方と育てられ方である。
ミコトは海神の娘であるトヨタマヒメから生まれたとされるのだが、母トヨタマヒメは海辺(渚)に生まれたばかりのミコトを置き去りにして海に帰ってしまう。
古事記ではトヨタマヒメの本性を「八尋ワニ」とし、日本書紀では「竜」とするが、「ワニ」は沖縄でいう「サバニ」(小舟)の「バニ」で船のこと。また「竜」はドラゴンボート、つまりこちらも船のことなのだ。要するにトヨタマヒメは海宮(海の向こう)から船に乗って渚に渡来し、船に乗って帰ったのだ。
また母は妹のタマヨリヒメ(トヨタマニ寄り添うヒメ)を地上に送ってミコトの養育をさせるのだが、未婚のタマヨリヒメは乳が出ないので困っていると、「飴屋敷」に住む老婆が乳に代わる「飴」を作ってくれ、また作り方を教えてくれて養育することができた。
この「飴」についてはキャンディーに近い固い飴と思われがちだが、実は液体状の飴も存在する。例えば麦の麦芽から作られる「麦芽糖」がある。米からは米麴を利用してつくる「もろみ」なども発行する直前に火を入れれば、アルコール発酵が抑えられて「健康飲料」になる。
アフリカのエチオピアに住むある部族では「パルショータ」という名のキビ製の「白酒」に近いものを作り、幼児から大人まで飲むのだが、栄養満点だそうである。
「飴屋敷」の老婆が作ってくれたのはこの「飲む飴」のことで、立派に乳代わりとなる。けっして宮崎県日南市の鵜戸神宮で頒布される固い「お乳飴」の類ではない。
さてウガヤノミコト自身の事績としては、養育者であった叔母に当たるタマヨリヒメと結婚して次の4人の皇子たちを産み育てたことだ。
その4人とは、彦イツセ・イナヒ・ミケイリノ・カムヤマトイワレヒコの4人だが、このうち彦イツセとカムヤマトイワレヒコの二人はカムヤマトイワレヒコの息子のタギシミミを伴って南九州から瀬戸内海を経て大和へ「東征」した。
※ただし、私見ではこの「東征」は上の(2)で指摘したように、当時南九州で突発した「危機的状況」に瀕したため、やむなく行われた「移住的な東遷」と考えている。
(5)魅力の発信が不可欠
以上が吾平山上陵を巡る「あるある」だが、これを踏まえて地域興しをするには「するする」(発信・行動)が最重要である。
私見だが、(2)からは「山陵祭」「岩戸明けまつり」というような祭事が考えられる。
「洞窟にお隠れになっているウガヤ王の復活」と「タマヨリヒメの優しさの発現」により、明るく平和な世が続くことを願う、という趣旨で行ったらどうか。(※「山陵太鼓」と下名の宮毘神社で行われていたアメノウズメの神舞を奉納する。)
かつて鵜戸神社がまだ吾平山上陵の川向かいに鎮座していた時代に、どんな祭りが奉納されていたかが参考になろう。
また、現在の鵜戸神社から祭神のウガヤ王とタマヨリヒメを乗せた山車を牽いて、故地である山陵まで行列をするという行事があってもよい。
(3)については、ドローンを使って姶良川中流から山陵に至り、さらに自然公園と姶良川源流部の滝を撮影し、それをSNSで発信することが考えられる。定期的に飛ばして吾平の自然環境と歴史の魅力を発信し続けることが肝要である。
(4)からは、液体状の「飴」を実際に作り、もろみ飲料「お乳飴」(仮称)として発売する。健康飲料として保育園・幼稚園・老健施設などに薦めたい。そのほかにも山陵ゆかりの土産品の開発が必要となる。
また、関西・関東吾平会などに呼びかけ、関西や関東からの吾平山上陵巡りツアーなるものを検討できよう。―南九州から「東征」して橿原に最初の王朝を築いた神武天皇のふるさと。神武天皇のお父さんお母さんの眠る御陵―というようなキャッチフレーズでツアー客を誘致できないだろうか。