昨日のNHK特番「アイヌと沖縄」(副題ー戦争の記憶をめぐってー)は今朝(6月18日)にも再放送されたが、糸満市の真栄平地区に建立された「南北の塔」という慰霊碑について、その歴史を紐解く貴重なドキュメンタリーだった。
そもそも沖縄戦に本土からの派遣を含む陸軍兵士約10万が戦死したが、その約3割が沖縄人だった。また一般住民も約9万5千が戦没しており、合計13万の沖縄県民が命を落としている。
その結果、戦前に60万人と言われた沖縄県の人口の約25パーセントが失われてしまった。
戦死者の絶対数では東京大空襲、広島への原爆投下、長崎へのプルトニウム爆弾投下による戦死者と肩を並べるが、沖縄の場合は米軍による空からの爆撃ではなく、米軍との地上戦による戦死者だった。そこに大きな違いがある。
要するに太平洋戦争で唯一本土で「地上戦」が行われたのが沖縄であり、招集された者だけではなく、一般県民が米軍による攻撃にさらされたのだ。
戦術的に言えば沖縄は「本土防衛の最前線であり、米軍が本土に上陸しないよう阻止する役目を担わされた」のである。
下手をすれば沖縄を奪取後、米軍は南九州を制圧したかもしれない。いわゆる「オリンピック作戦」と言われ、鹿児島県の志布志湾と吹上浜に上陸して南九州を占領下に置く米軍の軍略であった。
1945年4月1日に沖縄本島中部に上陸した米軍は、首都の那覇をめがけて南下し、ついに日本軍を南へ追い詰めていった。プーチンのロシア軍ではないが、簡単に制圧できるだろうと見込んでいたものの、6月23日に終焉するまで2か月半以上もかかってしまった。
その間に米軍側も1万2千人という戦死者を出し、沖縄県民と日本軍の頑強な抵抗に遭っていたのである(南九州はじめ多くの空港から特攻隊機が飛び立ち、米軍に相当の被害を与えていた)。
この県民の奮闘(ひめゆり部隊、鉄血勤王隊などの沖縄決死隊)は、かねてから心を揺さぶられていた当時の島田県知事及び陸軍沖縄根拠地司令官太田実による「沖縄県民かく戦えり。後世に格別の恩寵あらんことを」という本土陸軍部への打電(モールス信号)によって明らかにされた。
南九州人はすべからくこの沖縄人の決死の奮闘に感謝すべきだろう。
標題に帰るが、沖縄に送られた陸軍兵士の多くは「第24師団」に属し、とくに北海道からは約1万人の多きを数えたという。その中にはアイヌ人がいて、やはり招集は免れなかった。
アイヌ人の弟子豊治(てし・とよはる)という人も招集されて沖縄に送られたのだが、幸運にも戦死を免れ、終戦後の1953年になって「南北の塔」という慰霊碑を建立した。場所は弟子氏が駐屯していた糸満市の真栄平(まえひら)地区で、この地区では住民の半数が戦没したという。
アイヌ人が建立したので「南北の塔」が「アイヌ人の慰霊碑」という風に誤解されることが多かったのだが、実質は「南の人も北の人も戦没した人は誰でも慰霊する」という考えだったそうだ。
ただ慰霊の仕方がアイヌ風であり、それが「アイヌだけの慰霊塔」と誤解された面もあった。
建立した弟子豊治氏の後継者の秋辺日出男という人が、十何年かぶりに真栄平の「南北の塔」(アイヌ語名=キムンウタリ)を訪れ、その前で慰霊の祈りを捧げていた。
その先祖祭りをアイヌ語で「イチャルパ」といい、魂の形代(かたしろ)を「イナウ」といい、南北の塔の前にそれを供えてから「イチャルパ」という祈りを捧げるのだが、アイヌ特有の抑揚を除けば、神社で唱えられる祝詞に似ていないこともない。
1945年6月23日には沖縄での戦闘が終わるが、結局のところ、沖縄戦では日本軍約10万(その中には沖縄人兵士・軍属の2万8千が含まれる)、沖縄県民約10万、そして米軍戦死者1万2千であり、終戦時の戦没者は22万2千人が数えられる。
因みに沖縄県民だけを抽出すれば、約12万8千が戦没したことになり、その多くは男子だったため、沖縄では終戦直後の男女比は3対7だったそうである。
そもそも沖縄戦に本土からの派遣を含む陸軍兵士約10万が戦死したが、その約3割が沖縄人だった。また一般住民も約9万5千が戦没しており、合計13万の沖縄県民が命を落としている。
その結果、戦前に60万人と言われた沖縄県の人口の約25パーセントが失われてしまった。
戦死者の絶対数では東京大空襲、広島への原爆投下、長崎へのプルトニウム爆弾投下による戦死者と肩を並べるが、沖縄の場合は米軍による空からの爆撃ではなく、米軍との地上戦による戦死者だった。そこに大きな違いがある。
要するに太平洋戦争で唯一本土で「地上戦」が行われたのが沖縄であり、招集された者だけではなく、一般県民が米軍による攻撃にさらされたのだ。
戦術的に言えば沖縄は「本土防衛の最前線であり、米軍が本土に上陸しないよう阻止する役目を担わされた」のである。
下手をすれば沖縄を奪取後、米軍は南九州を制圧したかもしれない。いわゆる「オリンピック作戦」と言われ、鹿児島県の志布志湾と吹上浜に上陸して南九州を占領下に置く米軍の軍略であった。
1945年4月1日に沖縄本島中部に上陸した米軍は、首都の那覇をめがけて南下し、ついに日本軍を南へ追い詰めていった。プーチンのロシア軍ではないが、簡単に制圧できるだろうと見込んでいたものの、6月23日に終焉するまで2か月半以上もかかってしまった。
その間に米軍側も1万2千人という戦死者を出し、沖縄県民と日本軍の頑強な抵抗に遭っていたのである(南九州はじめ多くの空港から特攻隊機が飛び立ち、米軍に相当の被害を与えていた)。
この県民の奮闘(ひめゆり部隊、鉄血勤王隊などの沖縄決死隊)は、かねてから心を揺さぶられていた当時の島田県知事及び陸軍沖縄根拠地司令官太田実による「沖縄県民かく戦えり。後世に格別の恩寵あらんことを」という本土陸軍部への打電(モールス信号)によって明らかにされた。
南九州人はすべからくこの沖縄人の決死の奮闘に感謝すべきだろう。
標題に帰るが、沖縄に送られた陸軍兵士の多くは「第24師団」に属し、とくに北海道からは約1万人の多きを数えたという。その中にはアイヌ人がいて、やはり招集は免れなかった。
アイヌ人の弟子豊治(てし・とよはる)という人も招集されて沖縄に送られたのだが、幸運にも戦死を免れ、終戦後の1953年になって「南北の塔」という慰霊碑を建立した。場所は弟子氏が駐屯していた糸満市の真栄平(まえひら)地区で、この地区では住民の半数が戦没したという。
アイヌ人が建立したので「南北の塔」が「アイヌ人の慰霊碑」という風に誤解されることが多かったのだが、実質は「南の人も北の人も戦没した人は誰でも慰霊する」という考えだったそうだ。
ただ慰霊の仕方がアイヌ風であり、それが「アイヌだけの慰霊塔」と誤解された面もあった。
建立した弟子豊治氏の後継者の秋辺日出男という人が、十何年かぶりに真栄平の「南北の塔」(アイヌ語名=キムンウタリ)を訪れ、その前で慰霊の祈りを捧げていた。
その先祖祭りをアイヌ語で「イチャルパ」といい、魂の形代(かたしろ)を「イナウ」といい、南北の塔の前にそれを供えてから「イチャルパ」という祈りを捧げるのだが、アイヌ特有の抑揚を除けば、神社で唱えられる祝詞に似ていないこともない。
1945年6月23日には沖縄での戦闘が終わるが、結局のところ、沖縄戦では日本軍約10万(その中には沖縄人兵士・軍属の2万8千が含まれる)、沖縄県民約10万、そして米軍戦死者1万2千であり、終戦時の戦没者は22万2千人が数えられる。
因みに沖縄県民だけを抽出すれば、約12万8千が戦没したことになり、その多くは男子だったため、沖縄では終戦直後の男女比は3対7だったそうである。