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安倍元首相の国葬に反対

2022-09-01 14:07:23 | 日本の時事風景
岸田首相は1か月前に早々と「安倍元首相の葬儀を国葬で行う」と表明した。

戦後の日本で国葬したのは吉田茂元首相だけだった。吉田元首相の葬儀が国葬になった理由は何なのか。 

1967年10月20日に89歳で死去した吉田茂は、戦後まもなく首相に就任し、第5次まで(1946年5月22日~1954年12月7日。ただし途中で片山哲内閣の9か月と芦田均内閣の7か月を除く7年3か月)内閣を組織した超大物で、戦後のアメリカ占領期に日本独自の道を模索した政治家としてとして強面のイメージのあった首相である。

因みに吉田首相の前の首相は東久迩稔彦(皇族)・幣原喜重郎(元外相)で、ともに選挙の洗礼を受けずに組閣したのだが、吉田首相の場合は1946年4月10日に行われた総選挙の結果を受けて組閣している。(※もっともこの時の選挙では女性の選挙権はなかった。)

この時期は当然ながらマッカーサ―率いる連合軍による日本占領下であり、吉田が選出された時点ではまだ憲法は形式的には帝国憲法が適用されていた。

ところが吉田が就任した1946年はまさにマッカーサーによる帝国主義日本の完全打破政策がうなりを上げており、新憲法も日本側の提示した松本蒸治案が拒否されてアメリカ側の案が採用されたし、占領目的阻害行為処罰令が公布されて連合国の占領目的に反対する行為はすべて処罰された。

つまりマッカーサーが最高司令官として連合国が日本を「民主化し、弱体化する」ためには手段を択ばない強権による占領政策が行われたのである。アメリカ主導によって生まれた新憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)でもっとも重視されたのは天皇条項と9条であった。

天皇を旧憲法下における日本の元帥から「日本国の象徴」とし、9条によって日本が対外戦争をするのを放棄させたが、日本弱体化のエッセンスはこの二つの憲法条文であった。(※9条第一項では政治の延長上の対外戦争は放棄なのだが、第二項の戦力不保持はあくまでも第一項に規定された国策としての対外戦争向けの戦力は持たないということで、国内向けの戦力保持は否定されていないと私は解釈している。国内の暴動や内乱を鎮めるための戦力は当時も今も必要である。)

かくのごとく日本が決して「欧米という国際社会」にたいして牙を剥かないようにするのが、アメリカ主導の新憲法成立の目的であった。

ところが中国大陸で共産勢力が次第に力を増し、ついに蒋介石の国民党政府(中華民国)が劣勢に立つようになった1948年になると、共産勢力の動向に対してアメリカの対日政策が大きく変化した。一言でいえば、日本をソ連を含む共産勢力の盾にしようというものである。

国内的には保安隊及び警察予備隊の発足で、日本人が武器を携行することを解禁し、さらに1950年の元旦に年頭の辞でマッカーサーは「日本国憲法は自己防衛の権利を否定していない」と声明を発表し、アメリカ主導で作られた戦力不保持の条項(第9条)を持つ日本国憲法に対して、アメリカ自らがそれを否定したのであった。

そのうえマッカーサーは当時の吉田首相に対し、戦力を保持して共産勢力に備えて欲しい旨を進言した。ところが吉田は「日本は今度の戦争による疲弊が極めて大きく、とてもじゃないが戦いに出ることは不可能。今は復興に注力する」として、朝鮮動乱の際にも兵力を差し向けることはなかった。

このことは吉田元首相最大の功績である。

このことと全権としてサンフランシスコ講和において調印したこと(1951年9月8日)、および5次組閣で7年余りという長きにわたって首相を務めたことが死後に国葬となった理由だろう。

ところが一つだけ大きな失点があった。それは吉田元首相も折に触れ述べているのだが、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結と同時にアメリカとの安全保障条約(第1次)サインしたことである。(※朝鮮動乱の休戦後の1953年10月1日、韓国でも米韓安全保障条約が結ばれた。)

サンフランシスコ講和はアメリカ側からすれば「対日平和条約」であり、戦争当事国日本の独立を認めたのである。そしてこのことによって日本は連合軍の占領を解かれ、晴れて真正の独立国家になったのだが、真正の独立国家でありながらアメリカ軍の駐留を許すという不可解な状態に置かれてしまった。(※今日まで続く日米安保の不平等性はここに起因する。したがって日本はいまだにアメリカから真の独立をしていないということでもある。)

これは吉田の失点とは言いながら、当時の極東の共産化情勢を危惧したアメリカ側のごり押しに屈したわけだから、仕方がないと言えば言える。

それにもかかわらず、吉田はアメリカの戦力復活要求に最後まで抵抗した人物として国葬に値すると考えられたのだろう。国葬当時の首相は佐藤栄作であった。(※佐藤栄作の在位は1964年11月9日~1972年7月6日)

さて吉田の経歴に対し、今度国葬にすると発表された安倍元首相だが、果たして国葬に値するのだろうか。

アメリカに対してだが、吉田は再軍備要求をはねつけた(その代わり米軍の駐留を認めた第1次安保に調印した)が、安倍元首相はアメリカとの強固な同盟関係(第2次日米安保=1960年~現在)を積極的に維持しつつ、世界に開かれた外交を展開した。

要するに安倍氏は日米安保という日本の真の独立を損なっている条約を強固に認め、その上で世界各国との交流をより一層深めて行こうとし、実際にそれを行った。そのことについて、安倍のあとを継いだ菅義偉首相は「私はあのようにはできない」と舌を巻いていたが、確かに歴代首相の中では群を抜いて諸国歴訪に精を出した人である。

だがアメリカのトランプとは親密さを見せつけていたが、ロシアのプーチンとはどうだったか。28回とか言われる対プーチン会談の回数には驚かされるが、成果はあったのかというとほぼ皆無であった。

また首相就任当時に拉致被害者連絡協議会のメンバーに会って「私の代で拉致問題は解決させますから」と大見得を切ったのだが、こっちはなしのつぶてだった。トランプとそれほど親密ならば一緒に行って板門店で金正恩に直接会ってもよさそうだったのに。

この二件を取り上げただけでも決して外交上手とは言えない。

また安全保障法制を制定したのは功績と言われるが、これはただアメリカに迎合した(忖度した)法整備でしかない。

桜を見る会の会計上の不備、加計獣医大学設立に関するお友達支援、そして安倍元首相をめぐる最大の疑惑である森友学園問題。これらはまだすっきりとは解決されていない。特に森友学園問題では関西財務局の職員ひとりの自死を生んでしまった。

そして今度の旧統一協会との癒着問題は、安倍氏の死亡後に、表現は悪いが「死んだからこそ」クローズアップされている。

・・・等々、安倍元首相の功罪のうちどちらかというと罪の部分が大きいようだ。

しかし、もちろん首相として戦前戦後を通じて最長の就任期間を誇り、総選挙なども二期目以降、自民党は連戦連勝であった。

要するに自民党を絶対の安定勢力にした功績は、間違いなく抜きんでている。

またその死が突然であり、しかも暗殺という点で国民のみならず世界に衝撃を与えた。それゆえの各国指導者からの弔意は多いし大きいものがあることは理解できる。岸田首相が「弔問外交」というのもある程度は理解できる。

しかし国葬には当たらないだろう。

佐藤栄作首相や中曽根康弘首相も「内閣・自民党葬」だったことを考えると、安倍元首相も同じレベルがふさわしい。特に佐藤首相(安倍氏の大叔父)はアメリカが属領にしておきたかった沖縄を日本へ返還させた功労者で、平和裏にアメリカから返還させたことでノーベル平和賞さえ貰っている。この人さえ国葬にならなかったのだから、安倍氏の場合、無論、国葬にはすべきではない。