今日はイスラエルとハマスの停戦合意の最終日で、この停戦の7日間でイスラエルにハマスから80人ほどの人質が解放され、イスラエルからパレスチナのガザ地区にのべ240人が解放されたという。
後半の3日間は当初の合意である4日間を終えたあと、カタールの仲介でなお1日ごとに10人のイスラエル人が解放される取り決めとなっていたのだが、それも3日で終了となった。
最終日の11月30日を過ぎたら、もう戦闘が始まったようだ。
これまでに双方の死者はイスラエル側が1200人から1400人、ガザ側が1万4000人とか聞く。イスラエルは報復としてイスラエルが受けた戦死者の10倍の報復に「成功」したことになる。
やられたらやり返す、それも10倍の規模で。
つねに紛争の絶えないパレスチナでは、こういったシーソーゲームが繰り返されている。
そもそもイスラエルとパレスチナ人の紛争は、イスラエル国が1948年にパレスチナの地に建国されたことによる領土をめぐる争いだ。
イスラエルを建国したユダヤ人にとってイスラエルのエルサレムは聖地(シオン)であり、シオニズム運動は約2000年前にローマ帝国によってエルサレムの地からユダヤ人が追放された(離散=ディアスポラ)ことに端を発している。
ユダヤ人にとってはまさに故郷への回帰であったのだが、残念ながらそこには昔からパレスチナ人が住んでいた。
第2次大戦の時にイギリスとフランスがそのパレスチナを分割支配しようとしていたのだが、イギリスはヒットラー率いるナチスの攻撃を受けていてそれどころではなく、フランスも同様だった。
結局、戦後になってナチスドイツの大量虐殺にあったユダヤ人の故郷を再建しようとなり、まもなく例のシオニズム運動が始まったのであった。
1948年にその運動はパレスチナの地に世界各地からユダヤ人が入植してイスラエルが建国したことで、一応の結末を迎えたのだが、パレスチナ人にとってはユダヤ人の侵略に他ならなかった。
ましてパレスチナ人の大部分はイスラム教を信じていて、そこはマホメット(ムハンマド)の聖地でもあったから、抗議のいさかいが絶えず、4次にわたる戦争が勃発した。
それでもヨーロッパやアメリカのユダヤ人団体の支援を受けたイスラエルにとってパレスチナ人は敵ではなかった。その結果、パレスチナ人は今度の紛争地であるガザ地区とヨルダン川西岸地区に逼塞せざるを得なくなった。
今度のハマスのイスラエルに対するテロはそうしたことへの反発だった。
この紛争の根っこが2000年前からの歴史を踏まえていることを思うと、仮にハマスが徹底的にやられても、また同じことが再発するだろう。領土問題よりも宗教的な紛争は根が深いことが思い知らされる。
ところで、昨日からニュースになっていたのだが、アメリカの元国務長官でユダヤ人のキッシンジャーが亡くなったそうだ。100歳だったという。
キッシンジャーはニクソン大統領の特別補佐官として1971年に中国に行き、中国との国交に先鞭をつけた偉大な外交官としてアメリカはもとより中国でも尊敬を集めていた。
1972年にはアメリカ大統領として初めて訪中して米中共同宣言を発表し、1979年、ついに米中国交の樹立に至った。日本も1972年にはアメリカより半年遅れて国交正常化を表明し、1978年には平和友好条約を結んでいる。
キッシンジャーは実は日本に対して好感を持っていなかった。その理由は彼がユダヤ人だったからである。
というのは日本は戦時中にユダヤ人を虐殺したヒットラー政権と同盟を結んでいたからなのだ。ユダヤ人としてナチスの迫害を逃れてアメリカに渡ったキッシンジャーにとって日本は憎きヒットラーの同盟者であり、このことは彼にとって終生許しがたいことだった。
それともう一つ彼にとって憎むべきことが日本の中国への接近だった。もちろん政治的には協調のしようがないが、経済・貿易においては例外としていた。その象徴がLT貿易であった。
日本が中国とそれ以上の密接な関係になることを恐れたアメリカ政府が、日本嫌いのキッシンジャーを使って中国との接近を図った。そしてそれがうまくいったのがいわゆる「キッシンジャーの忍者外交」で、日本の頭越しに、日本政府には何の連絡もなく中国に飛んだのだ。
世上、「キッシンジャー外交のしたたかな現実性」と言われることが多いが、その根底には彼のその個人的な日本嫌いという側面があったことを忘れてはならないのである。
キッシンジャーは死の間際の今年の7月に中国に飛び、習近平から格別に「温かく」迎え入れられている。
日本の田中首相が「井戸を掘った恩人」として日中関係に一脈を通じながら、いや、通じたが故に、アメリカの目の上のたん瘤としてロッキード汚職がお膳立てされて失脚したのと好対照だ。
良くも悪くも「親中派の総本山」的なキッシンジャーの死は米中関係にとってマイナスには違いない。