鴨着く島

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柴又旅情(2023.12.23)

2023-12-25 20:50:19 | 日記

敬愛する「寅さん」の故郷へ久しぶりに行ってみた。20代の頃に訊ねて以来だから、久しぶりどころの話ではない。50年近く経っている。

寅さん映画は山田洋次監督が、最初は小津安二郎の「東京物語」のような映画を作りたいとの思惑から始まったのだが、ひょんなことから渥美清主演の「負けてたまるか」という3回か4回完結のドラマ作るをことになったことに端を発している。

負けてたまるか」は主人公が奄美に行ってハブに咬まれて死んでしまうことで幕切れとなったのだが、視聴者から「何で主人公を殺してしまうのか」と抗議が多くなり、製作元の松竹からの依頼で渥美清主演の映画を作ることになった。

そして始まったのが昭和44年の第一作だった。その時の「マドンナ」は生まれ在所の帝釈天の住職の娘で、住職は笠智衆、娘役は光本幸子が配された。

こ゚の第一作は極めて大事で、寅次郎という人物がなぜテキヤに近い諸国放浪の旅を繰り返すようになったかが分かるようになっている。

寅さんが奈良にテキヤ稼業に出ていると、偶然にも帝釈天の住職と娘が同じ奈良にやって来ていた。

昵懇の間ながら、娘は寅次郎の顔見知りではあるにしても「マドンナ」というにはレベルが違い過ぎていたのだが、実は寅さんの生みの母親が京都でラブホテルを経営しているので寅さんが会いに行くのを後押しして付いて来てくれたのだった。

生みの母役はミヤコ蝶々という関西では超の付く売れっ子役者だ。やはり名優である。

「うちがちょっとか金回りが良くなったら、あんたのようなのが金の無心に現れるんや」

こうふてぶてしく言い放つ実の母に、カーッと来た寅次郎は「あんたなんか親でも何でもない!」と即座に踵を返してしまう。

これで親子の縁はぷっつりと切れ、以後の寅さんはお馴染みの「フーテンの寅」となり、諸国放浪のテキヤ稼業に精を出す(?)ことになる。

この寅さんキャラの設定には長谷川伸の「瞼の母」が被っている。瞼の母では番場の忠太郎が5歳の時に母が家を飛び出し、行方知れずとなったので、母を慕う忠太郎は15歳から諸国放浪の旅に出る。

20年ほどして母が江戸の大川端に「水熊」という店を構えていることを知って訪ねるが、母のお浜は寅さんの母のようなことを言い、かつ「母を訪ねて来るのなら、どうしてやくざではない姿で来てくれなかったのか」と詰問した。

カーッとなった忠太郎は「訪ねて来るんじゃなかった。誰がやくざにしたんでぃ。本当の母は瞼の中にいるからこれからは瞼の母に会えばよい、あばよ」と店を出て行ってしまう。

この下りは寅さんと実の母との別れとシンクロしている。

山田洋次監督も瞼の母を高く買っていたに違いなく、この生母との別れが前提で初めて寅さんシリーズが48話も続くことになった。

京成電鉄の柴又駅前には寅さんの銅像が立つ。そばにいた町案内のボランティアの話では、一般人の浄財を募って造られたそうだ。等身大の寅さんだという。

寅さん像から5メートルくらい離れたところには、やはり等身大の妹さくらの像が立つ。

さくらは寅さんの腹違いの妹だが、寅さんにとってさくらはまるで母親のようで、さくらが「とらや」いるからこそ放浪ができると言ってもいい。

その「とらや」に入って名物の草だんごを食した。本当のもち米を使ったヨモギだんごで、粘り気は半端ではなく美味かった。

向かいの壁には男はつらいよの第一作から12作くらいまでの懐かしいポスターが貼られている。

その後は柴又帝釈天通りを帝釈天に向かい、さらに帝釈天と江戸川との間にある「寅さん記念館」と「山田洋次ミュージアム」を見学したが、男はつらいよの全作品のポスターと映画で撮影されたとらやと裏のタコ社長の朝日印刷所の模型があり、懐かしさが倍増された。

柴又駅は京成電鉄金町線にあるのだが、京成電鉄成田線に「新柴又駅」が新設されていたので帰りはそこを利用し、途中の押上スカイツリー駅で降りて、スカイツリーに登った。結構な人出で、ここを含めて浅草界隈を訪れる外国人旅行客の多いのには驚く他ない。