(2)79年前のハイセン
鹿屋市は昭和16(1941)年に市制を施行したのだが、その前の鹿屋町の時、笠野原に飛行場が造られている。大正11(1922)年のことであった。
大正6(1917)年にアメリカの航空機が日本に来て縦横無尽に飛び回るのを実見した郷土出身の永田良吉代議士の周旋によるものであった。その後永田のヒコウ機熱はますます高まり、帝国議会でたびたび航空機の導入を訴えたため「ヒコーキ代議士」の異名を得るほどであった。
永田の尽力によって鹿屋の現在の海上自衛隊鹿屋航空隊基地のところに鹿屋海軍航空隊基地が発足したのは昭和11(1936)年4月1日で、翌年からは大陸の上海や重慶への渡海攻撃が開始されている。
その経験を踏まえ、昭和16年12月8日の「真珠湾攻撃」に生かされたことは大きい。真珠湾攻撃の「浅海面爆撃作戦」の立案と訓練が鹿児島湾において行われたのである。
こうして鹿屋は「軍都」として日本国中の注目を集めた。そして太平洋戦争のハイセン(敗戦)間際、沖縄への米軍上陸阻止作戦に特攻隊出撃基地として重い責務を負わされたのも鹿屋であった。
鹿屋基地からは900名余りが、隣接の串良基地からは330名余が特攻隊員として飛び立ち帰らぬ人となっている。県内ではほかにも出水基地、指宿基地などの海軍基地から、また加世田の万世基地、知覧基地など陸軍基地からも飛び立っており、南九州からの特攻はその戦力の中心的存在だった。
しかしながら特攻作戦は米軍軍士の肝を冷やす効果は十分にあったが、米軍は4月に上陸を始めるとすさまじい勢いで沖縄を席巻し始めた。
帝国陸軍(沖縄根拠地司令部)の防御と沖縄県民の抵抗空しく、6月23日に司令官の牛島中将の自死により、終結を迎えた。
広島(6日)と長崎(9日)に原爆が投下された5日後の昭和20(1945)年8月14日、7月26日に米英ソ会談後に出された対日ポツダム宣言を受諾し、翌日15日に昭和天皇の「終戦の詔」が放送され、3年と9か月に及んだ戦争は終息した。
8月15日を敗戦と呼ばず、終戦としたのは戦争はニ度としてはならないという昭和天皇の強いお考えであったと仄聞するが、確かに「敗戦」では次の「勝利」を誘引する可能性が高い。
「やられたら、やり返す(報復する)」という論法が一般的な国家間の戦闘が今でもウクライナやガザで行われているのを見ると、やはりその通りの結果になっている。
さて、終戦を迎えて混乱を極めたのがそれまでの「軍都」であり、軍部であった。
「軍都」鹿屋に展開していた2万と言われる海軍軍士や大隅半島の要衝に展開していた3万と言われる陸軍兵士たちは、終戦の詔は知っていたのだが、「嘘だ」と言い張るものや、高隈山中に入って進駐軍が航空基地に入るのを阻止しようとする者たちも多かった。
しかし同年9月3日に初めて高須海岸に米陸軍を主体とする連合軍が上陸し、鹿屋基地に着任すると、そういったゲリラ的な軍人は皆無であった。
その一因としてあげられるのが、当時鹿屋市長だったあのヒコーキ代議士永田良吉だという。永田の裏表のない「駆け引き」が米軍の司令官に好評で、そんな様子を目の当たりにした旧軍人たちは良い意味で「意気阻喪」したに違いない。
軍都鹿屋と日本の注目を集めたこの鹿屋の終戦直後の進駐軍への穏便な対応は、またしても全国の注目の的になったと言われる。これによって勝利者の進駐による敗者の反乱や暴動などが最小限度に押さえられたのは事実であった。
しかしハイセンはハイセンである。軍都鹿屋の住民は戦争被害、なかんずく戦死者・戦没者・傷病者を抱え、明日の米にも困る事態になったのだから大変だった。打ちひしがれている時間はなかったと言ってよかった。
このハイセンは全国民の共有する所だったわけだから、鹿屋市民のハイセンをめぐる心理は大方の国民とさほど変わらなかった。
いま南西諸島が対中国の防衛線としてキナ臭さが増しているが、戦後は「終戦」を国是としてやってきたのだから、今さら何をかいわんやだろう。
米軍のシールド(盾)にされたのでは、昭和天皇が泣かれるに違いない。