鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

大隅半島の弥生時代の不思議

2024-06-15 11:20:01 | 古日向の謎
先日、鹿屋市吾平町の吾平振興会館で始まった「市民講座 大隅にいた先覚者とその史跡探訪」を聞きに行った。

講師は吾平町在住の朝倉さんという人で、歴史に造詣が深く今度で2回目の講座ということであった。

開講の挨拶で「私は大学時代に地質学を学んでいました。卒業後は某セメント(コンクリート?)会社に就職し、主として研究畑にいました。」と言われた。

郷土の歴史研究は経歴とは関係なく、自分や自分の家のルーツにまで関わることなので、誰でもそのあたりから取り組んでいけるという特徴がある。

別言するとその入り口は「広き門」であり、そこに現住する人や同じ郷土出身者と共有できる点が多々あり、話題性には事欠かない分野でもある。

講座は6月から来年1月までの8回だが、配られた講師の年間計画表を見ると大隅の郷土で活躍した鎌倉時代の禅宗の僧侶から、戦前に至るまで13名の偉人を網羅しており、まとめるのに大変な労力を要したことが窺える。

力作と言っては失礼だが、一年間の講座聴講が楽しみである。

6月8日に行われた第1回講座は高山(現肝付町)の江戸末期の教育者「宇都宮東太」という人物と、その弟子になって教養を積み、幕末には勤王に精励した「是枝柳右衛門」という人物を取り上げた。

高山の修験道家であり郷士でもあった宇都宮家に生まれた東太は幼少時代から紀州の大峰山に入って修行し、帰郷後には儒学・歌道・武道に励み、家塾を開いて弟子は千名になるほどの教育者となった人である。

この宇都宮東太の弟子となり、幕末の風雲の中で勤王を志した人物が是枝柳衛門であった。

この人は鹿児島市の南郊谷山の商家出身で、家業の衰退を機に15歳で大隅の高山に移り住み、波見港で水揚げされる魚を仕入れて行商で暮らしを立てていた。

たまたま施術を習い覚えた鍼灸治療で宇都宮東太の父・東学院と繋がり、その縁で息子の東太の弟子となった。

その後17年ののちに再び郷里の谷山に帰り、高山の宇都宮東太によって儒学その他に習熟し、中でも歌道は勤王家の中でも抜きんでており、塾を開いて教えるほどになっていたという。

ペリーが浦賀に来航して開国を迫り、さらにハリスが通商条約を締結するため来航し、ついに朝廷の勅許を得ずして大老井伊直弼が調印するという事態に勤王家はみな憤った。

是枝柳右衛門も「斬奸状」したためて討ちに行こうとするが、水戸・薩摩浪士によって先に討ち取られ果たすことができなかった。

その後は勤王家として知られ、京都の公家・中山家や近衛家などにも出入りできるようになった。

しかし討幕の志士「精忠組」のメンバーが寺田屋騒動(文久2=1862年4月)で討ち取られると、それに加担した罪を着せられ、屋久島に流された。

元治元年(1864年)には赦免されたが、屋久島から引き揚げずに当地で病没した。享年48歳。

明治22年に帝国憲法はじめ両議院などが発令され、その恩赦で是枝柳右衛門は士族ではない庶民としては異例の「従四位」という高位が与えられたという。

(※同じこの恩赦では西南の役で朝敵となった西郷隆盛も名誉回復され、「正三位」を追贈されている。)

さて以上が朝倉講師によるレジュメを要約したものである(一部調べて加えた部分あり)。

是枝柳右衛門の庶民ながら勤王家として全国的に活躍したという数奇な人物の略伝だが、私は柳右衛門が17年も高山に滞在したのであれば高山のどこかに店でも構えていたのか、と気になり、手許の『高山郷土誌』をめくってみた。

郷土史家の竹之井敏先生が「江戸時代に商家のあった野町に昔から塩屋と言われるところがあるので、そこが柳右衛門の店だったのでは」という説を出しておられたことを知った。

・・・久し振りに『高山郷土誌』をめくってみていると、第二編の「先史・原始時代」の中の「第二章 旧石器から古墳時代」ではその第三節が弥生時代になっているのだが、この記述の中で「ああ、やっぱり」と思わされる部分があった。

この第二編を担当したのは高山町出身の県埋蔵文化財センター次長をされていた中村耕治氏であるが、弥生時代の発掘状況を概観しながら、中村氏は次のように述べているのだ。

<鹿児島県の弥生時代は、中期の段階で飛躍的に発展し、その中心となる山之口式土器は種子島の下剥峰遺跡等でも出土しており、広い範囲に伝わっていることが知られている。また、北九州で発展している甕棺葬も金峰町下小路遺跡で発見されている。

ところが、弥生時代後期になると遺跡の数が減少する傾向がみられる。この現象が何に起因するのか明らかではないが、単に調査例が少ないということではなさそうである。>(『高山郷土誌』115ページ)

第2段落(後半)の記述が我が膝を叩かせた部分である。

実は中村氏には「東九州自動車道建設に関わる発掘調査」の担当者でもあったことがあり、その頃に会長をしていた大隅史談会の発表会に講師として来ていただいたことがあった。

その際、発見された遺跡の中で弥生時代後期の遺物が極端に少なくなるという話を、データとともに示されたのであった。

「やっぱり、高山の調査でもそうなんだ」と了解されたのである。

東九州自動車道の経路に高山町は含まれておらず、鹿屋市・大崎町・志布志市が通過自治体であるのだが、そうなると弥生時代の後期に遺跡も遺物も大いに減少するという傾向は大隅半島全体で言えることになる。

この真因は何なのか、高山の事例の時に中村氏は「何に起因するのか明らかではないが、単に調査の事例が少なくなったからではなさそう」と疑問を提示されたが、私はちょうどこのころに古日向(投馬国)から列島中央部への大規模な「移住的東征」が行われたからだろう、と考えている。

「東征」と言うよりも「東遷」の方がふさわしいが、北部九州まで航行し、それから瀬戸内海航路をとり、或いは安芸(広島)に、或いは吉備(岡山)に――という風に定住地を求めて行ったのではないか。

それからもう一つの航路が太平洋黒潮航路だった。この航路上の定住地としては土佐(高知)、さらに紀州(和歌山)だったに違いない。

紀州の紀ノ川沿いに船行して行った一党も多かったようで、いわゆる神武東征説話における「鵜飼い」(漁民)や「尾のある人」(猟師)などの記述は南九州との関連を思わせる。

いずれにしてもこの点は推理でしかないのだが、古日向域(南九州)における弥生時代後期の遺跡(遺構・遺物)の発掘数の少なさは、その時代の何かしらの社会的な大変動を思わせる。