今日の仕事が前日になり予定外の休日になったので、行きそびれていた串間市へ、かの希少な「玉壁」の発掘されたという場所を確認に出かけることにした。
2019年7月22日のブログ『串間出土の玉壁の謎(1)』で述べたように、私は、この玉壁は朝鮮半島北部に存在し中国殷王朝の流れをくむ箕子の子孫が開いた国が、東周王朝から子爵の位を与えられた時、その賜与品として授けられた「穀壁(穀粒文のある玉壁)」であったろうとした。(※詳しい経緯は上記ブログに書いた。)
朝鮮半島は200年代に入ると燕王を自認する公孫氏の支配下にはいったが、それを嫌う大陸国家魏によって侵攻を受けることになり、戦乱が続いた。
その時に半島から九州島へと落ち延びたのが魏志韓伝に記載の「臣雲新国」(シウシン国)であり、南九州は志布志(シブシはシウシンからの転訛と考える)に到来し、その後国王か子孫かが串間を開拓し、墳墓の地とした。それがかの玉壁を副葬し「王之山」に埋葬された人物ではなかったかと考えている。
『串間市史』(平成8年刊)にはこの玉壁について6ページほどを割いて記述があり、国内ではただ一件発掘された玉壁であり、国宝級であるとしている。
発見された経緯をかいつまんで書くと、串間の今町在住の農家である「佐吉」という人物が、自身の所有する「王之山」という土地で掘り当てた「石棺」の中に、鉄器などとともに副葬してあった物であるという。
それは文政元年(1818年)のことであり、そのまま所有していたのを幕末の旅行家でのちに蝦夷地に渡り「北海道」と命名した松浦武四郎が買い受け、武四郎はまたそれを明治になって旧加賀藩主の前田侯爵家に譲ったので、世に出ることになった。(※武四郎は前田家に売ったことで大儲けしたため揶揄されてもしょうがないが、そのまま佐吉宅に置いてあったらどうなっていたか。おそらく盗まれるか二束三文で売り飛ばされ、完品のままの状態を維持されなかったに違いない。)
さてではどこが玉壁を副葬していた石棺の発掘地であったのか。
佐吉は河野家の一族であり、河野家は串間市中心部から北に3キロ半ほど行った「穂佐ヶ原(ほさがばる)地区」の旧家であった。
串間市役所で佐吉の墓がその河野家の墓地にあるというので行ってみた。串間市役所の文化財課の職員に地図で教えてもらい、その通りに行くと、県道「一氏・西方線」の県立福島高校あたりからはシラス台地の上を走るようになる。
串間警察署を過ぎ、左折しさらに右折して500メートルばかり行くと穂佐ヶ原を流れる小流に向かって道が下りになるが、下りにかかる寸前のところから左に畑地への道があり、そこを入っていくと広々としたシラス台地特有の平らな畑地が広がる。その一角に河野家の墓地群があった。
しかしこの墓地は昭和40年に旧墓地から移転したことが分かり、そのまま穂佐ヶ原地区に下っていくと、公民館らしきものが見えた。集落の中の道に降り、そこで出会ったおばあさんに訊くと、元の墓地は県道からの入り口にあったという。
そこで集落道を東へ走り県道に出ると、ちょうど作業している人がいたので聞くと、まさにそこが墓地の跡地だった。しかも現在そこで河野さんという人が農機商を営んでいた。
河野さんの話では、集落の中の自分の本家の裏山からは何かしら遺物が見つかるという。
私は瞬間「そこだ」と思った。
上の写真で言えば、向かいの丘陵の右手がそれにあたる。地図で調べると標高80メートルくらいにの丘である。穂佐ヶ原の集落からは北側がすべて丘陵になっており、北風を防いでくれるありがたい山々である。
「王之山」は串間市の小字にはないので、首をかしげるのだが、穂佐ヶ原にとっては愛称のような名づけで、裏山をそう呼んだのだろう。
この80メートルの山は頂上部が楕円形になっており、東方面は串間随一の福島川を見下ろすことができる。
西暦200年代に朝鮮半島から南九州に逃れ、田園を開いた栄えある半島王家の子孫が安住の地を得た喜びが垣間見える風景が見られたに違いない。穂佐ヶ原集落の入口。この道路の奥500メートルくらい、小流に沿って家々がある。右手(北側)の丘陵が俗称の「王之山」だったのではないか。昭和40年にこのあたりから移転した共同墓地は今、左手(南側)のシラス台地の畑地帯の一角にある。
2019年7月22日のブログ『串間出土の玉壁の謎(1)』で述べたように、私は、この玉壁は朝鮮半島北部に存在し中国殷王朝の流れをくむ箕子の子孫が開いた国が、東周王朝から子爵の位を与えられた時、その賜与品として授けられた「穀壁(穀粒文のある玉壁)」であったろうとした。(※詳しい経緯は上記ブログに書いた。)
朝鮮半島は200年代に入ると燕王を自認する公孫氏の支配下にはいったが、それを嫌う大陸国家魏によって侵攻を受けることになり、戦乱が続いた。
その時に半島から九州島へと落ち延びたのが魏志韓伝に記載の「臣雲新国」(シウシン国)であり、南九州は志布志(シブシはシウシンからの転訛と考える)に到来し、その後国王か子孫かが串間を開拓し、墳墓の地とした。それがかの玉壁を副葬し「王之山」に埋葬された人物ではなかったかと考えている。
『串間市史』(平成8年刊)にはこの玉壁について6ページほどを割いて記述があり、国内ではただ一件発掘された玉壁であり、国宝級であるとしている。
発見された経緯をかいつまんで書くと、串間の今町在住の農家である「佐吉」という人物が、自身の所有する「王之山」という土地で掘り当てた「石棺」の中に、鉄器などとともに副葬してあった物であるという。
それは文政元年(1818年)のことであり、そのまま所有していたのを幕末の旅行家でのちに蝦夷地に渡り「北海道」と命名した松浦武四郎が買い受け、武四郎はまたそれを明治になって旧加賀藩主の前田侯爵家に譲ったので、世に出ることになった。(※武四郎は前田家に売ったことで大儲けしたため揶揄されてもしょうがないが、そのまま佐吉宅に置いてあったらどうなっていたか。おそらく盗まれるか二束三文で売り飛ばされ、完品のままの状態を維持されなかったに違いない。)
さてではどこが玉壁を副葬していた石棺の発掘地であったのか。
佐吉は河野家の一族であり、河野家は串間市中心部から北に3キロ半ほど行った「穂佐ヶ原(ほさがばる)地区」の旧家であった。
串間市役所で佐吉の墓がその河野家の墓地にあるというので行ってみた。串間市役所の文化財課の職員に地図で教えてもらい、その通りに行くと、県道「一氏・西方線」の県立福島高校あたりからはシラス台地の上を走るようになる。
串間警察署を過ぎ、左折しさらに右折して500メートルばかり行くと穂佐ヶ原を流れる小流に向かって道が下りになるが、下りにかかる寸前のところから左に畑地への道があり、そこを入っていくと広々としたシラス台地特有の平らな畑地が広がる。その一角に河野家の墓地群があった。
しかしこの墓地は昭和40年に旧墓地から移転したことが分かり、そのまま穂佐ヶ原地区に下っていくと、公民館らしきものが見えた。集落の中の道に降り、そこで出会ったおばあさんに訊くと、元の墓地は県道からの入り口にあったという。
そこで集落道を東へ走り県道に出ると、ちょうど作業している人がいたので聞くと、まさにそこが墓地の跡地だった。しかも現在そこで河野さんという人が農機商を営んでいた。
河野さんの話では、集落の中の自分の本家の裏山からは何かしら遺物が見つかるという。
私は瞬間「そこだ」と思った。
上の写真で言えば、向かいの丘陵の右手がそれにあたる。地図で調べると標高80メートルくらいにの丘である。穂佐ヶ原の集落からは北側がすべて丘陵になっており、北風を防いでくれるありがたい山々である。
「王之山」は串間市の小字にはないので、首をかしげるのだが、穂佐ヶ原にとっては愛称のような名づけで、裏山をそう呼んだのだろう。
この80メートルの山は頂上部が楕円形になっており、東方面は串間随一の福島川を見下ろすことができる。
西暦200年代に朝鮮半島から南九州に逃れ、田園を開いた栄えある半島王家の子孫が安住の地を得た喜びが垣間見える風景が見られたに違いない。穂佐ヶ原集落の入口。この道路の奥500メートルくらい、小流に沿って家々がある。右手(北側)の丘陵が俗称の「王之山」だったのではないか。昭和40年にこのあたりから移転した共同墓地は今、左手(南側)のシラス台地の畑地帯の一角にある。
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