このブログの作成者の本来の課題は「古日向」についてで、このごろは沖縄の県民投票はじめ戦後の日米同盟以後の動きに関わる考察が増えて、古代史関連がおろそかになってきた。
そこで褌を締めなおし、しばらく南九州の古代以前の歴史について書いていきたい。
まずはカテゴリーを「古日向論」とし、次のような項目を掲げて順次史論を展開していくことにした。(※カテゴリーにすでに「古日向の謎」があるが、これはこれでトピック的な事柄を取り上げるのに重宝すると思うので、そのままにしておく。)
カテゴリータイトル 『古日向論』
大きな項立てとしては次の4項で、右はその典拠である。
(序)古日向とは
(1)天孫降臨神話と古日向…古事記・日本書紀の神話
(2)邪馬台国時代の古日向…魏志倭人伝(韓伝など朝鮮半島の魏書も参考にする)
(3)「神武東征」と古日向…記紀の神話および神武天皇東征説話
(4)古日向の日向・薩摩・大隅三国分立…続日本紀
今回はまず(序)として「古日向」の定義をしておきたい。
実は「古日向」という歴史用語は定着していない。
歴史用語では「南九州の古代」「南九州の古墳時代」「南九州の弥生時代」「南九州の縄文時代」「南九州の旧石器時代」となる。
昔は「上代」「神代」という歴史用語があった。
これは記紀の神武東征以前(要するに神話時代)を一言で括ってしまう便利な用語だった。
しかし太平洋戦争に負けたため「神武以降の歴史は史実」として教えられた戦時中の「戦争遂行に都合の良い軍国主義的な歴史観だ」として占領軍司令部によって切り捨てられた。
その結果「上代」も「神代」も歴史用語としては却下された。
その後は「科学的歴史観」のもとに記紀神話はおとぎ話に貶められ、これに代わって考古学的な実証主義が「上代」の歴史を考察する至高の道具となって今日に到っている。
筆者は決して考古学を軽んじる者ではないが、発掘資料は何も語らない。そうなると結局は「解釈」こそがポイントということになる。
詳細は(2)で述べることになるが、邪馬台国の所在地論争で大方の考古学者は「畿内説」を採っている理由も「ヤマタイという音がヤマトに連続しているという一つの解釈」に過ぎない。
魏志倭人伝を正確に読むと、邪馬台国(女王国)は九州島を出ない場所に比定するしかないので、いくらヤマトとヤマタイが同音義だと思っても、畿内大和説に短絡するのは間違いである。
以上は(2)で論じるのでここまでにするが、さて筆者が多用する「古日向」についての定義を述べなくてはならない。
古日向とは奈良時代の初期(具体的には西暦713年)まで存在した南九州の大国「日向国」のことである。
この大国が天武王権以降の列島再編成的な大きな動き、つまり「律令制度の列島普及」の政策によって巨大な国は天武王権の統治に都合の良いこじんまりした国々へと分割された。
南九州では当時「日向国」があり、今日の宮崎県から鹿児島県までの広大な国土を形成していた。
ここにくさびを入れるべく「日向国」から薩摩国を分離し、さらに大隅国を分離した。もとの「日向国」は三国に分割されてしまった。
この三国は「日向国」「薩摩国」「大隅国」だが、厄介なことに元の大国「日向国」という名称は新しい「日向国」にそのまま引き継がれたのである。
新しい「日向国」を何か別の名称に(例えば「日向新国」などのように)すれば問題なかったのだが、同じ名称が使われたため、分割以前の「日向国」までが今日の宮崎県のみを指す「日向」と混同され、「日向神話」といえば宮崎県の話となってしまった。
そこで元の大国「日向国」(宮崎県と鹿児島県を併せ持つ)を筆者は「古日向」と表記するようになった。
すなわち筆者の定義する「古日向」とは、奈良時代の初期に三国に分割される以前の(今日の宮崎県と鹿児島県を併せ持つ)「日向国」のことである。
したがって筆者が「古日向」という時、その領域は宮崎県と鹿児島県の両方を含んでいるので了解されたい。※おおむね600年代(=7世紀)以前の南九州が「古日向」ということである。
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