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邪馬台国の官制について(1)

2024-10-15 14:54:25 | 邪馬台国関連
 九州邪馬台国に至るまでの道程

邪馬台国は、中国の晋王朝時代の西暦280年頃に史家の陳寿という人が書いた歴史地理書『三国志』の中の『魏書之三十・烏丸鮮卑東夷伝』に描かれた倭人国家群の卑弥呼女王を頂いた国家であった。

その王国の位置をめぐっては九州説と畿内説に分断され、論議に収拾を見ないでいるわけだが、私は2003年に出版した『邪馬台国真論』において、九州は八女説を主張しており、もう20年経つが結論は微動だにしていない。

そもそも朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで魏の使節が辿った「行程」(方角・距離・日数)を素直に解釈すれば、「伊都国=糸島」説は有り得ないのである。

まずは最も簡単に畿内説では有り得ない論拠が、倭人伝中の一文「郡より女王国に至る、万2千余里(帯方郡から女王国まで1万2千里余りである)」である。

これからすれば、帯方郡から九州島の北端末盧国(唐津市)まで水行で1万里であり、残りはわずか2千里余りであるから、この2千余里では陸行にせよ水行にせよ畿内までたどり着くはずはないのである。

末盧国に上陸したあとは東南に500里陸行して「伊都国」、さらに東南に100里で「奴国」、さらに東へ100里で「不彌国」。ここまでで1万700里、残りはわずか1300里しかない。この距離ではさらに畿内説は不可能ということになる。

以上により畿内説の成り立つ余地はゼロである。

ところが九州説でも、ここ(不彌国)から文の続きで「南至る、投馬国。水行20日。官は彌彌といい、副(官)を彌彌那利という。五万戸なるべし。」というのを「不彌国から続いている国だ。不彌国から船出して20日行った所に投馬国がある」と勘違いしている論者がほとんどなのだ。

この「南至る投馬国、水行20日」とは、帯方郡からの「水行20日」なのである。つまり投馬国は帯方郡から船で南下して20日のところにあり、九州島北端の末盧国(唐津市)までの水行日数10日の2倍の距離にある南九州(古日向=戸数5万戸)を指している。

同様に投馬国からの続きに書かれている「南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月」とは投馬国と同様、帯方郡からの「水行10日、陸行1月」なのである。

つまり邪馬台国は帯方郡から船で南下して10日の距離(距離表記では水行1万里)にある末盧国(唐津市)に達し、そのあとは徒歩の行程(陸行)で1か月かかる場所にあると言っているのだ。

私は唐津市から松浦川を遡上して至る山中の「厳木(きゆらぎ=イツキ)」を「伊都(イツ)国(戸数千戸)」に比定しているが、ここまでが徒歩で500里、5日の行程だろうか。

伊都国からは下りになり、徒歩100里で「奴国(戸数2万戸)」、さらに100里で「不彌国(戸数千戸)」、それぞれ徒歩で1日の行程だろう。佐賀平野の西部の小城市から大和町が比定される。佐賀市は当時まだ干潟の中にあったと思われる。

さて唐津に上陸してから陸行2千里のうち700里で佐賀平野の西端に至ったのだが、あとの1300里について途中の小国家群が書かれていないのが不審だが、唐津から小城市までの距離の2倍弱に当たる場所に女王国があるとしてよいだろう。

不彌国からは佐賀平野の北に聳える天山山塊の麓を東に行き、筑後川を渡り、久留米市あたりからは南下し、今度は耳納山系の西麓を通って八女市に至るまでの距離がちょうど該当する。

そこが卑弥呼女王の都した(八女)邪馬台国である。

 邪馬台国の官制

邪馬台国までの行程を記述した陳寿は、邪馬台国及び九州島の風土・産物・風俗などを書く前に、早くも邪馬台国の統治組織の最重要部である「4等官」について記録している。

もっとも邪馬台国への行程上にある対馬国以下不彌国までの小国家群についても、ヒコ・ヒナモリ・ヌシ・シマコ・ヒココなどの(統治者の官名)を書いているのだが、邪馬台国の官名はさすがに30か国の小国家群を統治している大国らしく女王「ヒミコ」は別として、4つの官名が見える。

「官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。」

① 伊支馬(イキマ)

「イシマ」とも読めるが、私は「イキマ」を当てている。

このイキマは第1等官である。私はこれは「イキメ」の転訛だと思っている。

漢字を当てれば「生目」あるいは「活目」だろう。

「生きた目」ではなく「目を活かす」の方が役人の名としてはふさわしい。

江戸幕府の官制で「大目付」というのがあったが、役割としては似ているが、大目付は最高官職の老中の下にあり、一等官ではない。

邪馬台国のこの「活目」は実は邪馬台国自生の一等官ではなく、他国から置かれた官であると私は考えている。

その他国とは「大倭」だろう。邪馬台国は北部九州に勢力を扶植していた「大倭」によって監視されていたのだ。保護国になっていたと考えても良い。

「大倭」は、倭人伝に「国々に市あり。有る無しを交々易える。大倭をして之を監せしむ。」とあるが、この大倭はさらに伊都(イツ)国に「一大卒」つまり軍隊を置いて邪馬台国以北の国々を見張っていた――とあり、邪馬台国にとっては一種の占領軍に他ならなかった。

(※伊都(イツ)国について、私は厳(イツ)国と考える。神話に見える八千矛命、すなわちオオクニヌシ系の一大勢力だったのだが、北部九州の「大倭」(五十王国)に敗れ、一部の王族は伊都(イツ)国に押し込められ、大部分の伊都(イツ)国勢力は遠く出雲(イツモ)に流された。
 倭人伝時代の九州島では伊都(イツ)国(所在地は厳木町)だけの小国に成り下がっていた、と見る。)

女王卑弥呼が擁立されたのは「倭国が乱れ、暦年主なし」という戦乱の時代であった。その具体的な年代は後漢書によるとの桓帝と霊帝の統治期間の最中(AD147年~188年)だったとあるが、卑弥が女王になったのは決して軍事力による采配ではなく、霊能力によるものだったようだ。

その軍事力の弱点を補ったのが、「大倭」による占領統治だったのだろう。大倭が派遣した「伊支馬(イキメ)」こそが、言わば女王国の後ろ盾だったのである。

この「伊支馬(イキメ)」の勢力によって、邪馬台国の南部に存在し男王「卑弥弓呼(ヒコミコ)」が虎視眈々と女王国への北進を狙っていた狗奴国の野望は防がれていた。

ところが卑弥呼の後継の台与(トヨ)の時代もだいぶたってからようやく狗奴国が侵略可能になった。「大倭」の派遣する「伊支馬(イキメ)」が不在になったからである。

その時の「伊支馬(イキメ)」こそ、北部九州の一大勢力になっていた「大倭」こと「五十(イソ)王国」(糸島市が本拠地)の「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイソサチ」こと後の垂仁天皇(崇神天皇の皇子)であろう。

「伊支馬(イキメ)」がいればこその女王国の軍事力なのであった。(続く)



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