八女市の八女丘陵に展開する古墳群約300基の盟主が同市吉田の岩戸山古墳で、北部九州では最大の、墳丘の長さが135mもある前方後円墳である。
八女は6世紀初めに筑紫の君磐井が本拠地としており、八女古墳群の大方は筑紫君(古事記では筑紫国造)勢力の墳墓だと考えられている。
だが私は、肝心の盟主墓である岩戸山古墳に筑紫君磐井が葬られている可能性はないと結論付けた。
磐井は半島情勢をめぐって当時のヤマト王権の継体天皇の意向に背き、新羅に肩入れして対立し、ついに物部アラカビの率いるヤマト王府軍の侵攻を許し、磐井は書紀によれば戦死、古事記によれば物部アラカビと大伴金村両大連の追討によって殺されたとある。
また「筑後風土記逸文」では九州山地を越えて現在の中津市に逃れ、そこからさらに南の険しい山岳地帯に入って行方知れずになった――とある。
いずれにしても磐井はヤマト王権への反逆者となったわけで、反逆の首謀者がいくら「生前墓」(筑後風土記の記述による)を造ってあったとしてもそこに無事に埋葬されるはずはないのである。
埋葬されないどころか、6万という王府軍の兵士にかかればその「生前墓」は全部破壊されておかしくない事態ではないか。
私は前回のブログで、筑後風土記のいう磐井の造ったという「生前墓」とは岩戸山古墳の「前方部」だけで、それ以前からあった後円部に付け足したに過ぎないと考えてみた。
その後円部こそが八女邪馬台国の女王だった卑弥呼の眠る墳墓で、おそらくその頂上部には最高神天照大神に因んだ「オオヒルメムチ」などという倭語で名付けられた印、あるいは口承があり、さすがのヤマト王府軍も手にかけるのを畏れたのだろう。
その代わり、風土記がいうように王府軍は古墳の周囲に置かれた「石人・石馬」といわれる石造物を叩き壊そうとしている。
ところでこの岩戸山古墳で奇妙なのは後円部の北東にある40m四方の「別区」である。
この岩戸山古墳の俯瞰写真で後円部は東向きだが、その後円部の北東(右上)側に後円部に付属するような一辺が40m余りのグラウンド状の「別区」が広がっている。後で述べる「吉田大神宮」は後円部を挟んで別区の真反対側に鎮座しており、叢林の中に屋根らしきものが見える。
風土記によればこの別区は「衙頭(ガトウ=まつりごとどころ)」と呼ばれ、その中に「解部(ときべ)」という石人が悠然と立ち、その前には裸の「偸人(ぬすびと)」が伏せている。そのそばには石の猪が4体置かれ、それが盗んだものだという。
悠然と立つ石人が盗っ人を裁いている様子を表しているに違いないが、それにしては裁判の場(法廷)が40m四方とはいくらなんでも広過ぎる。
この別区について諸説ある中で、祭祀の場ではなかったかという考えがあり、私もそう考える。
「解部」という裁判官の仕事も政(まつりごと=祭事)の一端であるのだが、この別区が後円部に直結するような位置にあることを考えると、この別区、そもそもは後円部の被葬者を祭る盛大な儀式の場として使われたのではないだろうか。
後円部に埋葬されているのが邪馬台国女王の卑弥呼であれば、直径60m~70mの後円部の大きさに対して一辺が40m余りの別区は、被葬者卑弥呼への祭祀の場として広過ぎるということはないだろう。
また後世(いつかは不明だが)後円部の墳頂に「伊勢神社」が建てられたのもオオヒルメたる卑弥呼に相応しいし、その伊勢神社が100年前に後円部から後円部の麓に移され、その神社の名は何と「吉田大神宮」(主祭神はオオヒルメムチ)という。
この神社は吉田と言う地名を冠しているのだが、それならば「吉田神社」になるはずで、「大神宮」とは突拍子もない命名だ。「吉田のおおかみのみや」と読むのだろうか。
もし「大神宮(だいじんぐう)」と読むとすれば、伊勢神宮・鹿島神宮・熱田神宮などの大社に並ぶ名称だが、一介の地方の小社に許される名称ではない。
だがもし後円部が卑弥呼の墳墓であるとすれば、あながちそれは否定されないだろう。岩戸山古墳の後円部を卑弥呼の墓と考える私にはむしろふさわしいとさえ思えるのだ。
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