鴨着く島

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母を想う

2023-08-17 11:43:55 | 母性

旧盆の8月13~15日を過ぎて、16日は送り盆だ。

お盆だからと言って、我が家では祖霊棚に特別なお供え物をするわけではないが、今年は母の没後25年ということで果物と水ようかんなどをお供えした。水とお茶は毎朝供え替えている。

母は平成10年の10月30日に他界した。大正4年生まれで、享年83歳であった。

生地の東京では一般的に新暦の7月15日にお盆を迎えるのだが、平成10年のその日に盆の読経に来るはずの某寺の僧侶を仏前で待っているうちに人事不詳に陥った。何でも当日はかなり寒かったそうである。

すぐに近くの医院に入院したが、人事不詳から回復せず、その日から数えて108日後の10月30日に息を引き取った。葬式の前日だったか、兄か兄嫁かからそう聞いて感慨深いものがあった。108日の108という数字がまず意味を感じたし、旅立った10月30日は私の結婚記念日だったからである。

人事不詳の108日の間に、何回か私の視界の中で「オーブ」と言われる霊的なものを見ていたが、あれは母の魂だったと思われてならない。夢ではほとんど記憶に残るような母を見ておらず、あれがそうだったのか100パーセントの確信はないが。

母は7歳上の父と教員同士の職場結婚をしたのだが、子ども4人を生んでもそのまま教員生活をつづけた。二人とも次男・次女同士だったので核家族であり、子どもの養育は乳飲み子時代のそれぞれ4週間寄り添っただけで、あとは「お手伝いさん(女中)」に任せて働いた。

教員だから夏休みを中心に長期休暇があり、その点は恵まれていたと言えば言えるが、それは父母の方の感覚であって、我々子ども4人からしたら、「母ちゃん、もっとそばにいてくれ」というのが本音、というより「本能」であった。

朝学校に行く時に母はもう出勤しており、午後学校から帰っても母はいない。「行っておいで、気を付けて」も「お帰り、今日は学校どうだった?」も聞いたためしはない。

それどころか入学式も卒業式も母の参列はなかった。同じ区内の公立小学校では入学式も卒業式も同じ日に行われるからだ。今なら副担任がいて都合が付けられるのかもしれないが、その当時はそんなものはなく、担任である以上、赴任校の式から抜け出すわけにはいかなかった。

4人の子どもたちはそこそこに健康で学校をたびたび休むというようなことはなく、その点では父母の仕事の遂行に寄与していたのだが、弟は中学2年(14歳)の時に不登校に陥った。体の欠陥ではなく、精神の欠陥というか不安定のためである。

こんな時、普通なら母親が寄り添うのだろうが、我が家はそうしなかった。むしろ弟の不登校を「だらしがない」というような本人へのダメ出し的な観点でとらえてしまったのである。

母が「(弟の)首にロープを付けて学校に引っ張っていきたい」というのを聞いたことがあったが、「それを言っちゃあお仕舞い」で、我々からすれば全く反対に「母の首にロープを付けて家に留めておきたい」だったのだ。

収入が減るのを畏れた金(かね)本位主義の妄想に、父のみならず、母までが陥ってしまったのかと、今さらながら残念至極である。収入の事などは2の次、まずは母が学校をきっぱりやめて、弟のみならず子どもたちに寄り添うべきだったのだ。

弟は2年後には精神病院へかかることになったのだが、母の退職は父の長期入院と死亡の年(1970年)であり、それは弟が不登校に陥り、精神を病み始めてから何と5年後のことであった。

青年期は精神的な成長も大きいが、精神的な症状の進行も早い。5年という歳月が弟の精神を大きく蝕んでしまったのである。その後若干は持ち直したかに見えた弟の疾患は元に戻ることなく、32歳の若さで他界してしまった。

神道の考え方に「中今」(なかいま)という言葉があるが、これは「今に中る」(いまにあたる)ということで、「今現在何が一番大切か、優先すべきかを考え、それに取り組む」ことで、この考え方は宗教によらず人間社会の普遍的な真理だろう。

ところが父母の優先順位は二人で働くことによる複収入(ダブルインカム)だったのだからたまらない。弟の不都合は後回しにされてしまったのである。

父も母もあの世で相当反省を強いられているような気がする。いまだに父母に関してほど良い夢を見ないのはそのせいかもしれない。金の必要のないあの世でまだ金の算段にしがみついているとは思えないが、執念を通り越した妄念に支配されていたら気の毒としか言いようがない。

そうは言っても父と母なしにこの世に生まれて来たのではない。父母の恩は感じているし、両親を否定するものではない。ただ、父母のとった道を反省しつつ我が道を生きて行こうと思っている。


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