鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

キンギョソウの開花

2021-03-10 22:17:10 | 日記
12月の半ばころに買い求めたキンギョソウがようやく咲き出した。

2キロほど離れた店で店頭に並んだ3株の苗を買って来たときの状態は、15センチくらいの丈で、根元からそれぞれ7~8本ほどに分ケツした茎のてっぺんには数個のまだ堅い蕾が付いていた。

蕾が見えている以上、年が明けて極寒の1月を過ぎ、立春を迎えるころには花が開いているだろうと期待していたのだが、蕾は次第に大きくなりまた数も増えて来ているのに、蕾は固いままだ。

2月が過ぎようという頃になって、ようやく、蕾に開花を予期させる薄紅色が滲んで来るようになった。

それから1週間後の一昨日くらいから花が次々に開き出し、昨日からの陽気であっという間に満開に近くなった。

去年は今頃だったと思うが、すでに黄色く咲いていたキンギョソウを何株か求め、鉢植えにしたのを枯れる前に地面に植え替えたらそのまま成長して咲き誇り、その後、こぼれ種があったようで、小さなのが6株ほど庭で芽を出した。鉢上げしたが、どうなることか。

今度のは紅いので、よく見ると尻尾の豊かな琉金を思わせるのだが、何せ花の数が多過ぎて「金魚鉢の中で優雅に泳ぐ一、二匹の金魚」の風情はない。

それでも冬の間、彩の寂しかった庭が多少なりとも華やかになった。

と、花壇から東に目を向けると、茶色い毛布のような・・・。

爆睡するウメだった。長閑な午後・・・。

ウメはここに貰われてきて5月で丸9年になる。生まれは串良町のどこかだった。

犬小屋には決して入ろうとしないで、ウッドデッキの床下がねぐらなのだが、日中は雨の日以外、ウッドデッキの前のちょっとした花壇の前がお決まりの居場所、いや寝場所だ。

今日は陽光の下、爆睡の午後を享受している。貰って来た幼犬の頃は、こんな風に爆睡しているとよく寝言を言っていたな。

これを写している自分はマスク姿で、今はスギ花粉のシーズンだから我が家の庭に出て来るのでもマスク着用なのに、ウメはよくこんな花粉の中でマスクもせずに、くしゃみもせずにのうのうと・・・。

「お前が先に死んだら、そのよく利き、花粉何するものぞという鼻を俺に呉れ」とは、ウメの前に飼っていた犬ビータローに対しても思っていたっけ。鼻の移植は無理にしても、犬の鼻の中からスギ花粉の抗体が採取できぬものか――なんちゃって。

「邪馬台国学会」の主張

2021-03-09 12:54:45 | 邪馬台国関連
昨日(3月8日)、知人から「こんな記事がある」といって渡されたのが、読売新聞の2月5日付の新聞の切り抜きだった。切り抜きと言っても全紙であるから正確には半切りであるが、とにかく全紙の7段のうち上五段にはびっしりと文字が書かれており、下の2段に著書2冊が写真入りで紹介されていた。

タイトルは「邪馬台国物語について語る」というもので、下の段に掲載された本(おそらく自費出版)『小説・邪馬台国』と『続・邪馬台国』の内容を著者自身がダイジェストして書き下ろしたものだ。その分量たるやおよそ4000字だから、原稿用紙丁度10枚分である。

「邪馬台国学会」とは著者が一般財団法人として設立したもので、私はこの記事で初めて知った次第。

著者は久留米の人のようで、造園業などをしているらしい。邪馬台国から日本の大和王権成立に非常に興味を持ち、自分なりにここ20年ばかり現地視察や古本や古社の類に引き寄せられ、ついに邪馬台国の位置を福岡県飯塚市と嘉穂郡穂波町が交差するあたりに邪馬台国の拠点があったと結論付けている。

しかし、まあ、全国紙である読売新聞の全紙を使って広告を出すとすれば「〇百万」で済むかどうか。おそろしく金の張ることをやってのけたな、というのが読みながら頭から離れなかった。私も昨年の11月に『投馬国と「神武東征」』という本を60万掛けて自費出版しているので、上には上がいるものだと感心しながら読んでみた。

以下にこの広告で4000字にわたって書かれている著者の主張について私のコメントを書いておく。

著者の研究スタンスは、魏志倭人伝にこだわらず、記紀や延喜式に掲載の古社、それに実地踏査による聞き書きなどから絞り上げた邪馬台国論だというのだが、まず最初に「魏志倭人伝の道程記述から推測し、自説の(注:邪馬台国)の方向に持って行こうとしている事例が多く、日本中どこでも自説による(注:我田引水的な)邪馬台国論争が起きています。」と書いているが、これは全く同感である。

ところがそうは言いながらこの著者も、倭人伝の道程記事は参考にしているのである。「当時のクニと現在の地名を整合しておきます。後で里程の解説は致します。」とし、「対馬(対馬市)、一大国(壱岐市)、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、不彌国(太宰府・筑紫野市)、投馬国(北九州市)、邪馬台国(旧嘉穂郡=飯塚市)、狗奴国(久留米筑後川以南で南筑後平野一体。拠点は広川町)となります。狗奴国以外のクニグニは連合国家、共存共栄の関係にありました。」

西暦240年代、筑後川を挟んで邪馬台国連合と狗奴国が戦い、結局、狗奴国側が勝利し、飯塚市の邪馬台国の卑弥呼は豊前に逃避し、今の宇佐神宮にも祭られている「比売の神」になった――という。

(※勝利した狗奴国は八女に拠点を樹立、筑後磐井政権がその(後継)王権そのものだという。)

狗奴国に支配された筑後王権を奪回しようと約160年後の393年頃、ワカミケヌ(のちの神武天皇)を総司令官とする天孫軍は、宇佐から筑後に進攻し、ついに筑後狗奴国王権を降し、その後ワカミケヌによる大和王権が成立した――と書く。(※時代から言うとこれは神武ではなく応神天皇だと思うのだが・・・>)

さて、その主張の中に、イザナギ、イザナミが登場し、イザナギの生んだ「三貴神」すなわち「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」のうちアマテラスが卑弥呼であり、アマテラスたる卑弥呼が生んだ「五男神」のうち長男のアメノオシホミミが大和に渡り「葛城王朝」を開いたり、卑弥呼の孫のニニギノミコトがアマテラス(卑弥呼)に託された「三種の神器」を奉持してワカミケヌ(のちの神武)軍の連合化に一役を買う――などと神話と歴史の混在があり、また時代的にも混在があり、このあたりになるともう付いていけなくなる。

何よりも魏志倭人伝の行程(道程)記事の逸脱読み(解釈の誤認)がいただけない。

まず、「伊都国」を通説の「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定しているが、ここは古来「五十(イソ)国」であると仲哀紀・筑前風土記に書かれている上、糸島なら壱岐国から直接船が着けられるのに何故わざわざ末盧国(唐津市)で下船して歩いて来なければならないのかの理由が付されていない。

糸島市を「伊都国」としたうえで、行程は奴国(福岡市)、不彌国(筑紫野市)、投馬国(北九州市)と比定していくのだが、この時の投馬国への行程「南水行20日」を「東水行1日」に変えてしまっている。

また邪馬台国への行程「南水行10日、陸行1月」を、これまた「南水行1日、陸行1日」と方角については「南」をそのまま採用しながら、水行は「10日」を「1日」に、陸行は「1月}を「1日」に変えてしまった。

この大幅な改変は、やはり自説の邪馬台国比定地、飯塚市に持って行きたいがための「我田引水」にほかならず、著者が最初の一段落で述べた「道程記述から推測し、自説の方向に持って行こうとしている事例が多く、(中略)邪馬台国論争が起きています。」がそっくりそのまま著者自身にも当てはまるではないか。

堂々巡りの感は拭えず、また振出しに戻った。

とにかく、邪馬台国の位置を確定するには「まず初めに行程記事ありき」の姿勢を崩してしまっては元も子もない。

そして行程記事の解釈において矛盾に陥らないためには、
(1)「伊都国」は糸島市ではなく、末盧国(唐津市)から徒歩で東南に行った先に「伊都(いつ)国」があること。
(2)投馬国と邪馬台国の行程記事「南水行20日」と「南水行10日、陸行1月」という所要日数表記は他の国々の距離表記とは一線を画して捉えなければならないこと。
(3)特に邪馬台国の「南水行10日。陸行1月」は「帯方郡から女王国まで1万2000里」と書かれた中の、船行10日と九州上陸後の徒歩による行程1月のことを表していること。すなわち帯方郡から女王国までの距離表記「1万2000里」と所要日数表記「水行10日、陸行1月」は同値だということ。

に気付かなければならないのである。

邪馬台国解明への多大な研究努力と、著書を2冊も同時に出版し全紙広告に載せられるほどの資金力は敬服に値する。

私なども先に触れたように今回自費出版した際の費用60万は何とかなったが、広告となると二の足を踏む。広告を出すだけの余力があれば、最初に出した著書『邪馬台国真論』の増補改訂版を出したいと思っている。もう18年近く前のことだが、こちらは生原稿で出版社に送ったので、今度の出版の倍以上の費用が掛かった。

いまさらまたパソコンで打ち直すというのもなかなか大変だ。いま手元にある初版本250ページを手を加えながら打ち込み、メモリー化すればいいのだが、果たしてどのくらい時間がかかるものか、ちょっと想像できない。歳も歳だし…。

まあ、昨年の出版(『投馬国と「神武東征」)でよしとするか。あれは13年間所属し、そのうち11年は会長職にあった「大隅史談会時代」に書き続けたものの集大成で、退会したら即「過去の人」の「過去の作品」となり、スルーされ続けて来たので、70歳にもなったし、記念としてまとめておきたかったのだ。

幸い手元のパソコンにメモリー化して残してあったので、出版までの経緯はかなり容易かつ順調であった。

200部製本し、うちほぼ半数の97冊は大隅地区はもとより県内の大きな図書館、九州の県立図書館、大学図書館、及び大阪、京都、奈良、東京方面の図書館など、各図書館当たり1冊から3冊を寄贈しておいた。費用は本代と郵送料を含めて32万円位だった。

安くはない出費だが、たとえ私の事績がスルーされ続けても、どこかで何十年か後でも取り上げられればそれでよい。出来たら「おお、これが正鵠を射ている邪馬台国論だ」などと役に立ったら嬉しい限りだ。

蔑視と「別視」、差別と「区別」

2021-03-08 10:09:40 | 日本の時事風景
以前に書いたあの森・元五輪組織委員長の「女性蔑視発言」。私はあれは決して蔑視ではなく、言うならば「別視」であるとした。

これはなかなか良い視点であると、今、思い返している。

森氏がもともと女性蔑視者であったら、橋本聖子・元スピードスケート銅メダリストを政界に送り込んだだろうか?

少し考えれば分かることだ。

この橋本聖子さんは「キス魔」として知られており、週刊文春にも取り上げられたように、選手団団長だった冬季五輪ソチ大会で6位入賞を果たしたフィギュアスケートの高橋大輔を抱きしめてキスを「強要した」とかで話題を振りまいた。

これが男子の団長だったら囂々たる「セクハラ」非難の渦になったはずだが、ほぼおとがめなしであった。首をかしげるのは自分だけではあるまい。

また、もし万が一あの行為が政界の恩師である森氏の「直々の伝授」であったなら、逆に森氏が「セクハラを教えたのは実は森元総理だった。森本総理は橋本聖子氏にキスを強要していた」などと面白おかしく書かれ、蔑視を受けたかもしれない。

まあ、それは無いと思うが、ことほど左様に昨今は女性には甘く、男性には厳しい。

これも以前に書いたが、百年を越える超長寿の雑誌(月刊誌・週刊誌)7冊のうち3冊が女性雑誌であることを思うと、日本では女性蔑視など微塵もないことが分かる。文芸なども今は若い女性作家が目白押しだ。紫式部・清少納言の時代からその傾向はあったのだ(武家の時代になって著しく衰えてしまったが・・・)。

他の文化現象、例えば公民館講座などに参加し、学習しているのは9割方女性であり、またその講座の種類も驚くほど多い。いったいどこが女性蔑視社会なのだろうか。

新聞なども、昔は男が中身を読み、女は広告チラシを読むなどと言われたが、昨今はむしろ女の方が読んでいるかもしれない。投書欄にも女性の名が多く見られる。

総じて文化面では女性の方が優位であるが、その一方で社会・経済・政治面ではたしかに男性が優位に立っている。しかしながら男が優位に立っている政治などいわゆる「男社会」を下支えしているのは女なのである。下支えしてくれている女無くしては回らないのが男社会という奴なのである。

これを昔は「内助の功」と言ったのだが、今は「それは女をいつまでも軽視していることの言い訳に過ぎない」と一蹴されるのがオチだ。「男女平等」も行きすぎた感がある。憲法にある男女の「本質的平等」の深い意味が分かっていないからそう言い返すのだろう。

「男として生まれたら男としてのハタラキがあり、女として生まれたからには女としてのハタラキを十分にこなした上での平等」というのが本質的平等である。

具体的に言えば、男は「産ませた者を保護し、生まれた者を養育する属性を持った」性であり、女は「産みを与えた者から保護され、生まれた者を保育する属性を持った」性ということであり、家庭生活を大前提にした「両性」なのだ。

有性によって次世代を繋いでいく生き物の中でも哺乳類、その中でも特に人間は、この二つの属性が最も強く顕現しており、生半可な「男女平等」では律し切れない人生成長の深さがある。(※他の哺乳類に「家庭生活」はない。)

この「生まれた者」とはもちろん子どもであり、子どもには「女性蔑視」も「男性優位」も「男女平等」も分からないのが普通だし、大人は特にそれを子どもたちに求めることはない。

「子どものくせにそんなことを聞くな。口を出すな」などとはよく言われる子どもへの叱責だが、これを「子ども蔑視」とは誰も思わないだろう。この時に使いたいのが「別視」だ。

子どもは大人社会がどんなものかよく分からないまま、疑問に感じたらすぐそう言葉に出すのだろう。その多くは時間をかけて解きほぐすように説明すればある程度は分かるはずである。しかしそんなことより今子どもが為すべきこと、学ぶことが他に沢山あるのを知っているから大人は「つまらないことを聞く時間があったら勉強に回せ」と言外に教訓しているわけだ。

これは「子ども蔑視」ではない。人間の子どもは格別に長い子ども時代において、一般社会とは隔離された居場所つまり家庭で養育されるのが普通であり、それは「別視」されているのである。「特別視」と「特」を付けてもよい。

昨今、「混合名簿」というのが学校で取り入れられているというが、子ども自身が男女別の名簿に違和感を持っているとは思えない。子どもはいわゆる「敵味方」なく、それぞれの個性をそういうものだと了解しているから、「区別」はしていても大人が思うほど差別感には支配されていない。一例として、諸外国に赴任した親に付いて行った子どもがすぐに現地に溶け込めるのもその特性による。

(※鹿児島の格言に「負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな」というのがあるが、子どもは属性として「嘘はつかず、弱い者をいじめる」ことはしない。それを守れなくなるのは大人社会の反映であることが多い。また「負けるな」は主に武士の子弟に強く言われたフレーズだが、今では「自分に負けるな」と捉え直されている。)

女性に対しても子ども同様に「蔑視」という言葉はふさわしくないと思う。子どもには子ども特有の「区別」されるべき居場所(=家庭)が必要であるのと同じように、女性には男性と違った「区別」されるべき精神空間のような物が必要だと思うし、それによって成り立つ文化事象は驚くほど豊かである。それは「区別」であり、「差別」では全くない。むしろ男の方がそのような事象から「排除」されていることが多いのが日本の深さだと思う。


大隅史談会会長時代の回顧

2021-03-05 09:09:07 | 日記
3月2日から4日にかけて、「さらば大隅郷土史」「さらば大隅郷土史(つづき)」を書いていたら、特に「つづき」においてはかなり冷静さ取り戻し、そうだったな、こんなことがあったよな――と頭に浮かび、胸を去来する事どもが多かった。

大隅史談会の会長職に11年あったわけだが、よく言われるように「十年ひと昔」で、たしかにいろいろなことがあった。

今日は大隅史談会会長時代を若干振り返っておきたい。

会長に就任したのは「さらば大隅郷土史(つづき)」で書いた通り、副会長も理事も誰もやり手がいない中で、平成18年(2006年)3月当時の会長・江口主計先生から受け継いだのであるが、そこから会長職辞任(同時に退会)までの事どもを客観的事実のみを挙げて振り返りたい。


さて平成18(2006)年4月に会長に就任したのだが、最初の仕事は3月中に上梓された『大隅49号』の販売であった。販売以外に各図書館等への贈呈郵送・配達の仕事があるが、この春の新号の販売と贈呈等はこの後も毎年同じことの繰り返しなので、以降は触れない。

会長に就任して驚いたのがこの大隅史談会、会員は会員名簿に200名以上がいるのだが会費の徴収は無いのであった。では何を運営資金とするのかというと会誌『大隅』の売り上げなのである。俗に言う「自転車操業」というやつである。

しかし会員200名のすべての人が購入するわけではなく、年にもよるが100名から150名(100冊から150冊)であり、単純に計算すると年間売り上げは20万から30万であった。

平成18年度は前々年度の『大隅48号』(340ページの大部。二部構成で、一部を「高須町の戦争記録集」としていたので高須関連の人たちには好評でよく売れ、また18年度になっても品切れで追加の発行を行ったほどであった)が、よく売れて、たしか60万くらいが手元に残ったのではないか。

したがって平成19年4月に上梓した『大隅50号』から『大隅51号』までの2号分の出版費用は何とか賄えたのだが、52号を出版する段になると資金が尽きかけていた。しかし『大隅52号』は何とか出すことができた。だが、その年度(平成21年度)の平成22年3月の決算ではすでに次の53号の出版費用が不足することになった。

大隅誌一回の出版費用は、発行部数・ページ数に拠らず一冊当たり1600円というのが印刷所との約束(契約?)であったから、200部を依頼すると32万円。250部なら40万円。

この頃はおおむね250部を発行していたが、その40万はおろか30万も難しい。

大隅史談会の郵便通帳には普通口座とは別に、定額の60万があったから、それを取り崩せば急場はしのげるが、少し以前に100万ほどあったのを取り崩しており、今度それに手を付けてもせいぜい3号分の出版費用にしかならない。貯金をゼロにしたうえで55号で出版は終わりです――何てことは責任者として口が裂けても言えないし、言いたくない。

(※定額の60万は、大隅史談会が昭和56年か7年の頃に「地域史への長年(30年)の取り組みを評価する」としてもらった「MBC賞」の賞金100万円の残りであったと聞いている。)

そこで印刷所に「自分で原稿をパソコンで打ち込み、おたくに製本だけお願いしたら、安くなるのでは」と掛け合い、半額の840円(800円プラス消費税5パーセント)で可能となり、250部が20万で済むようになった。

この53号以降は私が編集した60号まで同じ一冊当たり840円となったので、出版の継続が可能になったのである。

55号か56号からは平均して300部(製本代252000円)をキープするようになり、製本代を引いて毎年決算で10万以上は残るようになったので、この頃からパソコン打ち込み代として3万~10万を頂くようになった。会長職の手当ては何も無いので、気持ちとしては会長手当的なものと考えた。

また56号くらいからは会誌に広告を載せたらどうかと、各企業を回ったことがあったが、余り芳しくなかった。第一、「大隅史談会なんかあったの?」と言われる始末で、面食らうことがしばしばだった。それでも某不動産会社の会長の肝いりで、100冊を購入してもらい、それを大隅地区の高校の都会(東京・大阪・福岡など)の同窓会に贈るという事業が始まり、一冊1600円、100部で16万円が定期的に入るようになり、資金面で大いに助かった。

そうした余剰金を使い、「月例会」を57号の頃(平成26年度)から始めた。月1回の日曜日の午後、主として会誌に投稿してもらった人の話を聴くという学習会だが、一回に二人の講師を頼み、それぞれ4000~5000円を謝礼として支払うことができた。月例会用にプロジェクター(45000円)を購入したのもこの頃である。
(※さらに『三国名勝図会』全4冊・青潮社版、古本で3万円ほどだったのも購入した。これとプロジェクターは平成29年3月に新会長の隈元氏と事務局の白井氏が我が家に事務用品一式を取りに来た際、一緒に持ち出した。事務局に置いてあるはず。)

会長職を去ろうと決めたのは平成28年の夏であった。それまで毎年の出版に関しては誰のお咎めもなく発行を重ねて来たのだが、「月例会」を開いたことが、副会長の隈元氏には気に入らなかったようで、彼が月例会に参加したことはなかった。

南日本新聞の「みなみのカレンダー」に月例会の案内を載せていたので、会員以外にも見知らぬ顔を見ることがあり、何回か続けて参加した人に、「どこからお出でか」と聞くと、「〇〇町です。文化財審議員やっています」という。

それで私は合点が行った。つまり隈元氏は大隅地区の文化財保護審議会の指導員であり、このような人たちを集めた委員会総会とか研修会ではトップの立場の人であり、その人が副会長をやっている大隅史談会が主催する「月例会」には主催者の一人として会場に来ているものと思っての参加だったのだろう。隈元氏のファンと言うべき人たちだったかもしれない。

それが来ていないということはどういうことか。おそらく某町・某市の文化財保護審議委員の間でそのことが話題になったのではないか。また、会長の松下氏がなぜ審議会委員ではないのか、ということも。(※ここはあくまでも自分の推理で客観性に乏しいが・・・)。

結局、その齟齬に隈元氏も、実は私も嫌気がさしたのだ(※隈元氏のはともかく、自分の嫌気は主観ではなく客観に近い)。

そしてその年度(28年度)のパソコン打ち込みと編集(『大隅60号』)を秋から冬にかけて済ませ、例の如く印刷所にUSBメモリーを持参し、本が仕上がるのを見届け、平成29(2017)年4月に新会長の隈元氏にバトンタッチをした。


以上が、私が大隅史談会会長として在籍した11年間の粗々なる回顧である。


※大隅史談会は自分の会長就任当時『大隅』という会誌を出版するだけの会に成り下がっており、そのことは取りも直さず、「会誌出版が途切れたら、会も終わり」という会だったということである。

※自分で言うのもなんだが、この瀕死に近い状態だった大隅史談会において私の前に会長であった江口主計先生の会および会誌続行への強い想いを受け継いで今日に繋いだのは私だと思っている。

※今の大隅史談会の顧問である旧高山町最古参のK先生(女性で先生上がり。高山郷土誌の中世担当者。御年は95と聞く)からは、私が会を辞めてからも毎年年賀状を頂くが、必ず自筆の添え書きで「先生(松下のこと)がいなかったら史談会は続いていませんでした」と認めて下さっている。

 K先生は会長就任当時にお話に伺ったとき、「これまでに書くことは書いてしまったから、書くことがもう無いの」とおっしゃっていた。だがしかし私が就任してからは毎号一つ以上の論考を寄せられ、60号の巻末に創刊号からの著者と論考を一覧できるように編集してあるのだが、それを見ても一目瞭然、断トツの論文数である。驚くべし。

 この先生の持続性は、自分も見習いたいと思っている。頭も身体も常に適度に使うことだな、関心を持ち続けることだなと教えてくれているようだ。

さらば大隅郷土史(つづき)

2021-03-03 09:22:54 | 日記
昨日書いたブログ「さらば大隅郷土史」を今朝読み返してみると、ずいぶんと興奮して書いてしまった印象が強い。

少し冷静になって舌足らずだった点を書き加えておかないと、あのブログを読んだ大隅地域以外の読み手は、何でこんなに興奮しているのか呑み込めないと思う。

まずは一言、講話の話を持ち掛けて来た依頼主に。

 歴史の全般ではなく、かなり狭い範囲の地域史などは、地元の人間ならともかく、部外者が話すとすれば最低でも二週間くらい前には開催日時が決まっていなければ、準備の仕様がない。たとえ1時間の話でも、原稿までは行かなくてもメモ帳程度の下調べの準備に4~5日、下手をすると一週間は要る。
 自分の専門とする邪馬台国関連の話だったら一日の準備で済むが、地域史は考古から近代まで幅が広く、案外準備に時間がかかる。
 ※自分が大隅史談会会長の時に始めた「月例会」では、講師に1時間半ほど話をしてもらっていたが、1か月以上前に連絡を入れ「場所、時間、謝礼額」をまずは電話で伝え、了承を得たら講義のタイトルを聴き、はがきで講演内容を講師本人と参加希望者に配布していた

昨日、今度の話に断りを入れたのは、以上のような基本的なTPOに欠けていたからである。高須の地域史だったら自分でなくても適任者はいくらでもいるはずという思いもあった。


さて、昨日書いた中で、自分が大隅史談会会長であったこと。文化財保護審議会委員ではなかったこと。そして郷土出身ではないから郷土史家ではないこと。これらについて補足しておきたい。

  【大隅史談会会長就任の経緯】
 大隅史談会会長であったのは平成18(2006)年の4月から平成29(2017)年の3月までの11年間で、その間会誌『大隅』の発行に携わった。『大隅』の号数で言えば50号から60号の編集を担当したことになる。

会員になったのは平成16(2004)年で、当時の会長だった江口主計先生(教員上がりだったので先生と呼んでいた)をお住いの内之浦に訪ねて行ったことを覚えている。その時、翌年(2005年)発行の48号用の原稿と拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)を持参した。

48号を発刊したその年(2005年)の夏だったと思うが、先生が入院手術されることがあり、会長職を当時の副会長であった大隅町坂元の中島勇三さんに託された。しかし中島さんはあくまでも「会長代行」とのお考えで、江口先生が病から復帰すると再び先生に会長職を返還された(会の事務用品一式も)。(※就任固辞の理由は高年齢=大正13年生と、お住まいが遠方過ぎる、だったと思う。)

それが冬の始めの頃で、その時すでに中島さんは平成18年春に発行予定の49号の編集を済ませていたのだが、会長職固辞の意向は変わらず、といって江口先生は病後のこともあり同じく会長職は続けられないと考えていた。そこで当然次期会長の人選となるのだが、規約にもあるように会長が職務遂行不可となったら副会長が会長に昇任するはずであった。

ところが中島さんに代わって副会長になった隈元氏は受け付けず、同様に他の理事の誰彼も拒絶するという事態になった。

この副会長以下理事の皆さんが、次期会長就任を拒んだのにはちょっとしたわけがあった。というのは私が女性理事で最古参の高山町(現肝付町)在住のT先生(この方も教員上がり)を挨拶がてら訪問した折にT先生はこうおっしゃったのである。「大隅35号の巻頭言に神田先生(当時の会長)が書いていらっしゃるように、もう大隅史談会独自の活動は出版も含めて終わりになる。わたしもね、書くことは全部書いてしまったから」と。

早い話が、大隅史談会の活動は「文化財保護審議員」の活動(現地研修)に吸収されていくということであった。当時、大隅史談会の会長始めすべての役員はそれぞれの地区の文化財保護審議員になっており、そのほうの活動・研修がとりもなおさず地域史の研究なのであった。だから誰ももう大隅史談会と会誌『大隅』の発行は終わりだ、なしでいいと考えていたようなのである。

だが、ひとり江口先生は違っていた。会誌『大隅』を絶やしてはいけないと強く思っていたようで、誰もやらない会長職をどうしようと悩んでおられたが、たまたま自分が2年前に入会し、48号、49号と続けて投稿したことと、拙著『邪馬台国真論』を寄贈したことに目を留めたのだろう、鹿屋市では有名なとんかつ「竹亭」に呼ばれ、ご馳走になりながら会長職を受けるよう慫慂されたのであった。

その席で承諾したかどうかは記憶にないが、それよりも雑談の中で、先生の社会人生活の第一歩は鹿屋中心部にあった「熊野でんぷん会社」であったことと、近くに当時の家があることと、その後教員(中学校の理科)に転身したことなどの話が記憶に残っている。

以上のような経緯で、入会僅か3年目に会長職をお引き受けしたのである。

(※当時、隈元副会長がすんなりと会長に就任していれば、私の出る幕は全くなかった。文化財保護審議会指導員でもあった氏が会長になれば大隅史談会がもっと早くに盛り上がっただろうに惜しかったというしかない。)

  【文化財保護審議会委員と大隅史談会】
 文化財保護審議会はあの田中角栄の「日本列島改造論」に象徴される全国的な土木工事ブームによって遺跡が破壊されていく現状を阻止しようとして昭和48年頃に生まれた公務の一つで、大隅でも学識者が市町村毎に任命されたのだが、その一大供給源は各地の「史談会」「郷土史研究会」の役員であった。大隅史談会でも上に触れたように会長始め役員はほぼすべて保護審議会委員に登用された。

中でも最年少(当時、多分40歳くらい)で理事になった前会長の故隈元氏はやはり保護審議会委員になり、5~6年前に勤続25年とかで県から表彰を受けている。それほど大隅史談会の役員は文化財保護審議会委員の指定席であった。

ところが私にはその席が回ってこなかった。会長職11年の中で一度だけ鹿屋市文化課から「鹿屋市の文化財保護審議会委員のことですが・・・」と電話があり、「ああ、これは審議会委員推薦の連絡か」と一瞬思ったのだが、「今度補充がありまして、松下さんは誰か大隅史談会の中で女性を推薦してくれませんか」と来た。「女性の適任者?・・・それは知らない」と、あんぐりとして回答した、その一件だけであった。

指定席が指定席ではなかったのである。自分としては審議会委員登用にこだわるつもりはなかったのだが、かなり憮然とした記憶がある。

   【郷土史家たる条件】
 最後に「郷土史家」ではないことだが、これはもうはっきりしている。大隅生まれではないからだ。郷土に生まれ育ち、祖父母や父母から様々な昔話を聞きながら、史跡や伝説地の周辺で遊んだりした思い出は、郷土に愛着を持ち、その歴史を知りたくなる一番大きな要因だ。

私はよそ者だからそれがない。大隅という郷土への歴史的知的興味はあっても、愛着はない。

私は日本人だから日本への愛着は人並みにあると思うが、特定の郷土への愛着はない。生まれ故郷の東京にすらない。しいて言えば「哀惜」か。悲哀の事どもの多かった故郷も、ここまで年を経て来て振り返ると哀惜の念に変わってきているようだ。


以上で昨日の興奮した書きぶりの釈明を終わります。読者よ、諒とされよ。

(追記 2021.03.04)
2日前のブログ「さらば大隅郷土史」の中で、最後のフレーズは過激なので削除します。また、この「つづき」では段落に小項目を入れ、(※)の部分を追加しました。