鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

梅雨明け2021

2021-07-11 13:52:46 | おおすみの風景
今日の午前11時に鹿児島気象台は梅雨明けを宣言した。

今朝は8時から町内会の清掃の日で、班の前の道路(県道)の歩道と道路の境目の溝に溜まった泥と草とコケを、角スコップで掬い上げる作業を行った。

1時間半位で完了したが、暑さは相当なものだった。空を見ると半分青空でカンカン照りというほどではないが、湿度が高い。終わってみんなで近くの木陰に入り、清涼飲料でのどを潤したが、これが美味い!(ビールだったらなおよかったが・・・)

家に帰ってシャワーを浴び、扇風機で涼んでいると、庭のウメのことを思い出した。

最近散歩に連れて行くと、途中で首のあたりを掻いたり、胴の横っちょを器用に後ろ足で掻いたり、落ち着きがない。

まだ冬毛も相当に残っていることだし、というわけでウメを洗濯することにした。

今日は犬用のシャンプーをいつもより多目にたっぷりと付けて念入りに洗ってやった。なかなか気持ちよさそうである。

以前に飼っていたビータローはオス犬のせいなのか、シャワーを掛けるそばから逃げようとし、おまけにすぐ体をブルブルっとさせるので洗いづらいことこの上なかったが、このウメはその点おとなしくしてくれるので洗う方は大助かりだ。

洗い終わって水気をしっかりと拭いてやったら、昨日買ってきた新しい赤い首輪を付けて一丁上がり。ウメも嬉しそうに尻尾を振った。

それからまた居間に戻り、テレビを眺めていると、11時半頃だったか、「南九州は梅雨が明けたよう」とのアナウンス。外を見ると確かに上空はさっきの青さを維持している。

5月11日に梅雨の入りだったから、ちょうどきっかり2か月の期間だったことになる。平年より5日ほど早く、去年よりかは17日も早かった。

ところが同じニュースでは昨日から今日にかけて、鹿児島の川内川流域で線状降水帯による大雨で、浸水被害が出ているという。同じ鹿児島の北半分はレベル5の大雨警報、こちらは晴天で梅雨明け宣言。何かちぐはぐ感が否めない。

昔から夏の雨は「馬の背を分ける」というが、これまで経験したことのない気象現象が頻発しているので、ここは腹を括るしかないか。

大倭(タイワ)から「大倭(おおやまと)」へ

2021-07-10 09:25:29 | 邪馬台国関連
大倭(タイワ)は魏志倭人伝上の用語で、邪馬台国連盟(女王国以下21か国)内で国々が交易をする市場のような物があり、それを監督する(「国々に市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ」)のが、大倭であった。

この大倭を女王国による設置であると考える研究者が多いが、それは違う。もし、そうであるならば、女王国の官制「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」という4等官に加えられていなければならない。(※私は最初の「伊支馬」を「イキマ=イキメ」と読んで、垂仁天皇の和風諡号「活目入彦五十狭茅」の「活目」がそれに当たるとした。垂仁は「大倭」から派遣されて、女王国を監督していたことがあったと考えた。)

この大倭こそは、「五十(イソ)国」すなわち糸島を足掛かりに崇神・垂仁の二代で大きく勢力を伸ばし、北部九州一帯を支配下におさめた「崇神五十王国」の発展したものであり、「北部九州倭人連合」とも言うべき勢力である。崇神の先祖が半島の「御間城(ミマキ)、後の任那(ミマナ)において大勢力となり、半島情勢の逼迫によってその王宮を糸島に移したと考えるのである。

しかし、あの半島を侵攻して公孫氏を打ち破り、魏による直接支配を招来した大将軍・司馬懿の記憶も新しく、あまつさえその孫の司馬炎が魏に代わって晋王朝を開いたと聞くと、半島からわずか三日の行程で到達可能なこの糸島「五十王国」はもとより、北部九州全域も司馬氏の侵入に耐えられるところではないと思うに至った。

そこで更なる安全地帯、すなわち、畿内大和を目指すことにしたのが「大倭の王」崇神であったと思われる。

古事記の「神武東征」は南九州から出発して16年余掛かって河内の日下(くさか)に到着したと書くが、それは一回目の南九州からの「投馬国東征」であり、その一方で日本書紀では、出発からわずか3年半で河内に到達しているが、こっちは二回目の東征「崇神東征」に他ならない。

この崇神東征は「大倭の東征」と言い換えられる。「大倭」を「北部九州倭人連合」と定義したことからすれば、こちらは北部九州からの東征ということになる。

【 先代旧事本紀に見える「大倭国」 】

この北部九州に「大倭」があったことを明示している史料がある。それは『先代旧事本紀』で、その第10巻目に「国造本紀」という全国各地(国)の国造に任命された134の国造の名が網羅されているのだが、その「まえがき」には国造と県主が定められた経緯が記されている。

次に「まえがき」の必要な部分を意訳して掲載しよう。

〈 天孫ニニギノミコトの孫(曽孫)イワレヒコは、日向より発して倭国(やまと)に赴いた。東征の時、大倭国において漁夫に出会った。(イワレヒコは)左右に「海の中に浮かんでいるのは何者だ」といい、忌部首の祖であるアメノヒワシノミコトに命じて見に行かせたところ、「人でした」と連れて帰った。「私は皇祖ホホデミノミコトの孫でシイネツヒコといいます。海路も陸路も熟知しております」と答えたので、道案内をさせた。
(中略)
橿原に都し、天皇位に就いたイワレヒコは、シイネツヒコを「大倭国造」に任命した。〉

この中に二か所の下線部に、「大倭国」「大倭国造」とあるうちの、最初の「大倭国」が北部九州にあった「大倭」を指している。

あとの「大倭国造」は「ヤマト国造」と読むべきなのは疑いないだろう。何しろ大和の橿原に王朝を開いたのであるから、最大の功臣であるシイネツヒコをそのおひざ元、つまり大和の国造にしたわけである。

ところが前者の「大倭国」は「ヤマト国」ではない。海の無い大和に漁夫がいるはずはないし、何よりも最終目的地が日向から出発して間もなくの場所にあるはずもない。

古事記も書紀も東征の最中に海の中で漁夫に出会ったのは、「早吸水門」(はやすいのと)という潮の流れの速い海峡だとしており、古事記はそれを吉備の高島宮の先とし、日本書紀は大分県と愛媛県境の「豊予海峡」とする。

古事記の説では「明石海峡」が早吸水門に該当しようが、しかしそこで初めて海路の道案内を見つけたとなると、それ以前の瀬戸内海の島々、海峡はどう通過したのか、ここまで来たら今さらもう必要ないだろうと考えられる。その一方で豊予海峡であれば、そこを過ぎたらもう瀬戸内海であり、その先は名うての瀬戸や海峡が待ち受ける。海路を案内するパイロットはどうしても必要になる。

したがってこの「大倭国」は豊予海峡を含む北部九州の領域にある国としか考えられない。とすればこの大倭国は「ヤマト国」ではなく「タイワ国」と考えてよい。すなわちこの「大倭国」は北部九州倭人連合である「大倭」のこととしてよいのである。

さて北部九州に「大倭(タイワ)」が存在したことは以上で判明したと思うが、では同じ「大倭」と書いて「オオヤマト」と読ませるのはなぜで、いつから「タイワ」が「オオヤマト」になったのだろうか。次にそれを考えてみたい。

【「欠史八代」に見える「大倭(おおやまと)】

天皇の事績が無いので、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までを一括して「欠史八代」と呼んでいる。しかし私は綏靖天皇紀には「その(綏靖天皇の)庶兄タギシミミ、行年すでに長けて、久しく朝機を歴たり」(南九州から神武天皇とともに東征したのち大和入りしたあと、タギシミミはもう高齢になっていたが、それまで長く天皇のハタラキをしていた)という決して看過できない記事があるゆえ、綏靖天皇は「欠史」ではないとしている。

したがって正確には「欠史七代」とすべきなのだが、さてこの七代のうち次の天皇の古事記における和風諡号には「大倭(おおやまと)」が付いている。

第4代 懿徳天皇 オオヤマト(大倭)ヒコスキトモ
第6代 孝安天皇 オオヤマト(大倭)ヒコクニオシヒト
第7代 孝霊天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコフト二
第8代 孝元天皇 オオヤマト(大倭)ネコヒコクニクル

日本書紀ではこの「大倭」はすべて「大日本」に置き換えられているが、「倭(やまと)」を「日本」にしている例は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)があり、これは倭国が日本に改称したあとに置き換えたものであり、「大倭」が古称であるのは論を俟たない。

さてでは「大倭」という和風諡号は何ゆえにそう付いたのであろうか。

「倭」とは勿論、魏志倭人伝中の用語であり、3世紀当時の大陸人が名付けた「倭人」に基づいている。半島や列島に繁栄していた今日の日本人の基になった種族である。

「旧唐書」にはよく知られるように、「倭国」と「日本」が同時に並列して書かれている。どちらも列島にある倭人国家を指していることは間違いないのだが、のちに「日本」という名称が単一で採用されるまでの間、列島内で王権が分裂していたかのように書かれている。
(※これはこれでちょっとした問題なのだが、日本呼称の起源とともに別の機会に論じたい。)

日本が通称化するまで「倭、倭国」が日本列島の国の名であった。この中で北部九州には崇神五十王国から発展した倭人連合「大倭」が成立した。西暦で言えば2世紀前後の事だと考える。ちょうど南九州からの「神武東征(実は投馬国王タギシミミの東遷)」があった頃で、この時期はまた九州北部で大きな争乱があり(後漢書と倭人伝にある倭人の乱)、卑弥呼の擁立で争乱が収まった頃でもあった。

この北部九州倭人連合の「大倭」が、南九州の「神武東征」の約100年後に大和への東征を果たし、崇神王権が成立した。このことを伝えているのが上に書き出した第4代、第6代、第7代、第8代の天皇の和風諡号に冠せられた「大倭(おおやまと)」の起源だろう。つまりこれらの天皇は崇神天皇の先祖だということである。

崇神天皇の先祖がまだ半島南部の「御間城(ミマキ)」(のちの任那)に王宮を築いていた頃に王であった5代くらい前の先王の名を、新しく大和に王朝を築いたのち、「万世一系の理念」に違わぬよう南九州由来の神武、綏靖、安寧三代の後に接合したのであろう。

これが大倭(タイワ)と書いて「おおやまと」と読ませるゆえんである。
(※大倭=大和を「やまと」と読ませるのだが、そもそも「やまと」の語源は何であろうか。「やまたいこく」から由来しているとは大方の認知だが、では「やまたい」とは何から来た名称なのだろうか。上で触れた「日本呼称の起源」とともに別論に挙げることにする。)





オリンピックは開催するが、東京圏は無観客!

2021-07-09 10:17:51 | 日本の時事風景
IOC、同調整委員会、東京都、JOC、オリンピック組織委員会による「5者協議」が開かれ、東京オリンピックは日程通り開催されることが最終決定された。

ただし、東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏で行われる競技については「無観客」で、ということになった。一昨日に発表された東京および沖縄への緊急事態宣言延長、そして他の神奈川、千葉、埼玉(大阪も)は、まん延防止措置が延長される。

どちらも期限は8月22日までと大幅な期間延長だ。オリンピックが8月8日に終わっても、そのあとすぐにお盆休みに入り、人流が抑えきれないだろうとの読みからだろう。

しかしその一方で、愛知、福岡、北海道などへの措置は、予定通り明後日7月11日に終了するという。

これにはちょっと首をかしげる。福岡や愛知や北海道から大阪圏や東京圏の大学・専門学校に来ている学生などは、一足先に夏休みになるだろうからどんどん郷里に帰るだろう。そして自粛を解かれた開放感に「酔う」に違いない。片手落ちの感は否めない。

今朝、菅総理の会見を見ていたが、いつになく饒舌というか、手元に目を落とすこともなく、会見場を見回す余裕すらあったように思えた。これはIOCのバッハ会長の「東京オリンピックを安全に開催するためなら、どんな措置でも取って協力する」という強いバックアップの言葉があったからだろう。

これまで「観客の上限はどうの、こうの」と観客を入れて開催することに固執していたのが、ここへ来て最大の後ろ盾であるIOCの理解が得られたとばかり、「無観客」に落ち着いた。菅総理としては「不退転の決意」に違いなく、むしろさばさばしたというのが本音だろう。

とにかく最低限、開催さえすれば、一応のメンツは立つ。IOCもアメリカの馬鹿テレビメディアからの多額の放映権料が保証される。国民もアメリカの馬鹿テレビによる「アメリカファースト」の放映プログラムに制約はされるが、ビデオを駆使すれば一応我が家で観戦はできる。

考えようによっては、くそ暑い真夏の東京で開催されるあらゆる競技を、冷房の効いた茶の間で涼しい顔をしながら見られるから、熱中症を心配しないで済む。(※ただし、使用電力のピークが電力各社のマックスを超えなければの話だが・・・)

まあ、いずれにしても「前代未聞のオリンピック」になることは間違いない。

「東北大震災と福島の復興を成し遂げたことを世界に示す」ことが目標(売り)だった東京オリンピック。それが無理と分かると、今度は「人類が新型コロナ禍に打ち克った証にする」はずだった東京オリンピック。

このどちらのスローガンも、もはや空しく響く。福島は未だ汚染水や汚染土の処分の目途が立たず、廃炉にあと40年(!!)は掛かるというし、新型コロナ禍の克服は道半ばだ。

せめてオリンピック期間中に台風が直撃したり、「線状降水帯」が東京の空を覆わないことを願うばかりだ。

崇神王朝はいつ始まったか(記紀点描⑦)

2021-07-07 09:43:28 | 記紀点描
三輪山のふもと、纏向の地に王朝を開いた崇神天皇は、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)でも書いたように、朝鮮半島南部のミマキ(御間城)すなわち後の任那から、九州北部の糸島(五十=伊蘇=イソ)に渡来し、そこで五十王国を築き、次第に勢力を伸ばして北部九州の倭人国家群を糾合した人物と考えている。

その様子を端的に表現したのが崇神の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」で、これは「半島南部のミマ(皇孫)の地に入り、その後、五十の地に渡来してそこで瓊(玉=王権)を殖やした」と直訳される。最後の「瓊(玉=王権)を殖やした」というのは、「勢力を拡大した」ということである。

そして魏志倭人伝において邪馬台女王国連盟を監督するために「伊支馬(イキマ)」を置いた勢力、すなわち「大倭」こそが崇神五十王権であったと見る。

後に垂仁天皇となった皇子の和風諡号にも「活目入彦五十狭茅(イキメイリヒコ・イソサチ)」と「五十(イソ)」を含んでいるのは、崇神・垂仁の親子二代にわたって五十王権を伸長させたことを物語っている。

垂仁の和風諡号には「イキメイリヒコ」とあるが、この「イキメ」は女王国への監督官「伊支馬(イキマ)」のことであり、垂仁はごく若い頃に女王国に派遣されて、監督官「伊支馬(イキマ)」の要職に就いていた可能性が考えられる。

ではこの崇神・垂仁親子が東征をして大和に入り、崇神王朝を開いたのはいつのことだろうか(1)。またなぜせっかく北部九州に樹立した「大倭」を捨てて大和へ行ったのだろうか(2)。そして崇神王権の前に大和に橿原王朝を築いていた南九州由来の「投馬国王権」との王朝交代劇の様子はどのようなものだったのだろうか(3)。

以上の3点について述べてみたい。

順番は違うが、まず(2)から始めよう。東征せざるを得なかった時代状況を見ておきたいからである。

半島南部の後の任那(加羅)と呼ばれる所に王宮(御間城)を築いていた崇神の先祖は、筑前風土記や「仲哀天皇紀」に見えるように、「我が先祖は半島の意呂山に降臨した」と言った糸島の豪族「五十迹手(イソトテ)」の先祖と重なるのだが、半島においては西暦204年に公孫氏が帯方郡を置いて植民地化すると、次第に南方への圧力が高まった。

その後3代目の公孫淵が魏王朝から派遣された将軍・司馬懿によって滅ぼされると、今度は魏の圧迫が始まった。これに危機を抱いた崇神は半島南部から北部九州の安全地帯である糸島(五十)へ王宮を移した。ただし王宮と言ってもおそらく「仮宮」(行宮)レベルの粗末な物であったろう。崇神の子の垂仁の和風諡号の「五十狭茅(イソサチ)」というのは、「五十(糸島)の狭く、茅葺程度の粗末な仮宮で生まれた、あるいは育った」ということを表していよう。

公孫淵が滅ぼされた同じ年に邪馬台国女王の卑弥呼が魏に初めて貢献している。

これはおそらく半島の魏による一円支配とそれに伴う混乱の様子を聞き、女王国の南部から虎視眈々と侵攻する機会を狙っていた狗奴国の動きが強まったためだろう。(※この時に魏による軍事的な介入を求めたのだが、結果としては破格の「親魏倭王」の金印を下賜され、その威光が狗奴国の侵攻を止めたようだ。)

さて五十の地(糸島)にやって来たとは言え、半島からは「一衣帯水」の距離でしかなく、また司馬懿将軍が半島を経由してやって来ないとも限らない。崇神と若きプリンス垂仁とで北部九州一帯に支配を広げたあとも、半島情勢には極力の注意を払う必要があった。

その不安がピークに達したのが、魏が滅びて司馬氏の晋が王朝を樹立した266年頃であったと思われる。既にあの大将軍司馬懿はこの世におらず、孫の司馬炎が皇帝に就いたのだが、今度は晋王朝が半島全体を植民地化し、その圧力が海を越えて来ないとも限らない。

北部九州の本拠地では心もとないと考えて不思議はないだろう。崇神はホームグラウンドの北部九州から安全地帯の畿内大和を目指すことにしたのだ。

(1)の崇神王朝の樹立年代について

西暦266年の晋王朝の樹立が引き金となり、崇神五十王権(「大倭」)は大和への「東征」を開始する。この「東征」は文字通り武力による侵攻とみてよいと思われる。日本書紀が3年半で河内に入り、その後も3年程度で大和に王朝を樹立したと書く「神武」は崇神のこととしてよい。(※その一方で古事記では16年もかかって河内に到達したと書く。これは南九州からの移住的東遷のことであろう。)

仮に晋王朝の樹立年の266年に「東征」に出発したとすれば、河内へは3年半後の269年から270年、さらにその後3年ほどであるから273年ないし274年の頃、遅くとも280年の頃には大和の纏向に新王朝「崇神王朝」が樹立されたと考えられる。

(3)前王朝である南九州由来の橿原王朝(投馬国王権)との交代劇について

私は最初の大和王権である橿原王朝は、南九州古日向にあった投馬国(『魏志倭人伝』)から、古事記が記すように河内に到達するまでまで16年もかかり、さらに畿内上陸後も7~8年を要してようやく樹立された王朝と考えるのだが、この王朝は神武(実はタギシミミ)ー綏靖(カムヌナカワミミ)ー安寧(シキツヒコタマテミ)と続いた。(※三代目のシキツヒコタマテミは本来シキツヒコタマテミミであり、最後の「ミ」の脱落だろう。)

この三代は7~80年続いたはずで、「二人のハツクニシラス」(記紀点描②)で述べたように投馬国王権の橿原王朝樹立は170年代であったから、崇神五十王権が樹立された270年代には4代目の治世だったことになる。

記紀ともに4代目は「懿徳天皇」だと記す。この懿徳天皇の和風諡号は「オオヤマトヒコスキトモ」で、前の3代とは打って変わった諡号である。しかも「オオヤマト」は漢字で「大倭」ではないか。この天皇こそが、大和最初の橿原王朝に取って代わったのが北部九州由来の崇神五十王権すなわち「大倭」であったことを如実に示しているのである。

では記紀の記録上で4代目をすり替えられた橿原王朝側の真の4代目は誰であったのだろうか。つまり270年代に始まった崇神王朝によって滅ぼされた旧橿原王朝の4代目の主は誰だったのだろうか。

結論から言うと、その当主こそ崇神天皇紀で叛逆を起こしたとされている「武埴安(タケハニヤス)彦と吾田媛(アタヒメ)」である。

この二人が南九州由来なのは、まずその名に表されている。武埴安の「武」とは古事記の国生み神話で南九州を「建日別」(建は武と同義)とあることで分かるし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」なので、阿多媛であり、そのものずばりである。

さらにこの二人が南九州由来であることを示すのが、崇神紀10年の次の記事である。

〈 吾れ(崇神)聞く、タケハニヤスの妻アタヒメ、ひそかに来たりて、大和の香山(香久山)の土を採りて、領巾の頭に包みて祈り、「これ倭国の物実(ものざね)」と申して、すなわち帰りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。〉

アタヒメがひそかに香久山に登り、その土を採取して「これは大和の物実」と祈りつつ持ち帰ったらしいが、このことは戦いを挑む前兆であるから、後手に回ることなく成敗しよう――崇神はそう考え、タケハニヤスの反乱に備え、勝利したというのである。

この香具山の土を採取して戦いに勝利しようという行為だが、実は神武天皇(タギシミミ)が行っているのだ。橿原に王朝を築く2年前の次の下りである(「神武紀」己未年2月条)。

〈 (神武)天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香久山の埴土を採りて、八十の平瓮(ひらか=皿)を作り、みずから斎戒して諸神を祭り給い、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を名付けて「埴安」という。〉

神武(タギシミミ)が自ら斎戒して香具山の土でたくさんの平瓮を作って供物を神に供え、祈ったことで、天下を平定できたというのだが、アタヒメが香具山の土を採取した行為はこれと同じで、崇神側はタケハニヤスたちが自分たちに戦いを挑んで来る証拠と見たわけである。

アタヒメのこの行為はまさにアタヒメたちが橿原王朝の後継者であったことを示しており、タケハニヤスが橿原王朝の4代目だったのは間違いない。

「武埴安彦の反乱」とは、南九州由来の橿原王朝の4代目が崇神王朝(「大倭」)に取って代わられた「交代劇」に他ならない。それは西暦280年頃のことであった。崇神王朝(纏向王朝)の始まりである。<span>

2021年衆院選挙の前哨戦は痛み分け?

2021-07-06 13:25:29 | 日本の時事風景
7月4日投開票の東京都議会議員(127名)選挙の結果が出た。

前回の選挙で第一党だった「都民ファーストの会」(小池百合子都知事が創立、現在は特別顧問)が現有議席の3分の2の31議席に減り、第一党に自民党が返り咲いた。

第一党に返り咲いたと言っても都ファより2名多い33名で、確かに現有よりかは8名伸ばしたのだが、それでも選挙前の予想の「40名以上」からすると大分少ない。したがって勝利したとは言い難い。

しかも前回は小池氏支持に回った公明党が、今度は自民支持に帰って来たので、相当の伸びを期待していたのだが、その当てが外れたという塩梅だ。無党派層の支持率も都ファに大きく水をあけられているという。

小池東京都知事は選挙戦が始まる前に「過労のため入院」しており、退院後、選挙戦最後の日に各候補の演説会場を回ってエールを送ったと報道されていたが、これが功を奏して最悪の下落を免れたのではないかというニュース解説もあった。しかし、そこは違うだろう。

選挙戦前のあの「過労による入院」こそが同情票を生んだのだと思う。

というのは、都民ファーストの会は選挙公約の中で「観客無しの五輪開催」を言っていたのだが、政府サイドは「上限を1万人にして開催する」と決め掛かっており、選挙公約では語らずにその方向で進めることが既成の事実化しつつあった。主催者側の東京都と、組織委員会を抱えている政府との間の溝は埋まらないままだ。

そのことはかえってオリンピックの中止または延期派を強固にし、自民党支持者や開催支持派の中に「曖昧に事を進めるな。東京都側の話も聞け」という反発を起こしてしまったのだ。

自民党票が思ったより伸びず、都民ファーストへの票が思ったより減らなかったのは、そこら辺に理由がある。

自民党政府はどうしてもこのオリンピックを成功裏に開催し、その後に控えている総裁選と衆議院選挙に花を添えたいのだが、どうやら雲行きがあやしくなってきた。

東京オリンピックが無観客にしろ上限1万人にしろ、通常の日程で開催されたとしても、今のワクチン接種状況から見て、また、学校が夏休み入ることから考えて、感染の再拡大は防ぎようがない。

7月11日に期限がくる東京圏の「まん延防止等重点措置」の後をどうするかで、今、論議がなされているが、少なくともオリンピック開会前までの延長は必至だろう。

それどころか、オリンピック開催期間は無観客かつ外出禁止にでもしないと、競技日程の最中に会場周辺でクラスタ―でも発生したら、オリンピックの続行そのものが不可能になりはせぬか。口を開けば「安心・安全の・・・」という菅総理の顔に泥を塗ることになりはしないだろうか。

「オリンピック開催してもいいけど、無観客でね・・・」という都知事を無視して、上限がどうのこうのと頭をフル回転させながら開催したとして、これはやはり衆院選への「賭け」になろう。都議選は痛み分けだったが、今度はさてどうなるか。

※私見では開催11月延期説だ。半年前までは丸1年延期説だったのだが、やはりクソ暑い夏より、気候の安定している晩秋がふさわしい。アメリカの映像メディアの金権など無視すべきだ。可能ならかち合わない方がよいのだが。それなら12月はどうだ。スポーツは寒くてもできる!