鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

また芸能人の自死

2021-12-22 10:27:25 | 母性
1昨日の12月18日、松田聖子の娘でミュージカル女優の神田沙也加が自死したという。享年35歳という若さだった。

自死した場所は北海道の札幌で、札幌で開催のミュージカル『マイ・フェア・レディ』を明日に控えての出来事で、宿泊先のホテルから身を投げたという。

実は18日にはそのニュースを知らなくて、翌日の19日になって知ったのだが、最初家内から聞いた時、「嘘だろ!」という言葉が出てしまった。

ミュージカルに出演し、しかも主演であるのならそれなりに「元気な」はずである。その後のニュースでは18日の出演を体調不良ということで代役に演じてもらっていたそうだ。

しかし出演の直前に急激に体調がおかしくなったのなら、所属事務所のマネージャーにそう訴えて医療機関に罹るのが普通だろう。

その「体調不良」というのは、実は、精神的なものだったのだろうか。どうもそうらしい。

どのような精神状態だったのかは本人以外に知る由もない。だからここからは自分の忖度でしかないが、このタイトルのカテゴリーとして「母性」を選択した。

というのは母親である。もちろん松田聖子で、父は神田正輝。二人の間に1986年に生まれているのだが、沙也加が11歳の1997年に両親は離婚した。

そして翌年、母の松田聖子は歯科医と結婚してしまう。

神田沙也加が神田姓を捨てなかったことからすれば、沙也加の親権は神田正輝の方にあった。

つまり沙也加にしてみれば、父と離婚してすぐに別の男と結婚したわけで、「私は(父とともに)母から捨てられた」という心理的な空虚感に襲われたに違いない。11歳から12歳というまさに思春期の入り口に当たる時期であったことも大きかったろう。

この辺りの詳しい経緯も推測だが、もし松田聖子が親権を取って沙也加を引き取っていたとすれば、沙也加は神田沙也加ではなく「蒲池(かまち)沙也加」となっていたはずである。(※蒲池姓は松田聖子の本姓で、松田聖子の本名は蒲池法子。蒲池一族は福岡県久留米市の武家としては名族だそうである。)

彼女にとってこの空虚感がどうもずっと尾を引いていたような気がする。

彼女が女優・歌手として15,6歳でデビューし、ある程度名声を博し始めてから、あの松田聖子の娘として母親と一緒に芸能活動をすることが多くなったのだが、いつも松田聖子の笑顔ばかりが目立っており、娘の沙也加は何となく目が笑っていない気がしていた。

性格の違いと言えば違いなのだろう。よく母娘が並ぶと姉妹のようだ言われる親子があるが、聖子と沙也加の母娘の場合は、沙也加の方が姉で聖子の方は妹的に見えて仕方がなかった。

「親ガチャ」という最近の流行語があるが、「自分では選べない親」の世帯環境(収入などもろもろの属性)によって子供の成育に厳然とした差別があるということ。このことを差別された方の子供世代が自虐的にそう言っている。

しかし「親ガチャ」のこの「親」は通常の親で、生まれてから一度も離婚していない親を指していると思う。

ところが神田沙也加の場合、「親ガチャ」的には収入もあり、豪邸もあり、多分、祖父母も揃っており、家庭環境的には最高の部類に属している。「親ガチャ」の言い出しっぺからすれば、「そんなに恵まれているのになぜ?」と開いた口が塞がらないだろう。

そこには松田聖子の「母性の躓き」があったのだ。子供にとって最も母性が必要なのは幼児期だが、次に必要なのが特に女の子にとっては思春期の入り口ではないか。

女性への目覚めの時期は、その女性のモデルとして最も身近な存在である母親が必要なのである。

今度の神田沙也加の「自死事件」はそのことを訴えかけているように思われてならない。

(追記)

ネットで調べると、神田正輝の生年月日は1950年12月21日(71歳)、松田聖子、1962年3月10日(59歳)、神田沙也加、1986年10月1日、と、三人とも寅年である。ちょっと驚かされた。「トラ・トラ・トラ」、全部、来年が年男・年女ではないか。「自死事件」と直接の関係はないが・・・。

崇神東征ー北部九州「大倭」の東征(邪馬台国関連㉘)

2021-12-20 18:32:06 | 邪馬台国関連
12月19日(日)に東地区学習センターで史話の会12月例会を開催した。今回はテキストである『邪馬台国真論』の224ページから240ページを解説した。

さて、南九州からの「東征」は実は南九州投馬国の東征であり、その主体は神武天皇の長男とされているタギシミミ本人の「東征」であった――というのが『邪馬台国真論』の結論である。

ところが、南九州投馬国の王であったタギシミミが大和に入り「橿原王朝」を開いたのだが、こんなのはすべて造作である。つまり史実ではない――とするのが今日の古代史学である。

その神武東征を全くの創作だ、と考える日本古代史の学者たちは、古文書等の解釈を踏まえ、南九州には王権に反抗する勢力、すなわちクマソ及び隼人という化外の民しかいなかったと説く。

ナンセンスも甚だしい。南九州が「化外の民の集団」という認識が始まったのは記紀を編集し始めた7世紀後半の天武天皇時代で、その前の斉明天皇及び天智天皇の時に、朝鮮半島の権益をめぐって「唐・新羅連合軍」と戦い、白村江の戦役で海戦を担った南九州の鴨族や北部九州の安曇族、宗像族がその勢力を失ったからなのだ。

つまり、まさに「敗戦の将、多くを語らず」という事態になったのである。日本書紀はこのコンセプトで書かれたと言ってよい。

さて、南九州投馬国の王であったタギシミミが東遷を果たして大和中枢に橿原王朝を築いた後に、北部九州からやって来た王権があった。それが第10代天皇の崇神であった。

崇神天皇の和風諡号「ミマキイリヒコイソニヱ」が示しているように、崇神天皇の本貫の地は「イソ」すなわち「五十」で表される北部九州の糸島であった(仲哀天皇紀および筑前風土記逸文)。

この崇神王権が北部九州の糸島にやって来る前は、半島の辰韓に王権を築いていた「辰王」であった(魏志韓伝の「辰韓条」)。

ところが、西暦240年代に大陸の魏王朝が半島に置いていた植民地「帯方郡」を拠点に半島南部を掌握しようと食指を伸ばし始めたので、それに危機感を抱いた辰韓王(辰王)はついに半島を離れ、北部九州の「五十(いそ)地方」(仲哀天皇紀及び筑前風土記逸文)こと糸島に王宮を移したのであった。その時の辰王王権の当主は第7代天皇とされている「孝霊天皇」だった。

半島を完全に離れ、糸島を根拠地にして王権を拡充したのが、第8代「孝元天皇」そして第9代「開化天皇」の兄弟だったのである。

開化天皇の王宮は「春日の率川(いそかわ)宮」であったが、「春日」も「五十川」も福岡県福岡地域に実在している。

しかし邪馬台国女王ヒミコが死んだ西暦247年の頃は半島に魏の大将軍・司馬懿が虎視眈々と隙あらば半島南部を席巻しようかという時代であった。万が一とはいえ、司馬将軍は半島からさらに対馬・壱岐を通って北部九州にまで矛先を向けかねない。そのため半島を離れてせっかく北部九州糸島に王宮を構えたのだが、さらに王宮を列島の中央に移そうと考えたのが崇神であった。

その結果、北部九州からの「東征」が敢行され、南九州からの大和への「東征」が16年余りかかったのに対して、わずか3年余りで大和中央に到り、南九州からの後裔である橿原王朝に代わって大和王権を継いだのである。

以上が北部九州からの「崇神東征」の中身で、崇神王権は垂仁天皇、景行天皇を経て第13代の成務天皇まで続くことになる。

(※北部九州は渡来して来た「辰王」(辰韓王)を中心に発展・糾合し、「大倭」すなわち北部九州倭人連合を形成したと考えられる。したがって崇神東征とは「大倭東征」であり、東征後に「大倭」は「大和」という地名の基になったのであろう。)



今冬初の氷点下を記録(2021.12.19)

2021-12-19 23:38:20 | おおすみの風景
今朝の最低気温がついに氷点下を下回った。

鹿児島気象台の発表では「氷点下1.8℃」だったが、我が家の方ではそこまでは下がらず、1℃位だったようだ。

愛犬ウメを連れて朝7時前に散歩に出たのだが、意外にも、多くの畑に霜は降りていなかった。

ただ前日にトラクターで耕した畑では、水分の多い表層より下の畑土が表面に出てくるので湿度が高く、氷点下では容易に氷結する。そういう畑では霜で真っ白になっていた。

大隅地域では霜は降っても雪が降ることは滅多にない。

薩摩半島側では西に東シナ海を控えており、北西の冷たい風が吹きつける冬季にはよく雪が舞う。

紫尾山という北薩の名峰は1000mほどの山だが、大陸から寒波がやって来ると必ず冠雪し、新聞報道には写真とともに載ることがあり、師走の風物詩の感がある。

昼になっても気温は上がらず、7℃くらいしか上がらなかったので、昼前に出かけた「吾平温泉センター」は結構な数の入浴者だった。

やはり寒いのに違いない。午前中の入浴者はほとんどが「年間パスポート」のようなものを持っており、番台には「よう!」と手を上げて風呂場に入っていく。

銭湯が社交の場となっているとは言い難いが、ともに同じ湯につかり、汗を流したという共有感には独特のものがある。「誰それが最近顔を見せないよな」のような会話はソーシャルディスタンスを無視して銭湯中に広まったりする。

かくして大方の心配をよそに、長閑な午後のひとときが始まる。

(追記)

今朝(20日)の冷え込みも強かった。

氷点下にはならなかったが、夜明け前は無風で雲もほとんどなかったようで、ウメの散歩の途中、畑のほとんどに真白な霜が降りていた。


我が家の南側のイモ畑。収穫後に何度か耕耘して整地してある。朝日が昇り始め、温かみのある薄いオレンジ色が白い畑に交じった。

蘇我氏の台頭(記紀点描㉟)

2021-12-18 11:29:42 | 記紀点描
【はじめに】

古事記では第26代継体天皇(在位507~531年)の事績について、越前が出自であるということと、この天皇の時代に筑紫の君・磐井の叛乱(527~8年)に対して物部アラカビと大伴金村を派遣して磐井を殺したことが事績らしい事績であり、あとは宮殿名と皇后・妃及びその間の子供(皇子・皇女)の列挙しかない。

この記述の仕方は、後続の安閑天皇以下、古事記の記載では最後の第33代推古天皇(在位593~628年)まで、ほぼ踏襲され、まるであの「欠史八代」と言われる第2代綏靖天皇から9代開化天皇の8代の天皇に比べられる「欠史」ぶりである。

継体天皇から推古天皇まではあの「欠史八代」の数字に合わせたかのように同じ8代であり、古事記最後の推古天皇までの8代を「第2次欠史八代」と呼びたい。

さてこの「第2次欠史8代」の時代に、物部氏や大伴氏に代わって大きく勢力を伸ばしたのが「蘇我氏」である。

【蘇我氏の台頭】

記紀に蘇我氏の名が現れるのは、第8代孝元天皇の系譜においてであり、それによると蘇我氏は武内(タケシウチ)宿祢の苗裔である。

古事記「孝元天皇記」によると、孝元天皇とイカガシコメ(ウチシコメの娘)との間に生まれた「比古布都押之信(ヒコフツオシのマコト)」がヤマシタカゲヒメ(ウズヒコの妹)を娶って生まれたのが武内宿祢であった。武内宿祢は孝元天皇の孫ということになる。(※腹違いに味師内宿祢=ウマシウチ宿祢がいる。)

この武内宿祢には9人の男子が生まれており、その一人が蘇我氏の祖の「蘇我の石河宿祢」で、割注によると「蘇我臣、川邉臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣等」に岐れている。

「宣化天皇紀」の元年(536年)条には、「大伴金村大連、物部麁鹿火大連に並んで蘇我稲目宿祢が大臣に就任した」(意訳)とある。蘇我氏で最初に政府高官として登場したのが「蘇我稲目(イナメ)」であり、稲目は始祖の石河宿祢から数えて5代目の当主ということになっている。

大伴氏と物部氏がいわゆる「軍事氏族」であるのに対して、蘇我氏は大臣すなわち文官系の最高執政者として朝廷の中枢に加えられたということである。

最高執政官としての蘇我稲目は朝鮮半島に兵力を送って勢力が削がれていく大伴氏や物部氏を尻目に、地方の豪族たちの米を中心とする経済基盤に着目し、それを中央王権に貢がせるべく置かれてきた「屯倉」をより一層掌握したことで、自らの権力を強固にしている。

【屯倉の歴史と蘇我氏】

記紀に登場する最初の屯倉は、垂仁天皇の時代、大和に「来目屯倉」である(垂仁天皇27年条)。その後はずっと飛んで仁徳天皇の17年に「茨田屯倉」が置かれたとある。淀川水系の新田開発によるものであった。

また継体天皇の時に反乱を起こして成敗された筑紫君磐井の子の葛子が、朝廷に献上して罪を逃れようとした「糟屋屯倉」の話は有名である。

しかし何と言っても屯倉設置が国策となるのは安閑天皇の時代である。

安閑元年には皇后と妃の財政強化のために三か所の屯倉を定めたり、国造が罪を犯したので国を取り上げて屯倉(伊甚屯倉)としたり、武蔵国造が2派に分かれて争ったが、朝廷が支援した現国造が4か所の屯倉を献上した――などとある。

安閑天皇の2年(535年)には、ついに全国的に26か所もの屯倉設置を強行した。

筑紫国に2か所、豊国に5か所、火の国(肥前)に1か所、播磨国に2か所、備後国に5か所、婀娜(あな)国に2か所、阿波国に1か所、紀国に2か所、丹波国に1か所、尾張国に2か所、駿河国に1か所、上毛野国に1か所の26か所だが、西は筑紫(九州)から東は上毛野(群馬)まで、まさに6世紀当時の大和王権の範囲が網羅されている。

さらに次代の宣化天皇は、「筑紫は応神天皇の時代から海外(半島)との交流の要衝であり、そこには穀物の貯えが必要である」という詔を出し、阿蘇の君に茨田屯倉(難波)から、蘇我稲目に尾張国の屯倉から、物部麁鹿火に新家屯倉(伊勢)から、阿部臣に伊賀屯倉からそれぞれモミを出させ、那の津に新しく建てた「宮家(みやけ)」に搬入させている。

宮家も屯倉も同じく「みやけ」と読ませるのだが、詔勅によって建設された宮家は、単なる倉庫に近い屯倉ではなく、そこに王権から派遣された管理者が常駐し、おそらく半島との交流に備えて文官と武官を備えた施設だったと思われる。

尾張の屯倉からのコメの搬出を差配した蘇我稲目はこの後も、多くの屯倉管理を任されており、文書管理にも明るく、欽明天皇の世になっても引き続き大臣(おおおみ)に就任した。しかも娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇の第2妃として入内させている。

堅塩媛(きたしひめ)は実に7男6女を生み、そのうち橘豊日(たちばなのとよひ)皇子は用明天皇となり、豊御食炊屋(とよみけかしきや)皇女は推古天皇として即位している。稲目は二人の天皇の外祖父であり、当時の臣下としては他に並ぶ者がいない権力者に上り詰めたのであった。

大臣・蘇我稲目の強みは何と言っても屯倉という経済基盤を掌握し、それを王権と密接に結びつけたことだろう。その一方で大連の家系である大伴氏と物部氏は半島情勢の不穏化に直面しており、軍事力の消耗と保持のために勢力を削がざるを得なかった。

稲目に管理を任された屯倉は吉備国の「白猪屯倉」「児島屯倉」、紀国の「海部屯倉」、大和の「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」など多数あった(設置年代は557年から558年にかけて)。

特に巨大なのが「白猪屯倉」で、美作国大庭郡内の5つの郡を兼ねた大きさであった。この屯倉の管理者には帰化人を当てた。のちに屯倉の名を襲って白猪史(しらいのふびと)という姓を得ている。また「韓人大身狭屯倉」「高麗人小身狭屯倉」は「韓人」「高麗人」で分かるように、半島からの渡来人(亡命または捕虜)を住まわせ屯倉としたものである。

いずれにしても蘇我稲目は文官として最高の大臣であり、かつ半島からの渡来人を積極的に活用しており、これまでにはないタイプの開明な権力者であった。その極め付けが「仏教への傾倒」であったろう。

【仏教の受容と蘇我氏】

百済の聖明王(在位523~553年)から仏教(仏像と経典)が倭国に伝えられたのは西暦538年であった(「上宮聖億法王帝説」)。宣化天皇の3年のこととされる。

しかし書紀では欽明天皇の6(545)年に、聖明王から、まず「丈六(高さ1丈6尺)の仏像」が送られ、7年後の13(552)年になって「仏像・仏具・経典」が献じられたと記す。538年か552年かで仏教の渡来時期が分かれるのだが、後々の仏教の長い受容期間(廃仏毀釈までの約1300年)を思えば、ほとんど問題にはなるまい。

さて、この仏教に最初に興味を示したのが蘇我稲目であった。稲目は欽明天皇13年の10月に百済の聖明王から送られてきた「金銅製の釈迦仏と幡(はた)蓋(きぬがさ)、経典」を目の当たりにして、「西の諸国はみな敬っておりますれば、わが国もそれに従わざるを得ますまい」と仏教の受容を進言したのである。

これに反対したのが物部氏と中臣氏であった。しかし欽明天皇は「そうしたいのであれば蘇我稲目よ、試みに拝礼すべし」と稲目を支持したのであった。

天皇のお墨付きを得て稲目は早速、飛鳥の小墾田の我が家に置いて拝礼を始めた。これが日本で最初の仏像安置の家屋、のちの豊浦寺の前身であった。その後、2度も仏像は反対派の物部氏によって堀に捨てられたりしたのだが、稲目の仏教崇拝が途切れることはなかった。

稲目は欽明天皇崩御の1年前の31(570)年に死ぬのだが、後を継いだ馬子はますます仏教に傾斜し、姉の堅塩媛の産んだ用明天皇の子・厩戸皇子こと聖徳太子が仏教の大家となるに及んで共同戦線を形成し、ついに仏教反対派の重鎮・物部守屋を打倒する。用明天皇の2年、天皇が崩御したその年、西暦587年の7月のことである。

翌588年、百済から僧侶と仏舎利が届き、馬子はこれにより「法興寺」を建立した。蘇我稲目・馬子2代こそ仏教受容の先駆けであった。漢字・漢文に精通した開明政治家の面目躍如と言うべきだろうか。







芝を張る

2021-12-16 10:03:29 | 日記
足掛け4日かけて行って来た庭の芝張りがようやく終わった。

市内のキタヤマというDIYショップは大工用品から資材まで何でもそろう店だが、花苗や園芸用資材も豊富で、今回は長年の懸案だった庭の芝張り用に「ヒメ高麗芝」という品種の芝を調達した。

1平米単位で一〆めになっていて、一〆めは9枚の角切りした「泥付き芝」からなる。30平米分を買ったので、角切り芝は270枚になる。

これを広い所は一筆で約24平米、あと5平米と1平米、合計でちょうど30平米になる。

ところがそう計算通りには行かない。なぜなら庭には4個の置き石があるからである。

置き石が真四角なら問題はないが、地面の部分が丸かったり、くびれていたり、ギザギザだったりと目分量で並べていくので、やたらに隙間ができてしまうのだ。


向こうからまっすぐ伸びてきて右へ斜めに伸ばした部分が難儀だった。

この部分の面積は1.5平米ほどで、1平米分はそのままの角切り(一尺×一尺)ですんなり使えたのだが、残りの4枚は切り貼りせざるを得なかった。

何しろ不定形の石があるうえ、斜めなりに最後をきちんと一辺を直線的に仕上げなければならないのだ。

あちらの角を切り、こちらの凹みに入れ込み、と、10個所も切ったり張ったりしたろうか、ほぼ仕上がりという時になってどうしても一辺10センチほどの三角状の凹みが埋まらなかった。

そのくらい無視してもいいのだが、「画竜点睛を欠く」ということわざが頭をよぎり、向こう側のほとんど切る必要のなかった芝の一枚の角を切り取って、いや、失敬して、こちらに充填したのだった。

それじゃ、向こう側の角はどうなんだ、と言われそうだが、あちらは文字通り「四角の角」であり、むしろ切ることによって「角(廉)が取れる」ので・・・、お後がよろしいようで。

(※写真を撮っていたらぽつりぽつりと雨が落ちて来た。今日は2週間ぶりくらいの本格的な雨になりそうである。新張りの芝にとっては絶好のタイミングだ。)

※なお、この時期、雨が降ると湿度が上がるので、インフルエンザが下火になるとかいって喜んだものだが、今年も去年に続いてインフルエンザ感染は、全国的にほとんどゼロに近いという。新型コロナ唯一の「お手柄」である。