先日、鹿児島市の「邪馬台国南九州説」を標榜している会の会長さんから電話で、「10月10日に邪馬台国について話をして欲しい」と連絡を貰った。「私は南九州説ではないけれど」と返事をしたが、それでいいとのことでそろそろ資料等の準備を始めようとしていた。
そうしたら今年の1月に<邪馬台国図書館>というサイトを運営している所へ著書『邪馬台国真論』(2003年刊)を寄贈した折に、<『邪馬台国真論』の特色>というタイトルで、著書の核心的な部分の要旨を3枚のA4紙に書き綴ったものを添付して送っていたのだが、積み重なった書類の合間にそれをのコピーを見つけ、読み返してみると比較的うまくまとめてあるので、このブログに書き残しておくことにした。
<『邪馬台国真論』の特色(核心部分)について> (※若干の字句の訂正あり)
私の邪馬台国論で他の著作者と最も違うのは、伊都国の比定地です。
一般的には伊都国を「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのですが、この糸島市なら一大(壱岐)国から直接船が着けられ、何も末盧国(唐津市)で船を降りてわざわざ唐津から糸島市への海岸沿いの難路を歩く必要がないわけですよ。
しかも唐津から糸島市への行路は、倭人伝記載の方角「東南」ではなく東北ではないですか。この方角無視の解釈をしてしまったために、その後の方角はすべて南を東に変えられ、ついにははるか東の畿内に邪馬台国が否定されるという「珍説」が堂々と唱えられることになったのです。
なぜ畿内説が「珍説」かというと、邪馬台国への総行程は距離表記で「郡より女王国へは1万2千里」と書かれており、そのうち1万里は帯方郡から狗邪韓国(金海市)までの7千里、さらに朝鮮海峡を渡って末盧国(唐津市)まで3千里の合計です。ここで邪馬台国までは残りの2千里なわけだから、この時点で畿内説は考えようがありません。
さて、帯方郡から末盧国までの1万里は海路の1万里であり、この海路に要する日数は10日。なぜ海路の1万里が10日の行程なのかは、「海峡渡海千里=一日行程」説で説明できます。
狗邪韓国(金海市)から対馬までが千里、対馬から壱岐までが千里、域から唐津までが千里、とありますが、これらの距離表記では同じ千里とありますが、すべて実際の区間距離はまちまちです。それなのにすべて「水行千里」となっていますが、不思議じゃないですか?
その意味は、海峡を渡る際に実距離にかかわらず全部同じ千里なのは「一日のうちに渡り切る」つまり「海峡のど真ん中で寝てはいられない」ということです。決して実距離ではなく「朝港を漕ぎ出たら、日の沈まないうちに渡り切るという意味の千里」ということです。
ですから水行1万里は10日の行程となり、「郡より女王国まで1万2千里」のうち1万里は水行の1万里で、その所要日数は10日。
したがって、「投馬国から南、邪馬台国。女王の都する所(へは)、水行10日、陸行一月」と読まれがちなこの部分は、女王国は投馬国からではなく「帯方郡から南へ水行10日(1万里)、陸行一月(2千里)」ということ。つまり、帯方郡から船で南下し狗邪韓国を経て海峡を渡り、末盧国(唐津市)までは水行で10日(距離表記では1万里)かかり、唐津に上陸したあとは陸行(徒歩)で一月かかる所に女王国がある、ということです。
九州北岸の唐津に上陸したあとは歩いて1か月で到達する場所に邪馬台国はあるわけで、邪馬台国は九州島内に求められる国であり、畿内説の成り立つ余地は全くありません。
伊都国は「イツ国」と読むべきで、決して唐津から東北の糸島市ではなく、唐津に河口のある松浦川を東南にさかのぼった佐賀県厳木町(きうらぎ町)で、「厳木」は「イツキ」と読め、「伊都城」、つまり「伊都(イツ)の王城」の意味だろうと思われます。
伊都国の次の戸数2万戸の奴国は小城市一帯、不彌国は大和町。さらに佐賀平野を東へ横断し、筑後川を渡って南下した八女市郡域が邪馬台女王国です。そしてさらに南へ菊池川の河口に展開するもう一つの奴国は玉名市で、そこが女王国の極南界で、その南(菊池川左岸)は狗奴国の領域になります。玉名市を除く今日の熊本県とほぼ重なる国です。
次に投馬国ですが、これも私のオリジナル説で、投馬国は「不彌国から南へ水行20日」ではなく、邪馬台国が所要日数表記だったのと同様、「帯方郡から南へ水行20日」と解釈します。不彌国までの距離表記が投馬国から急に所要日数表記になる不可解もこれで解消できます。もし投馬国が不彌国の南であるのなら水行20日は距離表記では2万里になり、そうなると投馬国の位置は不彌国から南へ帯方郡から唐津市までの1万里の2倍の場所ということになり、九州島をはるかに南下した奄美大島あたりに比定するほかなく、そこに「戸数5万戸」という大国を比定することは不可能です。
このことはまた邪馬台国の位置でも同様で、もし邪馬台国が「投馬国から南へ水行10日、陸行一月」だとすると、奄美から沖縄本島あたりに渡ることになり、やはりそこに女王国とその傘下の国々21か国を比定するわけにはいきません。
また九州説でも伊都国を糸島市に比定していては女王国の位置は決まりません。南という方角を東に改変する後ろめたさが付きまとい、どれだけ悪戦苦闘しても「珍解釈」に陥るばかりです。伊都国を唐津から東南に歩いた方向に求めればすべて方角も距離表記上も無理のない比定地が姿を現すのです。
さて投馬国ですが、これを九州説では宮崎県の西都市に「妻」という地名があるためそこに比定する論者が多いのですが、西都市だけでは5万戸という大国は収まりきりません。私は西都を含む南九州全体、鹿児島県と宮崎県域を併せた領域に投馬国をもとめました。(※ここは712年までに薩摩・大隅・日向という3つの令制国に分裂しましたが、分立する以前の国は日向国で、分立後の新しい日向国と区別するために「古日向」ということがあります。)
こう比定してみると、面白い発見がありました。それは倭人伝では投馬国の「官」を「彌彌(ミミ)」といい、「副官」を「彌彌那利(ミミナリ)」といったとあり、これは「ミミナリ」を「ミミのナリ」つまり「ミミの妻」と解釈すると、投馬国では王を「ミミ」、女王を「ミミナリ」と言ったことになり、これは大発見になったと思います。
すなわち、記紀に見えるように古日向(奈良時代以前の日向)で神武天皇は皇子のタギシミミとキスミミを生み、そのうち長子のタギシミミがいわゆる「神武東征」に従って畿内大和に行ったのですが、橿原王朝樹立後に神武が現地の妻を娶って生まれたのが、「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」名が付けられているのです。これにより古日向(南九州)からの「東征」はけっしておとぎ話ではなく、史実であった可能性が浮かび上がったのです。
戦後の史学会では「日向天孫三代」及び「神武東征」は単なる神話伝説であって史学で取り上げるべきではない――と歯牙にもかけられなくなりましたが、「神武東征」とは実は「南九州投馬国による東征」と考えれば、有り得ることだという結論が得られたのです。
また倭人伝に出て来る女王国の官僚組織の1等官「伊支馬(イキマ)」を「生目」(都督)と解釈しましたが、この1等官は北部九州の糸島(旧名は五十(イソ)国)に半島の辰韓から任那を経て王権を移して来た崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニヱ)が皇子の垂仁(イキメイリヒコ・イソサチ)とともに北部九州を糾合して築き上げた「大倭(タイワ)」すなわち倭人連合から派遣されたものと考えたことも我が説の大きな特色です。
この「大倭」も南九州投馬国と同様に、大和への「東征」を果たしました。それが崇神王朝です。この崇神王権が120年余り前に大和に樹立されていた投馬国由来の橿原王権を打倒し、新たな王朝を始めました。それがいわゆる三輪王朝だったと考えています。最初に橿原王権を築いた神武が「ハツクニシラス」、新たに王権を築いた崇神も「ハツクニシラス」と和風諡号にあるのはその意味でしょう。
邪馬台国の卑弥呼の時代は、倭人伝によれば西暦180年頃から卑弥呼の死の247年までですが、南九州投馬国が「東遷」(※火山噴火などの天災による避難的な移住)をしたのが140年から150年代であり、北部九州の崇神王権「大倭」による東征は270年代。
邪馬台国の時代はちょうどこの九州からの大きなうねりの間に挟まれた時代でした。投馬国の東遷は八女邪馬台国に影響を及ぼすことはなかったのですが、大倭(北部九州倭人連合)の東征によって邪馬台国に置かれた「伊支馬(イキメ)」(都督)が大和に移ってしまうと、菊池川の南の狗奴国が侵略を開始し、ついに卑弥呼の後継のトヨ(台与)の時代には狗奴国の傘下に入ってしまった――というのが卑弥呼亡き後の邪馬台国の運命だったと考えます。
トヨは亡命を余儀なくされ、八女から九州山地を越えて豊前の宇佐地方に落ち延びたとも考えています。豊前・豊後を併せて「豊国(とよくに)」と呼ぶのもトヨ女王の亡命によるものでしょう。(※宇佐神宮に祭られている比売之神こそがトヨ?)
なお、トヨは崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメとして系譜に繰り入れられ、伊勢神宮祭祀の前身である崇神王権内の祭祀の中枢を担ったと考えられます。現伊勢神宮は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが祭祀の最適地を見出し、そこに祭ることになりますが、その宮の旧名は「伊蘇宮(イソの宮)」でした。崇神天皇が北部九州の五十(イソ=糸島市)で王権を拡充し、「大倭」を成立させ、その後大和へ東征を果たした際の地名遷移です。
(※以上が自説の邪馬台国論の核心部分)
そうしたら今年の1月に<邪馬台国図書館>というサイトを運営している所へ著書『邪馬台国真論』(2003年刊)を寄贈した折に、<『邪馬台国真論』の特色>というタイトルで、著書の核心的な部分の要旨を3枚のA4紙に書き綴ったものを添付して送っていたのだが、積み重なった書類の合間にそれをのコピーを見つけ、読み返してみると比較的うまくまとめてあるので、このブログに書き残しておくことにした。
<『邪馬台国真論』の特色(核心部分)について> (※若干の字句の訂正あり)
私の邪馬台国論で他の著作者と最も違うのは、伊都国の比定地です。
一般的には伊都国を「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのですが、この糸島市なら一大(壱岐)国から直接船が着けられ、何も末盧国(唐津市)で船を降りてわざわざ唐津から糸島市への海岸沿いの難路を歩く必要がないわけですよ。
しかも唐津から糸島市への行路は、倭人伝記載の方角「東南」ではなく東北ではないですか。この方角無視の解釈をしてしまったために、その後の方角はすべて南を東に変えられ、ついにははるか東の畿内に邪馬台国が否定されるという「珍説」が堂々と唱えられることになったのです。
なぜ畿内説が「珍説」かというと、邪馬台国への総行程は距離表記で「郡より女王国へは1万2千里」と書かれており、そのうち1万里は帯方郡から狗邪韓国(金海市)までの7千里、さらに朝鮮海峡を渡って末盧国(唐津市)まで3千里の合計です。ここで邪馬台国までは残りの2千里なわけだから、この時点で畿内説は考えようがありません。
さて、帯方郡から末盧国までの1万里は海路の1万里であり、この海路に要する日数は10日。なぜ海路の1万里が10日の行程なのかは、「海峡渡海千里=一日行程」説で説明できます。
狗邪韓国(金海市)から対馬までが千里、対馬から壱岐までが千里、域から唐津までが千里、とありますが、これらの距離表記では同じ千里とありますが、すべて実際の区間距離はまちまちです。それなのにすべて「水行千里」となっていますが、不思議じゃないですか?
その意味は、海峡を渡る際に実距離にかかわらず全部同じ千里なのは「一日のうちに渡り切る」つまり「海峡のど真ん中で寝てはいられない」ということです。決して実距離ではなく「朝港を漕ぎ出たら、日の沈まないうちに渡り切るという意味の千里」ということです。
ですから水行1万里は10日の行程となり、「郡より女王国まで1万2千里」のうち1万里は水行の1万里で、その所要日数は10日。
したがって、「投馬国から南、邪馬台国。女王の都する所(へは)、水行10日、陸行一月」と読まれがちなこの部分は、女王国は投馬国からではなく「帯方郡から南へ水行10日(1万里)、陸行一月(2千里)」ということ。つまり、帯方郡から船で南下し狗邪韓国を経て海峡を渡り、末盧国(唐津市)までは水行で10日(距離表記では1万里)かかり、唐津に上陸したあとは陸行(徒歩)で一月かかる所に女王国がある、ということです。
九州北岸の唐津に上陸したあとは歩いて1か月で到達する場所に邪馬台国はあるわけで、邪馬台国は九州島内に求められる国であり、畿内説の成り立つ余地は全くありません。
伊都国は「イツ国」と読むべきで、決して唐津から東北の糸島市ではなく、唐津に河口のある松浦川を東南にさかのぼった佐賀県厳木町(きうらぎ町)で、「厳木」は「イツキ」と読め、「伊都城」、つまり「伊都(イツ)の王城」の意味だろうと思われます。
伊都国の次の戸数2万戸の奴国は小城市一帯、不彌国は大和町。さらに佐賀平野を東へ横断し、筑後川を渡って南下した八女市郡域が邪馬台女王国です。そしてさらに南へ菊池川の河口に展開するもう一つの奴国は玉名市で、そこが女王国の極南界で、その南(菊池川左岸)は狗奴国の領域になります。玉名市を除く今日の熊本県とほぼ重なる国です。
次に投馬国ですが、これも私のオリジナル説で、投馬国は「不彌国から南へ水行20日」ではなく、邪馬台国が所要日数表記だったのと同様、「帯方郡から南へ水行20日」と解釈します。不彌国までの距離表記が投馬国から急に所要日数表記になる不可解もこれで解消できます。もし投馬国が不彌国の南であるのなら水行20日は距離表記では2万里になり、そうなると投馬国の位置は不彌国から南へ帯方郡から唐津市までの1万里の2倍の場所ということになり、九州島をはるかに南下した奄美大島あたりに比定するほかなく、そこに「戸数5万戸」という大国を比定することは不可能です。
このことはまた邪馬台国の位置でも同様で、もし邪馬台国が「投馬国から南へ水行10日、陸行一月」だとすると、奄美から沖縄本島あたりに渡ることになり、やはりそこに女王国とその傘下の国々21か国を比定するわけにはいきません。
また九州説でも伊都国を糸島市に比定していては女王国の位置は決まりません。南という方角を東に改変する後ろめたさが付きまとい、どれだけ悪戦苦闘しても「珍解釈」に陥るばかりです。伊都国を唐津から東南に歩いた方向に求めればすべて方角も距離表記上も無理のない比定地が姿を現すのです。
さて投馬国ですが、これを九州説では宮崎県の西都市に「妻」という地名があるためそこに比定する論者が多いのですが、西都市だけでは5万戸という大国は収まりきりません。私は西都を含む南九州全体、鹿児島県と宮崎県域を併せた領域に投馬国をもとめました。(※ここは712年までに薩摩・大隅・日向という3つの令制国に分裂しましたが、分立する以前の国は日向国で、分立後の新しい日向国と区別するために「古日向」ということがあります。)
こう比定してみると、面白い発見がありました。それは倭人伝では投馬国の「官」を「彌彌(ミミ)」といい、「副官」を「彌彌那利(ミミナリ)」といったとあり、これは「ミミナリ」を「ミミのナリ」つまり「ミミの妻」と解釈すると、投馬国では王を「ミミ」、女王を「ミミナリ」と言ったことになり、これは大発見になったと思います。
すなわち、記紀に見えるように古日向(奈良時代以前の日向)で神武天皇は皇子のタギシミミとキスミミを生み、そのうち長子のタギシミミがいわゆる「神武東征」に従って畿内大和に行ったのですが、橿原王朝樹立後に神武が現地の妻を娶って生まれたのが、「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」名が付けられているのです。これにより古日向(南九州)からの「東征」はけっしておとぎ話ではなく、史実であった可能性が浮かび上がったのです。
戦後の史学会では「日向天孫三代」及び「神武東征」は単なる神話伝説であって史学で取り上げるべきではない――と歯牙にもかけられなくなりましたが、「神武東征」とは実は「南九州投馬国による東征」と考えれば、有り得ることだという結論が得られたのです。
また倭人伝に出て来る女王国の官僚組織の1等官「伊支馬(イキマ)」を「生目」(都督)と解釈しましたが、この1等官は北部九州の糸島(旧名は五十(イソ)国)に半島の辰韓から任那を経て王権を移して来た崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニヱ)が皇子の垂仁(イキメイリヒコ・イソサチ)とともに北部九州を糾合して築き上げた「大倭(タイワ)」すなわち倭人連合から派遣されたものと考えたことも我が説の大きな特色です。
この「大倭」も南九州投馬国と同様に、大和への「東征」を果たしました。それが崇神王朝です。この崇神王権が120年余り前に大和に樹立されていた投馬国由来の橿原王権を打倒し、新たな王朝を始めました。それがいわゆる三輪王朝だったと考えています。最初に橿原王権を築いた神武が「ハツクニシラス」、新たに王権を築いた崇神も「ハツクニシラス」と和風諡号にあるのはその意味でしょう。
邪馬台国の卑弥呼の時代は、倭人伝によれば西暦180年頃から卑弥呼の死の247年までですが、南九州投馬国が「東遷」(※火山噴火などの天災による避難的な移住)をしたのが140年から150年代であり、北部九州の崇神王権「大倭」による東征は270年代。
邪馬台国の時代はちょうどこの九州からの大きなうねりの間に挟まれた時代でした。投馬国の東遷は八女邪馬台国に影響を及ぼすことはなかったのですが、大倭(北部九州倭人連合)の東征によって邪馬台国に置かれた「伊支馬(イキメ)」(都督)が大和に移ってしまうと、菊池川の南の狗奴国が侵略を開始し、ついに卑弥呼の後継のトヨ(台与)の時代には狗奴国の傘下に入ってしまった――というのが卑弥呼亡き後の邪馬台国の運命だったと考えます。
トヨは亡命を余儀なくされ、八女から九州山地を越えて豊前の宇佐地方に落ち延びたとも考えています。豊前・豊後を併せて「豊国(とよくに)」と呼ぶのもトヨ女王の亡命によるものでしょう。(※宇佐神宮に祭られている比売之神こそがトヨ?)
なお、トヨは崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメとして系譜に繰り入れられ、伊勢神宮祭祀の前身である崇神王権内の祭祀の中枢を担ったと考えられます。現伊勢神宮は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが祭祀の最適地を見出し、そこに祭ることになりますが、その宮の旧名は「伊蘇宮(イソの宮)」でした。崇神天皇が北部九州の五十(イソ=糸島市)で王権を拡充し、「大倭」を成立させ、その後大和へ東征を果たした際の地名遷移です。
(※以上が自説の邪馬台国論の核心部分)