鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

『邪馬台国真論』の核心部分

2022-09-22 20:04:13 | 邪馬台国関連
先日、鹿児島市の「邪馬台国南九州説」を標榜している会の会長さんから電話で、「10月10日に邪馬台国について話をして欲しい」と連絡を貰った。「私は南九州説ではないけれど」と返事をしたが、それでいいとのことでそろそろ資料等の準備を始めようとしていた。

そうしたら今年の1月に<邪馬台国図書館>というサイトを運営している所へ著書『邪馬台国真論』(2003年刊)を寄贈した折に、<『邪馬台国真論』の特色>というタイトルで、著書の核心的な部分の要旨を3枚のA4紙に書き綴ったものを添付して送っていたのだが、積み重なった書類の合間にそれをのコピーを見つけ、読み返してみると比較的うまくまとめてあるので、このブログに書き残しておくことにした。


<『邪馬台国真論』の特色(核心部分)について> (※若干の字句の訂正あり)

私の邪馬台国論で他の著作者と最も違うのは、伊都国の比定地です。

一般的には伊都国を「いとこく」と読んで、福岡県糸島市に比定するのですが、この糸島市なら一大(壱岐)国から直接船が着けられ、何も末盧国(唐津市)で船を降りてわざわざ唐津から糸島市への海岸沿いの難路を歩く必要がないわけですよ。

しかも唐津から糸島市への行路は、倭人伝記載の方角「東南」ではなく東北ではないですか。この方角無視の解釈をしてしまったために、その後の方角はすべて南を東に変えられ、ついにははるか東の畿内に邪馬台国が否定されるという「珍説」が堂々と唱えられることになったのです。

なぜ畿内説が「珍説」かというと、邪馬台国への総行程は距離表記で「郡より女王国へは1万2千里」と書かれており、そのうち1万里は帯方郡から狗邪韓国(金海市)までの7千里、さらに朝鮮海峡を渡って末盧国(唐津市)まで3千里の合計です。ここで邪馬台国までは残りの2千里なわけだから、この時点で畿内説は考えようがありません。

さて、帯方郡から末盧国までの1万里は海路の1万里であり、この海路に要する日数は10日。なぜ海路の1万里が10日の行程なのかは、「海峡渡海千里=一日行程」説で説明できます。

狗邪韓国(金海市)から対馬までが千里、対馬から壱岐までが千里、域から唐津までが千里、とありますが、これらの距離表記では同じ千里とありますが、すべて実際の区間距離はまちまちです。それなのにすべて「水行千里」となっていますが、不思議じゃないですか?

その意味は、海峡を渡る際に実距離にかかわらず全部同じ千里なのは「一日のうちに渡り切る」つまり「海峡のど真ん中で寝てはいられない」ということです。決して実距離ではなく「朝港を漕ぎ出たら、日の沈まないうちに渡り切るという意味の千里」ということです。

ですから水行1万里は10日の行程となり、「郡より女王国まで1万2千里」のうち1万里は水行の1万里で、その所要日数は10日。

したがって、「投馬国から南、邪馬台国。女王の都する所(へは)、水行10日、陸行一月」と読まれがちなこの部分は、女王国は投馬国からではなく「帯方郡から南へ水行10日(1万里)、陸行一月(2千里)」ということ。つまり、帯方郡から船で南下し狗邪韓国を経て海峡を渡り、末盧国(唐津市)までは水行で10日(距離表記では1万里)かかり、唐津に上陸したあとは陸行(徒歩)で一月かかる所に女王国がある、ということです。

九州北岸の唐津に上陸したあとは歩いて1か月で到達する場所に邪馬台国はあるわけで、邪馬台国は九州島内に求められる国であり、畿内説の成り立つ余地は全くありません。

伊都国は「イツ国」と読むべきで、決して唐津から東北の糸島市ではなく、唐津に河口のある松浦川を東南にさかのぼった佐賀県厳木町(きうらぎ町)で、「厳木」は「イツキ」と読め、「伊都城」、つまり「伊都(イツ)の王城」の意味だろうと思われます。

伊都国の次の戸数2万戸の奴国は小城市一帯、不彌国は大和町。さらに佐賀平野を東へ横断し、筑後川を渡って南下した八女市郡域が邪馬台女王国です。そしてさらに南へ菊池川の河口に展開するもう一つの奴国は玉名市で、そこが女王国の極南界で、その南(菊池川左岸)は狗奴国の領域になります。玉名市を除く今日の熊本県とほぼ重なる国です。

次に投馬国ですが、これも私のオリジナル説で、投馬国は「不彌国から南へ水行20日」ではなく、邪馬台国が所要日数表記だったのと同様、「帯方郡から南へ水行20日」と解釈します。不彌国までの距離表記が投馬国から急に所要日数表記になる不可解もこれで解消できます。もし投馬国が不彌国の南であるのなら水行20日は距離表記では2万里になり、そうなると投馬国の位置は不彌国から南へ帯方郡から唐津市までの1万里の2倍の場所ということになり、九州島をはるかに南下した奄美大島あたりに比定するほかなく、そこに「戸数5万戸」という大国を比定することは不可能です。

このことはまた邪馬台国の位置でも同様で、もし邪馬台国が「投馬国から南へ水行10日、陸行一月」だとすると、奄美から沖縄本島あたりに渡ることになり、やはりそこに女王国とその傘下の国々21か国を比定するわけにはいきません。

また九州説でも伊都国を糸島市に比定していては女王国の位置は決まりません。南という方角を東に改変する後ろめたさが付きまとい、どれだけ悪戦苦闘しても「珍解釈」に陥るばかりです。伊都国を唐津から東南に歩いた方向に求めればすべて方角も距離表記上も無理のない比定地が姿を現すのです。

さて投馬国ですが、これを九州説では宮崎県の西都市に「妻」という地名があるためそこに比定する論者が多いのですが、西都市だけでは5万戸という大国は収まりきりません。私は西都を含む南九州全体、鹿児島県と宮崎県域を併せた領域に投馬国をもとめました。(※ここは712年までに薩摩・大隅・日向という3つの令制国に分裂しましたが、分立する以前の国は日向国で、分立後の新しい日向国と区別するために「古日向」ということがあります。)

こう比定してみると、面白い発見がありました。それは倭人伝では投馬国の「官」を「彌彌(ミミ)」といい、「副官」を「彌彌那利(ミミナリ)」といったとあり、これは「ミミナリ」を「ミミのナリ」つまり「ミミの妻」と解釈すると、投馬国では王を「ミミ」、女王を「ミミナリ」と言ったことになり、これは大発見になったと思います。

すなわち、記紀に見えるように古日向(奈良時代以前の日向)で神武天皇は皇子のタギシミミとキスミミを生み、そのうち長子のタギシミミがいわゆる「神武東征」に従って畿内大和に行ったのですが、橿原王朝樹立後に神武が現地の妻を娶って生まれたのが、「カムヤイミミ」「カムヌマカワミミ」と「ミミ」名が付けられているのです。これにより古日向(南九州)からの「東征」はけっしておとぎ話ではなく、史実であった可能性が浮かび上がったのです。

戦後の史学会では「日向天孫三代」及び「神武東征」は単なる神話伝説であって史学で取り上げるべきではない――と歯牙にもかけられなくなりましたが、「神武東征」とは実は「南九州投馬国による東征」と考えれば、有り得ることだという結論が得られたのです。

また倭人伝に出て来る女王国の官僚組織の1等官「伊支馬(イキマ)」を「生目」(都督)と解釈しましたが、この1等官は北部九州の糸島(旧名は五十(イソ)国)に半島の辰韓から任那を経て王権を移して来た崇神天皇(ミマキイリヒコ・イソニヱ)が皇子の垂仁(イキメイリヒコ・イソサチ)とともに北部九州を糾合して築き上げた「大倭(タイワ)」すなわち倭人連合から派遣されたものと考えたことも我が説の大きな特色です。

この「大倭」も南九州投馬国と同様に、大和への「東征」を果たしました。それが崇神王朝です。この崇神王権が120年余り前に大和に樹立されていた投馬国由来の橿原王権を打倒し、新たな王朝を始めました。それがいわゆる三輪王朝だったと考えています。最初に橿原王権を築いた神武が「ハツクニシラス」、新たに王権を築いた崇神も「ハツクニシラス」と和風諡号にあるのはその意味でしょう。

邪馬台国の卑弥呼の時代は、倭人伝によれば西暦180年頃から卑弥呼の死の247年までですが、南九州投馬国が「東遷」(※火山噴火などの天災による避難的な移住)をしたのが140年から150年代であり、北部九州の崇神王権「大倭」による東征は270年代。

邪馬台国の時代はちょうどこの九州からの大きなうねりの間に挟まれた時代でした。投馬国の東遷は八女邪馬台国に影響を及ぼすことはなかったのですが、大倭(北部九州倭人連合)の東征によって邪馬台国に置かれた「伊支馬(イキメ)」(都督)が大和に移ってしまうと、菊池川の南の狗奴国が侵略を開始し、ついに卑弥呼の後継のトヨ(台与)の時代には狗奴国の傘下に入ってしまった――というのが卑弥呼亡き後の邪馬台国の運命だったと考えます。

トヨは亡命を余儀なくされ、八女から九州山地を越えて豊前の宇佐地方に落ち延びたとも考えています。豊前・豊後を併せて「豊国(とよくに)」と呼ぶのもトヨ女王の亡命によるものでしょう。(※宇佐神宮に祭られている比売之神こそがトヨ?)

なお、トヨは崇神天皇の皇女トヨスキイリヒメとして系譜に繰り入れられ、伊勢神宮祭祀の前身である崇神王権内の祭祀の中枢を担ったと考えられます。現伊勢神宮は垂仁天皇の皇女ヤマトヒメが祭祀の最適地を見出し、そこに祭ることになりますが、その宮の旧名は「伊蘇宮(イソの宮)」でした。崇神天皇が北部九州の五十(イソ=糸島市)で王権を拡充し、「大倭」を成立させ、その後大和へ東征を果たした際の地名遷移です。

(※以上が自説の邪馬台国論の核心部分)


まる二日の停電(台風14号襲来)

2022-09-20 20:32:07 | おおすみの風景
今日の午後6時ちょうど、突然、家の中の電気が点いた。丸々二日間の停電がようやく終わったのだ。

台風14号が屋久島近海から北上し、大隅半島にもっとも近くなったと思われる一昨日の午後4時台のごうごうという横殴りの雨風を居間のガラス越しに見ていたら、5時前になって突如停電が始まったのだった。

その日は4時頃になって大相撲を観ようとNHKのチャンネルにしたのだが、ずっと台風関係の報道に終始しており、それはそれで聞きながら、大相撲が始まるのを今か今かと待っているうちに、家の中の電気がすべて消えた。

灯りを探し出してから家の雨戸全部を閉め、早い夕飯を食べてから、CD兼用の携帯ラジオに乾電池を入れ、7時過ぎにはベッドに横になった。

横になりながら聞いていたニュースで、台風は夜7時頃、鹿児島市内に上陸したと言っていたとあり、ちょっと驚いた。もう少し西の南九州市(頴娃町・知覧町)か枕崎市あたりかと思っていたからだ。直接鹿児島市に上陸した台風はこれまで聞いたことがない。

台風の北上する速度は20キロであったから、逆算すると3時間前の最も風の強かった午後4時台は、間違いなく鹿屋市に最接近していたことになる。鹿屋市の瞬間最大風速の発表はなかったが、おそらく時速50mは行っていただろう。

これでも平成5年(1993年)9月の台風13号の60mよりは10m少ない。最大瞬間風速60mというのは屋根の瓦を飛ばす速さだ。60mを経験しなくてよかったと胸をなでおろした。

昨日明るくなってから雨風は小康状態になっていたので、ウメを散歩に連れて出てみたが、わが家にも周辺の家々にも被害はなかった。ただ植木の枝が折れたり、咲いていた花の花弁が吹き飛ばされてはいた。

その程度で済んだことにホッとした。

昨日も一日中停電だったので、ほぼスマホのユーチューブとジオを聞いて過ごした。明るい日中は本でも読めると思っていたのだが、読めるのは新聞くらいで、停電が早く復旧しないかと気もそぞろになっていて、意外とまともに読むことはできなかった。

また就寝が7時という高齢者施設並みの就寝時間だったが、ハンディ型の蛍光灯を傍においてラジオやらCDやらを聞きながら寝入ったが、夜中は3回も目が覚める始末で、そのたびにトイレに入った(※トイレは電気式の流水だが、ハンド型も予備に設置してあり、困ることはなかった)。

そして今朝。何とも涼しい朝だった。

6時に起きるとすぐにウメを連れて散歩に出たが、近所のどの家にも明かりはなく、静まり返っていた。

しかしちょうど東の空から大きな太陽が顔を出すところで、台風を無事にやりすごした有難みを感謝することだった。

快晴になったので、庭に散乱した柿の実や枝葉をかき集めたが、さほどではなく、それでも汗をかいたので近くの温泉に行くことにした。

よく出かける吾平町の温泉に電話するも不通、もう少し遠くの高山温泉に伝はするがやはり不通であった。どうやら我が家のある地区と同じく停電のようだった(※吾平町と高山町は同じ配電線でつながっているようだ)。

さらにもう少し遠くの串良温泉に電話したら営業しているというので行くことにした。13キロ先、車で25分ほどの所だが、背に腹は代えられない。

帰って来て早い晩酌を摂りながら、今日もラジオで大相撲を観戦(聴戦?)したのだが、ラジオの大相撲実況中継をこの3日間聞きながら感心するのは、実況担当アナウンサーの滑舌と解説の大変なことだ。

両力士の動きを逐一言葉に載せる上に、その合間に解説者とのやり取りがあり、終わってからも両力士の取組結果の解説と明日以降の取り組みの見通しなどをすらすらと話すのだ。よほど滑舌よく、また記憶力も必要で、頭の回転も速くないと務まらないだろう。

今日も大関陣が総崩れで、これで3日間続いたのだが、大相撲始まって以来の椿事だそうで、解説者の元小結・舞の海も、実況担当のアナウンサーにそう教えられてさすがに最初の一言が出なかった。舞の海ならずとも唖然とするほかない。


台風特別警報が発令

2022-09-18 10:29:38 | おおすみの風景
今朝早く鹿児島県に特別警報が発令された。九州では初めてだという。

今朝6時の段階では、台風14号は南大東島の西海上を通過し、奄美大島の一部をが暴風域に入っていた。

中心の気圧は910ヘクトパスカル、40メートル以上の暴風が吹き荒れ、最大75メートルに達するというから恐ろしい。気象庁では「これまでで最も危険な台風」と発表している。

ここ鹿屋でも8時頃から横殴りの風と雨になって来た。

10時現在の今はそれがさらに強くなってきている。ニュースでは鹿児島市や志布志市で40mの瞬間最大風速を記録したとあるから、鹿屋でも最大40mは吹いただろう。平均して30mくらいの風は間違いなく吹いている。

玄関を開けて庭の木々の様子を見ると、強い東寄りの風にあおられて幹や枝が吹き飛ばされそうにしなっている。

台風の北進の速度は時速20キロで、正午頃には屋久島と種子島を暴風域に巻き込んで通過し、3時間後の午後3時頃には薩摩半島南端の枕崎か坊津あたりに上陸しそうだという。

そして、同じ20キロ程度の速度で若干東寄りに九州の西岸部を進み、有明海から福岡県方面に再上陸したあと、大きく東に進路を変えて中国地方に抜ける予想だ。

例年の9月の台風だと屋久島あたりを過ぎたら黒潮ルートに乗り、そこで東向きに進路を変えるのだが、近年は海水温が東シナ海でも高めで、台風がそのエネルギーを貰いつつそのまま北上するケースが多い。そのためこれまででは考えられなかった九州北部への上陸というのが増えている。

例年と言っても、もう例年が例年でなくなってから久しい。

自分の記憶で「例年の9月の台風」の典型だったのが、平成5年9月3日の台風13号である。

この台風は屋久島方面から北に向かって薩摩半島の頴娃町の海岸部に上陸した時点で930ヘクトパスカル(当時はミリバールと言った)で猛烈な強さだったのだが、上陸後は東に向きを変え、指宿から錦江湾を通過して大隅半島に再上陸し、志布志湾に抜けて行った。

上陸後の最大瞬間風速は70mまで行ったのだが、幸いなことに進行速度が速かったため、家々の屋根瓦を吹き飛ばし、電柱や高圧線の鉄塔をひしゃげただけで通り過ぎて行ったので、この台風による死者はなかった。

むしろ台風一過後の電気と電話の期間の長い不通に困ったのが記憶に残る。

その後約30年の間、台風13号に匹敵するような台風は全くなく、とくにここ10年くらいは鹿児島県へ直接上陸したという台風ははほぼなかった。

暖流の黒潮ルートが本土の南から東へ流れる鹿児島県はかつて「台風銀座」と呼ばれるほど毎年秋の台風被害にさらされて来たのだが、今や銀座ではなくなった。歓迎されはしないが、少し寂しいという人もいる。「みんな大変なんだ。お互い様だ」という災害時共通の寄り添い合う心遣いが稀になったからだろう。

災害は最小限であって欲しいが、これを書いている11時頃、一時的に停電があったから、最接近する午後2時か3時頃には大規模な停電が発生してもおかしくない。

台風14号の無事の通過を願うのみ。

角川(KADOKAWA)よ、お前もか!

2022-09-17 14:54:39 | 日本の時事風景
東京オリンピックをめぐる利権体質は止まる所を知らない。

オリンピックの公式スポンサー契約に関する広告会社電通出身の高橋某への「献金指向」は、文化出版企業のKADOKAWAをも汚染していたという。

電通時代に知己を広めた高橋某が退職後に始めたコンサルティング会社のロビー活動によって、東京オリンピックのスポンサー利権が特定の企業に行き渡り、それに対する仲介手数料がわんさか集められた。そのほとんどは東京地検特捜部によってワイロとして認定されたようだ。

今朝の新聞報道によると、高橋容疑者が35人在籍していたオリンピック委員会の理事に就任した経緯を、オリンピック招致委員会会長で、東京大会の組織委員会副会長だった竹田恒和氏を読んで特捜部が聴取したという。

竹田恒和氏といえば招致委員会会長だった時に、IOC(国際オリンピック委員会)の理事に東京を選ぶよう資金を提供した件でフランス当局から訴追されている。

また、東京オリンピック大会組織委員会会長だった森喜朗元首相も参考人聴取を受けている。森氏が会長、竹田氏が副会長だった時だから理事の人選の最終決定者であったから当然のことだろう。

KADOKAWAがスポンサー契約を結んだのは、純粋な広告というよりやはり利権がらみであった。その内容は東京オリンピックのガイドブックをメインとするガイド本の出版利権であった。

この出版販売額がどれだけであったかの発表はないが、少なくとも高橋容疑者側に渡されたワイロ7600万円よりは高額だったのだろう。ただ、KADOKAWA側としては、さほどの利益にならなくても、公式のサポーターになったという栄誉がわが社の広告になるわけで、7600万は安い経費だったと言えるだろう。

それにしてもオリンピックをめぐる利権構造にはうんざりする。これでは「アマチュアスポーツの祭典」の名が廃る。

そもそもこのようなスポンサーが幅を利かせるようになったのは、1984年に開催されたアメリカのロサンゼルス大会からだ。

アメリカのスポーツは初めから「興行」だったと言える。つまりプロスポーツであり、選手を契約で仕入れ、彼らを戦わせる姿を観客に見せて入場料を取るのが興行で、そこにはほとんどアマチュアの影はない。日本が高校でのアマチュア競技から格上げしてプロになるのとはかなり違うのだ。

ロサンゼルス大会ではスポンサー契約とともにメディアの「放映権」が高額で販売され、その収入によって公的資金が最少に抑えられた。この成功体験がこのあとのオリンピックにも徐々に浸透し、今やメディアの放映権料なくしては成り立たないような巨大利権大会になってしまった。

今度の東京オリンピック大会でも見られた「真夏の炎天下のマラソン競技」も、アメリカメディアの巨大利権が気候の良い秋に大会を開くことを拒んだ結果である。何というスポーツへの冒涜だろうか。

彼らにとって秋はプロフットボール、プロ野球、プロバスケットなどプロスポーツの放映とそれによる広告収入の書き入れ時なのである。金のためならアマチュアスポーツなんてクソくらえなのだ。

このような利権構造を追認しているIOCもIOCだが、今度の東京オリンピックにかかわる利権がらみの事件はこのようなアメリカ発祥のメディア利権に毒された結果である。

そこにあの出版大手の文化企業KADOKAWAが入っていたとは驚きだ。文化が金儲けの文明(※文鮮明ではない!)によって浸食されてしまったとしか言いようがない。

アマチュアスポーツの祭典オリンピックは、今後、発祥の地ギリシャのアテネで常時開催してもらいたいものだ。IOCおよびメディアの利権構造なし、ステートアマなし、のすがすがしいアスリートたちの競技を観ようと世界中から観光客が集まり、衰退久しいギリシャもよみがえるに違いない。

こども家庭庁の設置

2022-09-16 21:08:16 | 日本の時事風景
来年の4月に新しい官庁が生まれる。「こども家庭庁」である。

去年の暮れに閣議決定され、今年の6月に「こども家庭庁設置法」が成立している。特命担当大臣は野田聖子衆議院議員。

野田特命担当大臣は岐阜県議会議員を経て自民党衆議院議員に当選し、若くして郵政大臣など顕職を歴任している。

総裁候補にも何度か名乗りを上げたことで有名だが、自民党内では一つ年下で奈良県選出の高市早苗の方に人気がある。

10数年前に結婚した夫が元暴力団員だったという週刊誌のスクープがあり、これに対して夫が名誉棄損で裁判を起こしたが、結局、暴力団関係者だったことは事実だったようだ。

何の因果で、そのようなかつて「反社」に属していた男と結婚したのかは、本人以外には分からない。

この人が来年に開設される「こども家庭庁」の長官になるのかどうかは岸田首相の胸先三寸だが、おそらく初代長官になるのではないだろうか。

ところでこの「こども家庭庁」は最初、「家庭庁」だけのネーミングだったのだが、「こども」を付け加えたのは、高齢出産かつ障害を持った子の母親としての野田議員に負うところが大きかったのかもしれない。

「家庭庁」だけだと、あの旧統一教会の現在の宗教法人名「世界平和統一家庭連合」(略称:家庭連合)とのダブり感が強い。そこで「こども」を付加すればダブり感の疑念はかなり薄らぐ。

この旧統一教会も1980年代から1990年代にかけて、いわゆる霊感商法という詐欺的な「反社」行為を行っており、それゆえひそかにオウム真理教の壊滅後は、公安からマークされていたと聞く。

「反社」だった配偶者を持つ議員が、「反社」の行為を行っていた「家庭連合」に倣ったかのような「こども家庭庁」を率いる長官になるとしたら、ちょっと出来過ぎかなと思う。

もちろん今のところ野田聖子氏と旧統一教会との関係は無いようだが、若くして女性議員のトップを行き、何度も自民党総裁選に打って出ようとする姿のバックに影がチラついていないか。

それが杞憂ならそれに越したことはないが、昨今の自民党は、こと旧統一教会に関しては全く信用ができない感じだ。

それでも野田聖子特命担当大臣の言う「子どもどまんなか」(子どもファースト)の考え方は大賛成である。

ただし、くれぐれも途中で「こども統一家庭庁」なんて名称変更の無いように願いたい。