鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

広田遺跡の変形頭骨

2023-10-17 21:20:43 | 古日向の謎

昨日の新聞だが、鹿児島県の有名な遺跡である種子島の南種子町には弥生時代から古墳時代にかけての広田遺跡があり、そこで発見されていた100体以上の人骨を先端技術の画像で再現したところ、それら頭蓋骨の特徴が明らかになった、という。

この遺跡に眠る集団は頭蓋骨を変形させており、同時期の弥生時代人骨と比べて明らかに大きな違いがある。

変形の仕方は明らかではないが、後頭部が絶壁のようになり、頭蓋骨そのものにも窪んだような跡があるそうだ。

3Dスキャンで立体的な画像に再現した九州大学の研究者は、「男女を問わず、赤ん坊の頃から頭に何かを巻いていたと考えられる。集団のアイデンティティーを示すためではないか」と言っている。

形質人類学では上の段の山口県出土の弥生人の頭蓋骨は「長頭」(前後に長い)に属すとし、下段の広田出土の頭蓋骨は縄文人に多い「短頭」のタイプだとしている。

縄文人はもともと広田遺跡の人骨ほどではないが、短頭に属するとされており、弥生時代から古墳時代になって長頭化が顕著になったというのが形質人類学の結論である。

その違いは何故なのかに関しては、弥生人の多くが半島由来の集団であり、彼らが長頭であったがゆえに、縄文人と混血をしたあとも、長頭の遺伝子が強く働いたのではないだろうか。

というのは魏志韓伝の「辰韓人」について彼らの風習の中で、次のような変わった習俗が見られると書いてあるのだ。

<児を生むや、すなわち石を以てその頭を圧す。その褊(ヘン=狭い)なるを欲すればなり。今、辰韓人みな褊頭(ヘントウ)なり。男女倭に近く、また文身せり。>

(訳)赤ん坊が生まれるとすぐに石を頭に押し当てるが、頭の幅を狭くする習俗なのである。狭い方がいいというのだ。たしかに辰韓人はみな頭の幅が狭い。彼らは倭人に近い集団である。文身(入れ墨)も施している。

辰韓人のこの習俗が列島の弥生人や古墳人に取り入れられたという証拠はないが、遺伝的な影響を受けた可能性は高いと思われる。

それでは広田遺跡の極端な「短頭」集団はどうして生まれたのか。これについての文献はないから、推測するしかないが、上の研究で明らかになったように、何らかの後頭部への圧迫が習俗としてあったのは間違いないだろう。

ただその理由がはっきりしない。単に他の集団と区別するためのアイデンティティー確保のための短頭化なのだろうか。

広田遺跡は砂丘の上にあったという。しかも遺跡からは有名な「貝符(かいふ)」が多数見つかっている。他にもイモガイ製の腕輪があるから、彼らの集団はいわゆる「海人」であり、南海産の貝を求めて船で縦横に往来していたのだろう。

南海産の貝殻は薩摩半島の金峰町に所在する高橋貝塚でも多数が見つかっており、しかもそこでは加工がなされていたようである。

これらの結びつきはもちろん文献では確認できないが、船のルートによれば比較的たやすく行き来ができるから、繋がりが無いと決めることはできない。

また人骨の身長は150センチメートル内外と低身長であるという。このことから思い出したのだが、魏志韓伝に戻ると、三韓人とは異質なタイプの島人がいるという記事がある。

<三韓の中の馬韓の海の中に大きな島があり、そこに住む「州胡」(島の蛮人、と貶めた言い方)は短躯であり、話す言葉が馬韓人とは違う。頭髪を剃ってしまい、鮮卑のようである。好んで牛と猪を飼いならす。(中略)船に乗って往来し、韓の中に行って物を売り買いしている。>

という集団がいた。この集団は具体的には済州島の住民だが、「短躯」(低身長)といい、「船で往来している」といい、広田遺跡人を彷彿とさせる。

済州島の同時代人の遺骨が発掘されればはっきりするのだが、今のところ見つかっていない。しかし同じ海人族であることは間違いないだろう。

さて「短頭」にしたのは宗教的な理由とも考えられるが、今回の研究によって赤ん坊の頃から何か頭に巻いていた可能性が指摘された。しかし単なるアイデンティティーつまり集団的なファッションではないだろう。

もしかしたら生涯にわたって頭に鉢巻のような物を巻き付ける日常があり、鉢巻がしやすく、ずれ落ちにくいよう頭にフィットさせるための「実用的な変形」だったのかもしれない。


集落の稲刈り(2023.10.15)

2023-10-15 16:06:21 | おおすみの風景

今日は属している町内会で稲刈りがあった。

集落センターから100mほどの田んぼ地帯の中に5月に田植えをした2枚の田のうち、もち米を植えた方の田を刈り取った。

一週間前の8日を予定していたのだが、あいにくの雨降りで、今日に延期されていた。

実によい日和で、10月に入ってからの秋の濃厚な気配が、吹いてくる西風に乗り、暑からず寒からずちょうど3週間遅れの彼岸を思わせた。

秋の彼岸の頃に咲いていたヒガンバナはもうどこにも咲いていないが、黄色のコリウスという名のヒガンバナ科の花はまだ旺盛で、そこここの家々の庭を明るくしている。

10時頃から始まった稲刈りは手刈りではなく、コンバインという名の大型機械が活躍した。

ちょうど1反(1,000㎡)ほどの面積の田で、ほぼ1時間で刈り取った。

田植えの時は一部で手植えをしたので、少しは田に入り、それらしき作業をしたのだが、この刈り取りでは高齢者が座るスチール椅子を準備したくらいでコンバインの動きを見守るだけだった。

刈り始めると面白いのが、必ず姿を見せるサギである。

今日はシラサギのつがいと、アオサギの一羽が姿を見せ、刈り取ってむき出しになった田面に降り立ち、驚いて飛び立つバッタなどを捕獲しているようだ。

サギは田植え前の泥田にもやって来て冬眠から覚めたばかりのカエルやミミズなどをエサにする。何も植えられていない田や畑に降りて細長い脚とくちばしを土くれに入れてついばむ姿は、春先の風物詩でもある。

薩摩半島の出水平野では間もなくシベリア方面から朝鮮半島を経由してたくさんの鶴(主にナベヅル)が飛来するが、向こうでは刈り取られた田をねぐらにしてひと冬を過ごす。

その間、人間が穀類中心のエサやりをして保護するのだが、いささか人工的だ。去年は鳥インフルエンザが猛威を振るい、ナベヅルやカモなどが罹患し、その影響で採卵鶏が伝染し、数十万羽が殺処分された。

渡り鳥の「万羽ヅル」は出水平野の秋から冬にかけての風物詩で観光に一役買っているのだが、感染症を持って来る可能性が高く、養鶏農家はおちおちしていられない。

こちらでよく目にする冬の渡り鳥はまずもって鴨だが、肝属川を始め姶良川、串良川、菱田川などの河川内に留まることがほとんどで、養鶏農家に被害を及ぼしたという話は聞かない。

サギは渡り鳥ではなく、さして集団性は無いから行動も単独か夫婦で、よくトラクターが耕運するあとに付いてカエルやミミズをあさる姿は悠然としており、優雅にさえ見える。

振り込めサギは困る存在だが、田畑(でんぱた)サギはほのぼのとしている。

 


不登校児の激増

2023-10-12 16:29:14 | 母性

文科省は2022年度の小中学校児童生徒の不登校児の数を発表した。

その数は29万9000人、ほぼ30万人になったという。前年の21年度より2割約10万人もの増加である。全国の小中学校の子どもの数は今年は923万人だそうであるから、30人に1人が不登校という計算になる。(※高校生の不登校は約6万人で、義務教育ではないから不登校は自己責任の範疇だ。)

憲法では小中学校は義務教育であり、保護者に子どもを学校に行かせる義務がある。

よく間違えられるのが「本人に登校する義務がある」というのだが、それは誤解である。本来は「本人に学校へ行って学ぶ権利がある」のであり、それを保護者が尊重し、子どもには小中学校には通わせなければならない義務が課せられているのだ。

昔は特に農家などで農作業の手伝いで学校を早い学年で切り上げたり、農繁期に長い休みを取らせたりして、子どもの学習が蔑ろになったことが多かったが、戦後は憲法で家業(家庭)の都合によるそういった面を切り捨て、親に子どもを9年間は学校で学ばせる義務を憲法で課したのだった。

だから約30万人の小中学校の不登校児の親は大いに心しなくてはならない。子どもをどうにかして学校に行かせなくてはならない。根本法である憲法に照らせばそういうことになる。

ところが多くの親はこの根本法規による取り決めを守っていないようだ。「子どもの気持ちを尊重すると、無理に学校に行かせなくてもいいかな」などと、一見子ども本位に考えているように見えるのだが、その実は親の都合を優先しているのではないだろうか。

私事だが、2学年下の弟が中学2年の1学期から不登校になった。その時の親の対応が大変にまずかったのである。

両親ともに教員(父は中学校、母は小学校)で核家族の我が家は、住み込みの女中さんを雇い入れて家事万端を回していたのだが、兄弟4人の世話をするには不足だった。弟の不登校は中学校なのだからまだ義務教育の範疇であり、親は何とかして登校させなければならないはずである。

ところがその何とかして登校させる最も重要な取り組みは母親が寄り添うことだったのに、その対応はなされずに学校勤務を優先し、今度の発表にある「不登校理由の51%は無気力、不安」を地で行くような感情を持った弟はついに精神を侵されてしまったのだ。

この「無気力・不安」の感情が醸成されるもっとも大きな理由は、親と子の密接な心的な交流が少ないか阻害されていることだと、私は経験を踏まえてそう思っている。

特に母親との密接度が大きいが、これは幼児期から前期思春期までのすべての期間にわたっている。

やはり「母性」の存在は絶対に蔑ろにできない。

こういうと女性からは「女を母性というくくりに閉じ込めておきたいのか」などと言われかねないが、それは違う。

「母性」は男性も女性もこの世に送り出す根本の原理であり、性差を越えた存在だろう。いや「母性」の前には男性と女性の性差など問題ではなく、男と女は単なる区別の存在でしかなくなるほどのものだ。

人間の属する「哺乳類」では実は最も「母性」が必要とされている。これは科学的つまり客観的な見方である。

ⅬGBTという「性的多様性」を認めよという動きが盛んだが、個人個人が主観的にどう考えようと、「母性」の本来的な性の重要性からしたら、わけが分からない。「母性」無くして結婚して何の意味があるのだろうか。


大隅へ初めての行幸(行啓)

2023-10-09 10:25:22 | おおすみの風景

「行幸」とは古めかしい言葉だが、天皇が宮殿を離れて各地に赴くことをいう古語だ(皇后の場合は行啓)。

10月7日に始まった第75回国民体育大会はコロナ禍で延期になり、先送りして今年開かれたもので、「特別国体」と称されている。

この国体の名称は今年限りで、来年度からは「国民スポーツ大会」となる。鹿児島県に順番を譲ってくれた佐賀県での大会が新名称で開かれる初めての大会になる。

天皇皇后両陛下は鹿児島市の白波スタジアムであった開会式に臨まれたあと市内で宿泊され、昨日(8日)、特別フェリーで鴨池港から垂水港へ移動されたあと、垂水市体育館で行われていたフェンシング競技をご覧になった。

垂水市に来られた時点で大隅半島への初行幸となったわけだが、今回は両陛下御揃いなので「行幸・行啓」とがセットになる。しかしこの表現は余りに古めかしい。だから新聞などメディアは「ご訪問」としてある。それが今日的には正解だろう。

タイトルでは「大隅初めての行幸」としたが、これは「現(今上)天皇としては初めて」なのであって、実は祖父に当たる昭和天皇は昭和10年11月に大隅にお出でになっている(これはまさに行幸だ)。

その時、吾平山陵を親拝されたのだが、この時は宮崎・鹿児島陸軍特別大演習の指揮者(元帥)としてで、古江港から古江線の吾平駅まで列車で移動され、駅頭からは御料車で出来たばかりの山陵道路を通って吾平山陵まで行かれている(吾平町内の名士が付き添いに出たが、その中に当時下名小学校の校長だった私の家内の祖父もいた)。

さらに昭和天皇は戦後のいわゆる「全国巡幸」の旅に出られ、鹿屋市を訪れた際には鹿屋市の中心部に所在する「平田邸」を宿としたと聞く。

昭和天皇は以上のように大隅へは戦前と戦後の2回行幸をされている。

また、まだ皇太子だった上皇様は正田美智子さん(美智子上皇后)と結婚されて間もなくの昭和34年に吾平山陵を参拝されている。(※天皇としては昭和60年の夏だったか、「豊かな海づくり大会」なる行事に臨席されるため指宿に行幸されたことがあったと記憶する)。

今回は今上天皇・皇后両陛下が初めて大隅半島をご訪問されたことになる。

昨日の朝、鹿屋市野里町にあるサツマイモの生産加工の商事会社を視察に訪れるという市役所の放送があったので、午後、我が家から3キロほど先にある野里町の沿道に行った。

あいにくの小雨だったが、道路警戒に出動している栃木県や宮崎県警の機動隊員が「乗っておられるお車はセンチュリーという黒塗りの高級車で、ナンバープレートは無く、先端には菊の御紋章が付いています」などと解説してくれて愉快だった。

そして沿道で待つこと40分後の2時半過ぎ、白バイや危機管理車のようなタイプの屋根に4,5本のアンテナを立てた車の後ろから、両陛下の乗る御料車がやって来た。

私の隣りには10名くらいの高齢者施設の入所者と職員らしき人たちが手作りだという日の丸の小旗を振って並んでいたが、目の前を通り過ぎる直前に後部座席の沿道に近い席にお座りになっていた雅子様がそれに気付かれたのだろう、にっこりとして手を振り返していたのが印象的だった。

天皇陛下は沿道側の席ではなかったので見えづらく、自宅に帰ってから映したカメラのビデオ機能の画像を繰り返し再生したら、雅子様が手を振られたその奥に沿道を眺める陛下のお姿がチラッと・・・。

帰り道で、野里町に住む知人の家に立ち寄ったら、地元の高齢女性2人も来ていた。知人たち3人は別の沿道でのお迎えだったといい、そこを担当する山口県警の職員と話が弾み、結局スマホの写真は撮れず仕舞いだったそうだ。よほどのイケメンだったのだろう。

今朝の南日本新聞の一面にサツマイモ加工所(南橋商事)の視察のお姿が載った。サツマイモの畑にも行かれる予定だったが、雨のため加工施設内だけになったようだ。

 


○○猫除けに四苦八苦

2023-10-08 09:30:18 | 日記

昨日今日と朝の最低気温が15℃を下回り、日中も昨日は快晴だったにもかかわらず26℃と心地よい秋晴れとなった。

9月末までは、最低気温22~3℃、最高気温が31~2℃で、日中外で畑仕事などすればたちまち汗が噴き出して来たものだが、この一週間で噓のようにすっかり秋に早変わりした。

朝方など新聞を取りに庭に出ると、半袖では肌寒いほどでくしゃみすら出る始末だ。それでも庭仕事が楽にできるようになったのが何としても嬉しい。

10月に入って涼しくなった昨日までに、菜園に新たにニ種類の野菜の種を蒔き、一種類の苗を植え付けた。

蒔いたのはダイコンとタカナで、苗を買って来て植えたのがブロッコリーだ。

ところが我が家には畑荒らしがいるので困っている。今年13歳を迎えた飼い猫のモモである。

モモは家の中が中心の生活圏なのだが、庭にも自由に出入りさせているので、畑の軟らかい土をほじくり返して糞尿を排泄する。

家の中にもトイレはあるのだが、特に春秋の種蒔きシーズンに耕して軟らかくなった畝は絶好の外うんこ場と思っているようなのだ。

気まぐれか本能かと言えば、本能なのだろう。おそらく軟らかいのでほじくり返しやすく、脱糞したあとにちょいちょいと土を掛けるのも楽なのだろう。犬と違って感心なのは、糞を完全に土の中に隠すことだ。

愛犬のウメを散歩に連れて出すと、脱糞したあとに後ろ足で土をひっかけるのだが、通り一遍、実に適当である。また、ごく稀に放出したうんこの匂いを嗅ぐことがあるが、それも至極おざなりである。

糞尿に関しては、猫の方が格段に始末がよい。

しかしこれが菜園には大いに災いをもたらす。

せっかく種子を蒔いた畝が荒らされ、一部が山のようになっているのを見た時の落胆は想像以上だ。「こん畜生!」とはこの時の猫に対する怒りをよく表す言葉そのものである。

清々しい朝に玄関を出て新聞を手に取り、その足で菜園に行き、昨日か一昨日にタネを蒔いて均しておいた畝が荒らされていたら、即座に家の中に取って返し、居間で平気な顔をして寝転んでいるモモに畳んだままの新聞を放り投げる。

そしてその時、口を衝いて出るのが「こん畜生」ではなく、「この○○猫め!」だ。

「○○」に入る言葉は憤慨の程度によって微妙に変わり、「バカ」か「クソ」かである。

動物愛護の観点から言えば「即アウト」だろうが、そうでもしないと気が済まないのも事実だ。ただし、そう怒鳴っている間にモモはさっさと逃げて隠れてしまう。

そこでそんな定番の朝の怒りに出くわさないように考えたのが、畝を防御する簡単な対策で、一つは蒔いたか苗を定植した畝にビニールパイプまたは棒状の真直ぐしたものを置く方法(下の写真)。

もう一つは種を蒔いた畝の上に、とげとげ付きのプラスチックカバー(正式名は失念した)を置くこと(下の写真)。

菜園全体をイノシシ除けのようにネットで囲うのも大変だし、モモを種蒔きシーズンの2週間もの間、家の中に閉じ込めておくのも可哀そうだし、ということで、今のところこのやり方で行くほかないと思っている。