2月10日は志布志の安楽地区の山宮神社、11日は山宮神社に続いて安楽(やすら)神社で春祭りが行われたが、山宮神社の由来と御祭神の天智天皇の伝承について考えておきたい。
【山宮神社の由来】
(※主として青潮社版『三国名勝図会』第4巻・日向国諸縣郡志布志郷に拠った)
志布志市の安楽地区に鎮座する「山宮神社」は春祭りの紹介でも書いたように、主祭神は天智天皇で、他に太子の大友皇子(弘文天皇)、皇女の持統天皇、皇后の倭姫、后妃の玉依姫、そして玉依姫が産んだ乙姫の6柱を祭り、平安時代初期の大同2(807)年には「山口六所大明神社」として当地に建立されたという。
ところが主祭神である天智天皇を祭った神社はさらに100年ほども古く、志布志の東北10キロばかりに聳える「御在所岳」(530m)の山頂に建てられた天智天皇の廟を山宮大明神としたことに始まった。
「廟」と言えば、天皇の御陵を指すが、この廟は天皇の遺体を安置したわけではなく、御霊を招霊して山宮大明神として御在所岳の山頂に鎮めたということのようである。その年が和銅元年(708年)であったという(志布志郷・御在所岳の項)。
のちに御在所岳の麓の田ノ浦に「山口大明神社」が建立され、天智天皇の太子であった大友皇子(のちの弘文天皇)を祭ったという(同・正一位山口六社大明神社の項)。
大友皇子の霊を祭る神社が建てられたのは、天智天皇の後継をめぐって天武天皇との争い敗れ、大和と近江の地では言わば「朝敵」の扱いになってしまい、祭ることが憚れたからだろうが、では一体誰が皇子の御霊を当地に招いたのか、これは謎である。
山口大明神は今は通称で「田ノ浦山宮神社」と呼ばれている。この名称だといかにも安楽地区にある山宮神社の「奥宮」という感じだが、本来の祭神は天智天皇ではなく太子の大友皇子である。
(※このお宮では2月の立春の日に「ダゴ」という他の地では「メノコ餅」に相当するもち飾りを稲の穂に見立てて奉納し、神楽舞を演じ、終わってから観衆皆でダゴを取り合うという奇習があって有名である。)
(追記:ダゴ祭りについては12年前の2012年2月6日のココログブログ「ー鴨着く島ー山宮神社の春祭り」に詳しいので参照されたい)
この田ノ浦山宮神社は安楽地区の西側を流れる安楽川の上流部に位置しており、安楽山宮神社および安楽(やすら)神社とは安楽川をルートとして見事につながっていることに気付かされる。この安楽川は間違いなく安楽地区を流れるからそう名付けられたのだろう。隣の菱田川にしろ肝属川にしろ地名から採られた名称である。
さて現在の地に山宮神社(通称:安楽山宮神社)が建立されたのは山宮神社旧記によれば大同2年、西暦807年のことという。1217年も前のことである。天智天皇が崩御されたのは681年とされるから崩御後120年余りを経て建立されたことになる。
その時すでに当地は「安楽」と呼ばれていたと考えられる。ただその読みはもしかしたら「やすら」だった可能性がある。
安楽山宮神社の春祭りが終わった翌日の2月11日は山宮神社から南へ1.5キロほどにある「安楽(やすら)神社」で引き続いて春祭りが催されるのだが、この神社の建つ所の小字は「安良(やすら)」なのである。
日本語で「安らかな場所」という意味であれば「安良(やすら)」が本来であり、「安楽(あんらく)」はそれを漢字化したわけで、時系列から言えば「やすら(安良)」が始まりだろうと考えられる。
(※「楽」を「ら」と読む例は無いことはなく、たしか鳥取県南部の「作楽神社」と書いて「さくら神社」と読ませる例があったと記憶する。)
また他の5柱の祭神が併せられて「六所」という神社名になったのだが、5柱にはそれぞれ単立した神社があった。
1皇后倭姫を祭る「鎮母(実母)神社」 2皇女持統天皇を祭る「若宮」 3后妃玉依姫を祭る「中之宮」
4玉依姫との皇女乙姫を祭る「枇榔御前神社」 5太子大友皇子を祭る「山口神社」
である。
このうち、5の山口神社は今の田ノ浦山宮神社として現存し、4の枇榔御前神社は志布志湾内の枇榔島にあり、2の若宮神社は志布志小学校のすぐそばにある。
ところが1の鎮母神社と3の中之宮神社が不明である。だが、2月11日に春祭りを催した「安楽(やすら)神社」には鎮母神社の祭神・倭姫と中之宮の祭神・玉依姫の2柱が祭られているのであった。
とすると、もともと近傍において二つの別々の神社があったのを、安楽(やすら)神社の一社に纏めたと考えるのが至当だろう。
事実、今の安楽(やすら)神社の建つ土地の小字は「安良」であり、その隣に小字の「中宮」が存在している。中之宮神社はこの中宮の地に建立されていたが、何時しか安良の安楽神社に合祀されたと考えておかしくはない。
いずれにしてもこの安楽地区は、天智天皇の何らかの史実に基づく土地であったとみて間違いはないと思われる。
【天智天皇に関する志布志郷の伝承】
私は以前、開聞神社にまつわる天智天皇伝承を取り上げたことがあった。
薩摩国頴娃郷に所在する開聞宮にまつわる伝承として、この地に生まれた大宮姫が宮中に上がり、天智天皇の寵愛を受けたのだが、ある雪の積もった日に大宮姫の足跡が鹿の足だったことで他の宮女たちの非難を浴び、泣く泣く頴娃に帰って来たというのがある。
(※大宮姫の足が鹿のそれだというわけは、智通大師が開聞岳で修行をしている時に一頭の鹿が現れ、霊水を舐めたあと一女を産んだという。それが大宮姫で、大宮姫は鹿の子であったそうだ。
ただ私は記紀の天孫降臨神話でニニギノミコトが南九州の笠沙の地でであったオオヤマツミノカミの娘が「鹿足津姫(カシツヒメ)」(別名はコノハナサクヤヒメ)であり、この「鹿足津(鹿の足の)」から連想した伝説と考えている。)
この大宮姫(志布志郷の伝承では玉依姫)を追って来た天智天皇は志布志海岸の舟磯という浜に上がり、そこで老夫婦の世話になり、さらに頴娃を目指した。頴娃で5か月ほどを過ごした天皇は再び志布志に戻り、都に帰るのだが、その前に御在所岳に登ってはるか頴娃の大宮姫(玉依姫)を偲び、「わたしが死んだら、ここに廟(墓)を建てて欲しい」と言い残した。
この言葉に基づいて御在所岳の山頂に建てたのが「山宮神社」であったわけだが、この話を記録した「山宮神社旧記」では次のように書かれている(訓点付きの漢文だが、読み下して示す)。
<天智天皇は日向国に臨幸し、龍船、志布志安楽の浜に着きませり。その地を舟磯という。ここに於いて天皇一老翁に曰く、薩摩開聞岳はいずこに在りやと。老翁こたえて曰く、この地より未申の方に当たれり。海路三十里云々。
天皇開聞に至り、駐滞されますこと5、6月。然れども、天下の政事、措くべきにあらざれば、よって彼の地よりまた舟磯へ帰りませり。天皇、白馬に乗りて毛無野を過ぎ、田ノ浦岳に登りまし、遥かに開聞岳を望ませり。
老翁に勅して曰く「朕の崩御ののちに、宜しく廟をここに建つべし」と。
既にして天皇和州岡本宮に還れり云々。
(後略)>
後略の部分の内容は山頂に山宮神社を建てたこと、以下、山口六所大明神社建立までの記録であり、上で述べてきたことと重なるので省略した。
この古記では、開聞岳に巡幸したあと5か月ほど滞在して再び志布志安楽浜の舟磯に帰還した。今度は白馬に乗って田ノ浦岳(のちの御在所岳)の山頂に至り、そこから頴娃に残した大宮姫(玉依姫)を偲び、さらに山頂に廟を建てて欲しいと舟磯の老翁に言い残して都に帰った――というのである。
(追記:御在所岳については12年前に登った記録ブロブ(ココログ)がある。「ー鴨着く島ー御在所岳に登る」で、山頂までの登山の様子を掲載したので参照されたい)
さて、引用の最後の一文が「既にして(間もなく)天皇は和州(大和国)の岡本宮に還られた」だが、ここで考えなければいけないのは、天皇が「岡本宮」に帰ったという点である。
岡本宮は天智天皇の宮ではなく母の斉明天皇の宮なのである。
天智天皇は即位後は近江に皇居を定めたはずであるから、岡本宮に還ったとすれば即位後ではなく即位前の話ということになる。
つまりまだ天智天皇が太子の時代、中大兄皇子だった時代の話だということになるわけで、天智天皇が志布志にやって来たのは天皇即位後ではなく、まだ皇子の時代、すなわち半島の百済救援隊として中心的な役割を担っていた時であった。
おそらく白村江の海戦で壊滅的なダメージを受け、敗色濃厚な時代背景を背負っての南九州への到来であったはずだ。
この箇所は中大兄皇子が斉明天皇亡きあと、なぜすぐに天皇として即位しなかったのか(長期の称制)の謎を解明する一視点を与えてくれると思う。