鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「突然死症候群」とは毒殺の隠語

2024-02-18 19:10:30 | 専守防衛力を有する永世中立国

2月16日、ロシアの反プーチン勢力の中心人物ナワリヌイ氏が亡くなった。47歳だったという。

北極圏にある監獄に収監されていたナワリヌイ氏は、14日の元気な姿がSNSで拡散されていたのだが、16日に死亡したとロシア当局から発表された。

最初その死因は「血栓症」であったと言われたが、今日正式に「突然死症候群」だったと報道された。

最初の血栓症という病名は医学的には有り得る病名だが、後者の突然死症候群などという病名は聞いたことがない。

突発性○○なら有りだが、血栓症にしろ突然死症候群にしろこれは「毒殺」と思って間違いないだろう。

すでに4年前にナワリヌイ氏は「毒殺」されかかっていたのだ。この時は幸いにも倒れてからすぐにドイツの病院に運ばれ、そこで治療を受けて復帰したのだった。

病状が回復すると再びロシアに戻り反プーチン運動を始めようとしたが、入国後に経済問題で罪状があるとして逮捕され裁判を受けて有罪となり、最終的に19年とかの懲役刑を受け今度亡くなった北極圏の監獄に服していた。

監獄から不自由ながら反プーチン運動を指導していたようだが、その際にインタビューで「殺害されたら何と言い残すか」と問われて「あきらめないという言葉だ」と答えていたという。

当局による殺害が実行されてしまったが、もちろんプーチンが3月に大統領選挙に出馬し、5選目の大統領になるのに邪魔だからだろう。恐ろしやプーチン。

今度の選挙にはウクライナ戦争に反対する候補者ナジェージュジン氏が立ったのだが、大統領選に出馬する際には30万人の支持者の署名が必要ということで、それだけの署名を集めて選管に提出したのだが、何とかかんとかの理由を付けて却下されてしまった。

これもプーチンの差し金だろう。独裁者の面目躍如だ。

今、ナジェージュジン氏は選管の署名簿に対する事実認定に誤認があるとして裁判所に提訴しているが、3月半ばの大統領選の前に結審しないのは火を見るより明らかだ。

下手に盾を衝くと何とかかんとかの罪状を着せられて逮捕収監されるのが落ちだろう。最悪の場合は消される可能性がある。

あの戦争請負人のプリゴジンも国防省に楯突いたために、自家用ジェット機に爆薬を仕掛けられて墜落させられあの世に送られている。もちろんこれもプーチンの最終判断に違いない。

毒殺や爆殺や不当逮捕がまかり通るロシアの現状はとても正気とは思えない。


満開の河津桜(2024.02.17)

2024-02-17 15:13:32 | 日記

2月1日にほぼ同時に初咲きを迎えた梅・河津桜・乙女椿のその後の様子は、河津桜が満開となり、梅は花のほとんどを落とし、乙女椿は木の周り一杯に花を落としながらもまだたくさんの花を付けている状況だ。

満開となった河津桜。2月1日の咲き初めから17日間かけてこの状態。散るのもゆっくりだろうから2月一杯は楽しめそうだ。

乙女椿はあれよあれよと言う間に花をこぼし、自分の周りをピンクの絨毯のようにしたが、枝の花着きはまだ旺盛で一向に散り果てる気配はない。

梅は2月10日くらいがピークで、その後花を落とし、今は見る影もない。

 

今朝は寒の戻りのようでやや寒かったが、それでも日が昇るにつれ陽光が眩しいほどになった。

娘孫たちの子守を頼まれていたので、8時過ぎに娘宅に行き、小2の孫の宿題の相手をしたあと、3人を車に乗せて裏山に当たる「霧島が丘公園」まで上がった。

15日に打ち上げられる予定だったJAXAの「H3ロケット」が延期になり、今日の9時22分に種子島ロケットセンターからが打ち上げられるというので航跡だけでも見たいと思ったのである。

公園の駐車場から南へ500mもある展望所まで歩き、4階建ての高さほどの最上階の展望ラウンジに上がると10組くらいの家族連れと夫婦など25、6名の人たちが今や遅しと南の方を向いていた。

南の山並みは500m以下の丘陵で、稜線の上あたりには薄い雲がかかっていたが、9時23分ごろから3分間程度、ロケットの航跡が白い筋雲となって(見方によっては龍が空へ上っていくかのように)見えた。

 

展望所から降りると遊びをせがまれ、持参したビニールバットとスポンジの玉で野球遊びをしたが、三兄弟の真の狙いはゴーカートなのであった。

霧島が丘公園のゴーカートの運転は年齢制限ではなく、身長130センチ以上という規定があり、2年生の女孫はわずか3センチくらい下回ったため運転はできず、結局爺さんが二人乗りのゴーカートで3人を代わり番こに乗せる羽目になった。

以前に乗ったことのあるダグリ遊園地では「7歳以上」だったので、誕生日が来ているのなら小1でも運転可能で、小2の孫でも運転できたのだが、それに比べると厳しい制限だ。

ゴーカート場から出ると今度はブランコや滑り台、おまけに幼児向きの100円玉カーの乗車をせがまれた。自分で運転がしたいのだろう、仕方がない。

駐車場までの道の途中にちょっとした噴水があり、冬は停止しているようで、石畳の水たまりには小さなオタマジャクシが無数にいた。ここでもまたしばらくのプレイタイムだ。

新型コロナにもインフルエンザにも罹ったはずだが、ケロッとして遊んでいる様は好奇心の塊だ。

 


志布志山宮神社考

2024-02-14 16:26:59 | 古日向の謎

2月10日は志布志の安楽地区の山宮神社、11日は山宮神社に続いて安楽(やすら)神社で春祭りが行われたが、山宮神社の由来と御祭神の天智天皇の伝承について考えておきたい。

【山宮神社の由来】

(※主として青潮社版『三国名勝図会』第4巻・日向国諸縣郡志布志郷に拠った)

志布志市の安楽地区に鎮座する「山宮神社」は春祭りの紹介でも書いたように、主祭神は天智天皇で、他に太子の大友皇子(弘文天皇)、皇女の持統天皇、皇后の倭姫、后妃の玉依姫、そして玉依姫が産んだ乙姫の6柱を祭り、平安時代初期の大同2(807)年には「山口六所大明神社」として当地に建立されたという。

ところが主祭神である天智天皇を祭った神社はさらに100年ほども古く、志布志の東北10キロばかりに聳える「御在所岳」(530m)の山頂に建てられた天智天皇の廟を山宮大明神としたことに始まった。

「廟」と言えば、天皇の御陵を指すが、この廟は天皇の遺体を安置したわけではなく、御霊を招霊して山宮大明神として御在所岳の山頂に鎮めたということのようである。その年が和銅元年(708年)であったという(志布志郷・御在所岳の項)。

のちに御在所岳の麓の田ノ浦に「山口大明神社」が建立され、天智天皇の太子であった大友皇子(のちの弘文天皇)を祭ったという(同・正一位山口六社大明神社の項)。

大友皇子の霊を祭る神社が建てられたのは、天智天皇の後継をめぐって天武天皇との争い敗れ、大和と近江の地では言わば「朝敵」の扱いになってしまい、祭ることが憚れたからだろうが、では一体誰が皇子の御霊を当地に招いたのか、これは謎である。

山口大明神は今は通称で「田ノ浦山宮神社」と呼ばれている。この名称だといかにも安楽地区にある山宮神社の「奥宮」という感じだが、本来の祭神は天智天皇ではなく太子の大友皇子である。

(※このお宮では2月の立春の日に「ダゴ」という他の地では「メノコ餅」に相当するもち飾りを稲の穂に見立てて奉納し、神楽舞を演じ、終わってから観衆皆でダゴを取り合うという奇習があって有名である。)

(追記:ダゴ祭りについては12年前の2012年2月6日のココログブログ「ー鴨着く島ー山宮神社の春祭り」に詳しいので参照されたい)

この田ノ浦山宮神社は安楽地区の西側を流れる安楽川の上流部に位置しており、安楽山宮神社および安楽(やすら)神社とは安楽川をルートとして見事につながっていることに気付かされる。この安楽川は間違いなく安楽地区を流れるからそう名付けられたのだろう。隣の菱田川にしろ肝属川にしろ地名から採られた名称である。

さて現在の地に山宮神社(通称:安楽山宮神社)が建立されたのは山宮神社旧記によれば大同2年、西暦807年のことという。1217年も前のことである。天智天皇が崩御されたのは681年とされるから崩御後120年余りを経て建立されたことになる。

その時すでに当地は「安楽」と呼ばれていたと考えられる。ただその読みはもしかしたら「やすら」だった可能性がある。

安楽山宮神社の春祭りが終わった翌日の2月11日は山宮神社から南へ1.5キロほどにある「安楽(やすら)神社」で引き続いて春祭りが催されるのだが、この神社の建つ所の小字は「安良(やすら)」なのである。

日本語で「安らかな場所」という意味であれば「安良(やすら)」が本来であり、「安楽(あんらく)」はそれを漢字化したわけで、時系列から言えば「やすら(安良)」が始まりだろうと考えられる。

(※「楽」を「ら」と読む例は無いことはなく、たしか鳥取県南部の「作楽神社」と書いて「さくら神社」と読ませる例があったと記憶する。)

また他の5柱の祭神が併せられて「六所」という神社名になったのだが、5柱にはそれぞれ単立した神社があった。

1皇后倭姫を祭る「鎮母(実母)神社」 2皇女持統天皇を祭る「若宮」 3后妃玉依姫を祭る「中之宮」

4玉依姫との皇女乙姫を祭る「枇榔御前神社」 5太子大友皇子を祭る「山口神社」

である。

このうち、5の山口神社は今の田ノ浦山宮神社として現存し、4の枇榔御前神社は志布志湾内の枇榔島にあり、2の若宮神社は志布志小学校のすぐそばにある。

ところが1の鎮母神社と3の中之宮神社が不明である。だが、2月11日に春祭りを催した「安楽(やすら)神社」には鎮母神社の祭神・倭姫と中之宮の祭神・玉依姫の2柱が祭られているのであった。

とすると、もともと近傍において二つの別々の神社があったのを、安楽(やすら)神社の一社に纏めたと考えるのが至当だろう。

事実、今の安楽(やすら)神社の建つ土地の小字は「安良」であり、その隣に小字の「中宮」が存在している。中之宮神社はこの中宮の地に建立されていたが、何時しか安良の安楽神社に合祀されたと考えておかしくはない。

いずれにしてもこの安楽地区は、天智天皇の何らかの史実に基づく土地であったとみて間違いはないと思われる。

 

【天智天皇に関する志布志郷の伝承】

私は以前、開聞神社にまつわる天智天皇伝承を取り上げたことがあった。

薩摩国頴娃郷に所在する開聞宮にまつわる伝承として、この地に生まれた大宮姫が宮中に上がり、天智天皇の寵愛を受けたのだが、ある雪の積もった日に大宮姫の足跡が鹿の足だったことで他の宮女たちの非難を浴び、泣く泣く頴娃に帰って来たというのがある。

(※大宮姫の足が鹿のそれだというわけは、智通大師が開聞岳で修行をしている時に一頭の鹿が現れ、霊水を舐めたあと一女を産んだという。それが大宮姫で、大宮姫は鹿の子であったそうだ。

 ただ私は記紀の天孫降臨神話でニニギノミコトが南九州の笠沙の地でであったオオヤマツミノカミの娘が「鹿足津姫(カシツヒメ)」(別名はコノハナサクヤヒメ)であり、この「鹿足津(鹿の足の)」から連想した伝説と考えている。)

この大宮姫(志布志郷の伝承では玉依姫)を追って来た天智天皇は志布志海岸の舟磯という浜に上がり、そこで老夫婦の世話になり、さらに頴娃を目指した。頴娃で5か月ほどを過ごした天皇は再び志布志に戻り、都に帰るのだが、その前に御在所岳に登ってはるか頴娃の大宮姫(玉依姫)を偲び、「わたしが死んだら、ここに廟(墓)を建てて欲しい」と言い残した。

この言葉に基づいて御在所岳の山頂に建てたのが「山宮神社」であったわけだが、この話を記録した「山宮神社旧記」では次のように書かれている(訓点付きの漢文だが、読み下して示す)。

<天智天皇は日向国に臨幸し、龍船、志布志安楽の浜に着きませり。その地を舟磯という。ここに於いて天皇一老翁に曰く、薩摩開聞岳はいずこに在りやと。老翁こたえて曰く、この地より未申の方に当たれり。海路三十里云々。

天皇開聞に至り、駐滞されますこと5、6月。然れども、天下の政事、措くべきにあらざれば、よって彼の地よりまた舟磯へ帰りませり。天皇、白馬に乗りて毛無野を過ぎ、田ノ浦岳に登りまし、遥かに開聞岳を望ませり。

老翁に勅して曰く「朕の崩御ののちに、宜しく廟をここに建つべし」と。

既にして天皇和州岡本宮に還れり云々。

(後略)>

後略の部分の内容は山頂に山宮神社を建てたこと、以下、山口六所大明神社建立までの記録であり、上で述べてきたことと重なるので省略した。

この古記では、開聞岳に巡幸したあと5か月ほど滞在して再び志布志安楽浜の舟磯に帰還した。今度は白馬に乗って田ノ浦岳(のちの御在所岳)の山頂に至り、そこから頴娃に残した大宮姫(玉依姫)を偲び、さらに山頂に廟を建てて欲しいと舟磯の老翁に言い残して都に帰った――というのである。

(追記:御在所岳については12年前に登った記録ブロブ(ココログ)がある。「ー鴨着く島ー御在所岳に登る」で、山頂までの登山の様子を掲載したので参照されたい)

さて、引用の最後の一文が「既にして(間もなく)天皇は和州(大和国)の岡本宮に還られた」だが、ここで考えなければいけないのは、天皇が「岡本宮」に帰ったという点である。

岡本宮は天智天皇の宮ではなく母の斉明天皇の宮なのである。

天智天皇は即位後は近江に皇居を定めたはずであるから、岡本宮に還ったとすれば即位後ではなく即位前の話ということになる。

つまりまだ天智天皇が太子の時代、中大兄皇子だった時代の話だということになるわけで、天智天皇が志布志にやって来たのは天皇即位後ではなく、まだ皇子の時代、すなわち半島の百済救援隊として中心的な役割を担っていた時であった。

おそらく白村江の海戦で壊滅的なダメージを受け、敗色濃厚な時代背景を背負っての南九州への到来であったはずだ。

この箇所は中大兄皇子が斉明天皇亡きあと、なぜすぐに天皇として即位しなかったのか(長期の称制)の謎を解明する一視点を与えてくれると思う。

 

 

 


安楽神社春祭り(2024.02.11)

2024-02-12 09:30:02 | おおすみの風景

昨日は朝方少し雨がぱらつくあいにくの天気で、志布志の安楽神社の春祭りを見に行こうかどうしようかと逡巡したのだが、昼前には少し晴れ間も見えたので行くことにした。

安楽神社は「あんらく」とは読まずに「やすら」と読むのだが、外部の人間だと誰しも「あんらく」と読んでしまう(これについては後述する)。

午後2時に神事が始まると聞いていたので、余裕をもって出かけたら1時間近く前に着いた。同じ安楽(あんらく)地区の一昨日見物した山宮神社から南へ1.5キロほど下った住宅街の中に安楽(やすら)神社があるので、駐車場の心配をしたのだが、早かったせいで難なく停めることができた。

この神社の春祭りは一昨日(2月10日)に行われた山宮神社(主祭神は天智天皇)の春祭りの一環で、祭神の倭姫と玉依姫はともに天智天皇の大后と后妃である。

山宮神社は主祭神を天智天皇とし、さらにこの倭姫・玉依姫、大友皇子(弘文天皇)、持統天皇(天智天皇の皇女)、そして玉依姫の産んだ乙姫の5柱を祭り、大同2(807)年にこの6柱が合祀されて「山口六所大明神」となり、崇敬されていたわけで、それなら山口六所大明神(山宮神社)を祭るだけでよさそうなものだ。

そうしないのはおそらく安楽神社がすでに大同2(807)年の時点で祭られていたからだろう。そのため合祀したにもかかわらず単立したまま今日に至っているのかもしれない。

いずれにせよ、安楽地区の春祭りは山宮神社と安楽神社の双方で行われている。山宮神社から出発した神輿は安楽地区内の各集落を巡回し、また正月踊りも披露されながら、2日間かけて元の山宮神社に戻るのである。

さて安楽神社だが、これを「あんらく」とは読まずに「やすら」と読むのはなぜかだが、宮司さんに聞いたところ、山宮神社とこの安楽神社とはともに大字の「安楽(あんらく)地区」にあるが、安楽神社の方の小字は「安良(やすら)」で、こちらの読みで安楽と書きながら「やすら」と読ませているそうである。

「やすら」は「やすらか」の意味で、結局「安楽(あんらく)」という漢字の意味でもあるから、たしかに共存していておかしくない。

大和言葉(日本語)では「やすら」の方が正解で、「安楽(あんらく)」は後から漢字化した際に付けられた可能性が高いのかもしれない。

(※ネットで「やすら神社」を調べると、必ず鹿児島県横川町の「安良神社」がヒットする。あちらの方はかなり有名な神社であるから致し方ないにしても、もしこの安楽神社を調べたいなら、「志布志安楽(やすら)神社」としたら良い。)

さて、午後2時を待って安楽神社の祭礼が始まった。

氏子総代や関係者が本殿に向かって榊を手向けたあと、例の田の神夫婦との珍妙なやり取りがあり、それが終わると境内に今どき珍しい藁製の茣蓙(ござ)が30枚ほど敷かれ、菅笠と裃姿の作五郎(農民役)が登場し、一面の茣蓙を田んぼに見立てて田打ちの所作をする。

そのあとはいよいよ代かきだ。

真っ赤な牛2頭(親牛と子牛)を前は作五郎(農民)が牽き、後ろからは代かき用の鋤を神職が持って茣蓙の上を回って行く。牛は時々面白おかしく暴れながらともかく代かきが済み、宮司がモミ種を撒くと田んぼの仕事は終わる。次はかぎ引きである。

かぎ引きとは硬い雑木の葉や小枝を落とし、先端をVの字状(かぎ状)に残したほど良く手で握れるくらいの太さの2本の枝を用意し、二手に分かれ先端をひっかけて引き合う神事である。勝った方が豊作を得られるという。

今回は上手と下手に3人ずつの青年が引っ張り合い、子どもたちの声援の中、裸の三人の方が勝利した。豊作間違いなしだという。どうやら「出来レース」らしい。神事であれば許されるユーモアである。

最後は太鼓・三味線の音色と口説き唄とともに正月踊りが披露された。田の神様を真ん中にして円陣を組んで回りながら踊るのは、田の神へのチアーアップ作戦なのだろう。「田の神(カン)さー、豊作にしっくいやんせよ(してくださいよ)。頼んもんでなあ」との願いを込めているのだろう。

このあと神輿は再び集落を回りながら、山宮神社へ帰るそうだが、ようやく日差しが当たり少しは温もって来てはいるが、坐骨神経痛再発の心配もあり、正月踊りを見納めとして帰路についた。

帰途、旧有明町の「蓬の郷(さと)」という温泉施設に立ち寄り、冷えた体を温めて帰宅した。


安楽山宮神社春祭り(2024.02.10)

2024-02-10 19:47:11 | おおすみの風景

志布志市の旧郷社で安楽地区にある「山宮神社」の春祭り(祈年祭)が行われるというので、久しぶりに参拝に行って来た。

何年前だったか、一度同じ春祭りを見に行ったことがある。このお宮自体にはもう5、6回足を運んでいるが、祭りの時ではないので国指定の天然記念物の「大楠」を見がてらの参拝だった。

10時から祭礼が始まると聞いていたので、家を8時半に出た。以前に行った時は一般道を走って1時間余りかかったのだが、この頃は東九州自動車道が開通したので50分弱で到着した。

10時になると石造りの鳥居前の広場で、踊りが始まった。太鼓・三味線に乗せて黒づくめの大小の踊り手が独特の身振り手振りで、円を描くように踊りながら広場に入って来た。

観客の一人に聞くと、4年ぶりの開催なので小学生や幼稚園・保育園の子どもたちにも見せているとのことで、たまたま今日は土曜の授業のある日なので、近くの安楽小学校から生徒たちが大勢見守っていた。

石の鳥居の右手に聳えるのが天然記念物「志布志の大楠」で、説明板によると樹齢は800年から1300年、樹高は23.6m、目通り(幹回り)17.1m、根回り32.3mという巨木で、この神社の主祭神・天智天皇のお手植という説がある。天智天皇の崩御は671年だから、お手植となると1350年である。

元は鳥居を挟んで対になっていた大楠があったが、1870年代に枯れたそうである。枯れ木の根元からは中世の遺物が発掘されたという。古代のお手植というのは無理だろう。

写真の踊りは「正月踊り」といい、黒のお高祖頭巾、黒紋付、手甲脚絆、黒足袋という黒づくめ、おまけにやはり黒の布で顔を覆って踊る。腰には「下げもん」をぶら下げているのはユニークだ。

広場での踊りが終わると生徒や園児たちは引き揚げ、祭礼の参加者と見物人が鳥居をくぐって境内の中に移動する。鳥居から見上げる大楠は圧巻である。枝ぶりがよく、南九州の神社にいくつか巨大なのがあるが、ここのは樹形の美しさでは「日本一」だと言われているそうだ。

境内の中には上り旗が林立し、祭りのムードを高めている。

最初の神事は「田植え神事」で、氏子や参列者が手に手に割り竹に色紙を挟んだのを稲の苗に見立て、小さな砂場に宮司を皮切りに立てて行く。

「苗」を植える神職。象徴的な意味合いだろう。そのあと参列者が次々に植えて行く。

田植えのあと、神社の祭殿で「田の神夫婦」と氏子の珍妙な問答が繰り返される。氏子つまり近傍の農民の願いは豊作であり、田の神の口からそう言って欲しい――これが主眼の問答で、稲の実りと子宝の授かりとが同じ目線で語られるから、エロチックでもあり面白い。

それが済むと、田の神が境内に下り、持っていた孟宗竹の竹筒を踏んで割ってしまう。これが稲が実る、また、子が授かることの象徴だろう。そうやって荒れ狂う田の神の周りを、先の正月踊り衆が取り囲み太鼓三味線の歌に合わせて踊る。

踊る時間は30分ほど、結構体力も使うだろうにずっと踊り続けている。

このあといくつかの神事を行い、神輿を担いで各集落(小字)をめぐり、各集落でまた正月踊りをするそうだから、踊り手にとっては大変な一日だろう。

明日はまた各集落を回りつつ、山宮神社から南へ1.5キロほどの安良神社まで行って、そこで今日と同じ踊り(神事)を奉納するという。

この山宮神社は安楽(大字)地区にあるので「安楽山宮神社」と俗称されている。鹿屋市にも山宮神社があるので、われわれは安楽山宮神社と呼ぶ方が都合が良い。

祭神は天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・持統天皇(天智娘)・玉依姫(天智妃)・倭姫・乙姫の6柱で、天智天皇の御廟とされる御在所岳に元は祭られていたのを、御在所岳の麓の田ノ浦山宮神社から当地へ移設されたのが和銅2(709)年、さらに他に親族5柱を加えて「山口六所大明神」となったのが、大同2(807)年だという。

いずれにしても大隅半島では屈指の古社である。

(※この祭りに「安楽姓の人集まれ」という上り旗を持った人たちが来ていた。大隅の安楽姓は肝付氏の家筋だが、大友皇子からの血筋だという人もいる。安楽とは良い姓であるから大事にしてもらいたいものだ。)