鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国の官制について(補遺)

2024-10-17 11:01:44 | 邪馬台国関連
(2)で紹介した邪馬台国の官制「四等官」のうち、第二の「彌馬升」を私は「一族(彌馬)の男(升=之男)」と解釈し、これは倭人伝本文の後の方に書かれている「男弟」のことで、「鬼道」(神懸かり)を本領とする女王卑弥呼に変わって国策(行政)を担っている官職であることを述べた。

「升(ショウ)」を「シヲ」と読んで意味が通じると思われる人物の名が倭人伝にはもう一つある。

それは卑弥呼(実質的には男弟)が景初2年(西暦238年)の6月に命じたという次の記事に登場する。

「倭の女王は大夫難升米を遣わし、郡に詣でしむ。天子に詣で、朝献を求めんとすればなり。太守の劉夏、吏を遣わして将に送らしめ、京都に詣でしむ。」

下線部の「難升米」という人物を魏の天子への使いに出した――という記事だが、このあとには同じ景初2年の12月に魏の天子(当時は明帝)からの詔書が紹介され、有名な「よく遠いここまでやって来てくれた。ついては女王ヒミコを<親魏倭王>とし、金印を授けよう」という展開になる。

ここではその下りの詳細は省くが、使者となった「難升米」の解釈を披歴したい。

私はここでも「升」を「シヲ」とし、「難升米」を「ナシオミ」と読む。そして「難」を「ナ(奴)」に取り、この人物を「奴之臣」と漢字化する。

するとこの人物は「奴国(ナコク)の臣」という人物像が浮き上がる。

「奴国」とは倭人伝中の女王国勢30か国のうち、佐賀平野の西部、今日の小城市あたりにあった戸数2万戸の「奴国」、もしくは女王国勢では狗奴国に近い最南部に所在した「奴国」(戸数不明)の2か国があるが、これだけの情報ではどちらとも決め難い。

ところが『後漢書』の「東夷列伝」という巻に次の記事が見いだせる。

「建武中元2年(西暦57年)、倭の奴国が貢をもって朝賀にやって来た。使いの者は自らを「大夫」と言った。倭国の極南界なり。光武(帝)は印綬を賜った。」

倭国の最南部の奴国からやって来た使いは自分のことを「大夫」と自称したというのである。この時下賜されたのが例の志賀島で発見された「漢委奴国王之印」という刻字のある金印である。

(※私はこの金印の刻字を「漢の倭(わ)の奴(ナ)国王の印」と読むのだが、漢音では「漢のイド国王の印」と読むべきだと考える研究者もいる。)

この後漢の始祖・光武帝に謁見した「倭の奴国」からの使者も自分の身分を「大夫」と言ったというのだが、「大夫」とは主としてこういった外交交渉に出向くクラスの身分で、官僚組織のランクで言えば五等官、女王国の官制で言えば四等官の「奴佳鞮」(ナカテ=中手=中臣)の下のランクに当たろう。

邪馬台国人ではなく連盟30か国のうちとは言いながら、「奴国人の大夫」を使いに立てたのはおそらく、かつてこの光武帝への使者に立てた経験のある奴国に委ねたのだろう。

ではこの「奴国」は2つの奴国のうちどちらの奴国だろうか?

それは後漢書で「倭国の極南界」と言っている以上、邪馬台国連盟30か国の最南部にある奴国と考えるほかない。

その国はさらに南部にある男王をいただき、「狗呼智卑狗(クコチヒコ=菊池彦)」を大官としている倭人伝上の「狗奴国」に菊池川を挟んで向かい合っている国であり、今日の玉名市がそれに当たる。

当時、有明海の海運を支配していた国で、ここから有明海を抜け、九州の西岸を北上して朝鮮半島の同じく西岸を通過し、山東半島に上陸し黄河中流にあった後漢の首都洛陽まではるばる出かけたのだ。

その経験は九州島で鳴り響いており、邪馬台国は同じ洛陽を首都とした魏王朝への朝賀貢献を奴国にゆだねたのだろう。

『後漢書』ではもう一人の人物に「升」という字が当てられている。

それは倭の奴国が後漢の光武帝に朝賀したちょうど50年後、

「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献ず。(安帝に)見(まみ)えることを請い願えり。」

という記事に書かれている。

「倭国王帥升」がそれである。この「帥升」が後漢の6代目「安帝」(在位107~125年)の即位の年にはるばる貢献しているのだ。私はこの「帥升」を「ソツシヲ」すなわち「曽の男王」と解釈している。

「生口」とは人間のことだが、一般的には「奴隷・奴婢」の類だとされるが、私は中に「留学生」のようなレベルの者がいたと理解している。それが160人とは、いったいどのような船で大陸まで渡ったのか興味が持たれるが詳細は不明である。

永初元年の107年といえば、倭人伝では邪馬台国に卑弥呼が王として擁立されるまでの「桓・霊の間」(桓帝と霊帝の統治の間=147年~188年)、邪馬台国では、

「その国、もと男子をもって王と為す。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」

という有様であったが、卑弥呼が「共立」されてようやく収まったという。

逆算すると卑弥呼の擁立の7~80年前と言えば、永初元年(107年)がそのうちに入り、この「帥升」が後漢に貢献したがゆえに九州倭国で戦乱が生じるようになったのか、それともすでに戦乱が起きており、その収拾を図るために後漢に救いを求めたのか、見解が分かれるところである。

しかし結果として卑弥呼の擁立前の140年代から180年代にかけて戦乱は続いていたのであるから、永初元年(107年)の後漢への「曽の男王」貢献は、戦乱の引き金になった可能性を考えるべきだろう。

107年という時代の「曽の国」はのちの「狗奴国」であると考えるのだが、107年というのは弥生時代後期に属し、この時代相として南九州では遺跡自体も遺物・遺構も大変少なくなっており、あるいは何らかの事情で南九州から人々が北上して熊本県域に居住地を移していたことも考えられる。

その「何らかの事情」については目下検討中である。



邪馬台国の官制について(2)

2024-10-16 10:18:53 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国の位置を述べ、統治組織に見られる「4等官」官制のうち、第一等官である「伊支馬」(イキマ=イキメ=活目)は、邪馬台国自生の官ではなく戦乱(倭国乱れ、暦年主なし=後漢書)に勝利した「大倭」による軍事顧問的な地位の官であるとした。

 <北部九州の一大勢力「大倭」と伊都(イツ)国>

この「大倭」とは別名「五十王国」と言え、糸島を本拠に北部九州では最大の勢力となったのちの「崇神王権」の淵源である。

崇神は和風諡号で「ミマキイリヒコ・イソニヱ」といい、ミマキ(御間城)とは「天孫の王城」であり、イソニヱ(五十瓊殖)とは「五十(イソ)地方において王権を殖やす(伸長させる)」の意味で、朝鮮半島の狗邪韓国(のちの任那=伽耶)を経て、糸島(五十)に定着したことを示している。

その皇子である垂仁は和風諡号を「イキメイリヒコ・イソサチ」といい、こちらは邪馬台国に「イキメ(伊支馬)」として赴任したことがあったことを表している。またイソサチ(五十狭茅)とは「五十(イソ)において王宮とも呼べぬ狭い茅屋のような環境で生まれた、あるいは育った」ことを示している。

この「大倭」こと崇神王権(五十国王権)は、朝鮮半島で西暦204年に公孫度が帯方郡を設置した頃から風雲急を告げだし、代わって魏王朝の楽浪郡・帯方郡支配が始まると半島に別れを告げたようである。そして王宮を糸島こと「五十(イソ)」に移したのだろう。そこで垂仁が生まれた。

五十(イソ)王権が北部九州一帯から南へ勢力を伸ばして来ると、広大な天山山麓の佐賀平野部や筑前の甘木平野にはオオクニヌシ系の「厳(イツ)奴」が勢力を張っていた。必然的に両勢力は干戈を交えた。これが「倭国乱れ、暦年主なし」の状況である。

佐賀平野部から筑前朝倉までを支配していた「伊都(イツ)国」王権の大国主(別名八千矛命)は敗れ、一部が厳木(イツキ)町に追いやられ、大部は出雲(イツモ)に流された。

この時、邪馬台国女王の卑弥呼は軍事力ではなく霊能力で(神のお告げで)、疲弊した北部九州の勢力の間に立って矛を収めさせたに違いない。

しかし南部には虎視眈々と北進を狙う「狗奴国」(菊池川以南の熊本県域を統治)の存在があり、これを危惧した女王卑弥呼は「大倭」による軍事介入を願い、その証として第一等官に「伊支馬(イキマ=イキメ=活目)」という最高顧問を置いたのだろう。

 第二等官「彌馬升」

これは「ミマショウ」と読めるが、「ミマ」は天孫、皇孫の「孫」(みまご)であり、一般的には「血筋、血統」が該当する。

「升」は「ショウ」だが、私は「シヲ」の転訛だと考える。つまり漢字化すると「~之男」になると思うのである。

この解釈で行くと「彌馬升」(ミマシヲ)は「血筋の男」となり、卑弥呼の一族から選ばれた男子が二等官になっていたと解せられる。

倭人伝では女王国のこれら官制を記したあとに国内の風俗・風習・物産などがかなり詳しく書かれるのだが、最後の方で、

「その国、元また男子をもって王と為す。(中略)相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼、鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿なし。男弟ありて、国を治むるを佐(たす)けり(後略)」

とある。ここに登場する「男弟」こそが二等官の「彌馬升(ミマシヲ)」に違いない。

鬼道というシャーマン的な神のお告げを述べる卑弥呼には当然、行政的な能力はないから補佐役の者が必要で、その任を担っていたのが卑弥呼の一族どころか親族である弟だったということが読み取れる。

 第三等官「彌馬獲支」

これは「彌馬(ミマ)」までは二等官と同じ「一族の」の意味だが、次の「獲支」がまずどう読むのかが定まらない。

「獲」はどう読んでも「カク」であり、そうすると「獲支」は「カクシ」もしくは「カクキ」だろう。

倭人語としての「カクシ」も「カクキ」もその意味は思いつかないのだが、二等官の「彌馬升」の解釈で引用した倭人伝の部分を引用してみると、先の続きは次のようになっていた。

「(卑弥呼は)王となって以来、まみ(見)え有る者少なく、婢千人をもって自らに侍らせり。ただ男子一人有りて飲食を給せしめ、辞を伝えて出入りさせり。(後略:このあと宮室・楼観・城柵の記述が続いて終わる)」

男弟が王国の統治を補佐していたとある後に、宮室に籠って人目に触れることはないが、婢千人を自分のまわりに置いていたという。

本当に千人もいたのかは極めて疑問で、多くは召使なのだろうが、中には卑弥呼同様の霊能力者がいて卑弥呼の霊能力発揮の加勢をしていたのかもしれない。その千人の婢を取り仕切る女官長がいてもおかしくはない。それを邪馬台国では「彌馬獲支」(ミマカクシ)と呼んでいたのだろう。

この「彌馬獲支」も「彌馬」を冠しているので、卑弥呼の一族から選ばれた女性(女官長)だったはずである。

 第四等官「奴佳鞮」

最初の「奴佳」は「ナカ」と読める。最後の「鞮」は「テイ」と読むが、そうすると「ナカテイ」となる。

この官職も先の「彌馬獲支」解釈で引用した部分の「ただ男子一人有りて、飲食を給せしめ、辞を伝えるに出入りさせり。」という役職に当たる官だろう。

この官職は卑弥呼及び卑弥呼に仕える女官たちが神懸かりで得た言葉を受け止めて、邪馬台国自生のトップ官僚である男弟と卑弥呼の間を取り持ち、卑弥呼らの言葉を王国の施策に及ぼす重要な役目だと思われる。

私は「奴佳」を「ナカ(中)」に取り、「鞮」は「テ」と考える。つまり「ナカテ」で、漢字化すれば「中手」である。

「手」はあの仲哀紀と筑前風土記に登場する「五十迹手」(イソトテ)の「手」すなわち「ある役目の人物」の意味に取りたい。後の「中臣」(ナカツオミ)に相当する役職であり、神事を司る役目であろう。




邪馬台国の官制について(1)

2024-10-15 14:54:25 | 邪馬台国関連
 九州邪馬台国に至るまでの道程

邪馬台国は、中国の晋王朝時代の西暦280年頃に史家の陳寿という人が書いた歴史地理書『三国志』の中の『魏書之三十・烏丸鮮卑東夷伝』に描かれた倭人国家群の卑弥呼女王を頂いた国家であった。

その王国の位置をめぐっては九州説と畿内説に分断され、論議に収拾を見ないでいるわけだが、私は2003年に出版した『邪馬台国真論』において、九州は八女説を主張しており、もう20年経つが結論は微動だにしていない。

そもそも朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで魏の使節が辿った「行程」(方角・距離・日数)を素直に解釈すれば、「伊都国=糸島」説は有り得ないのである。

まずは最も簡単に畿内説では有り得ない論拠が、倭人伝中の一文「郡より女王国に至る、万2千余里(帯方郡から女王国まで1万2千里余りである)」である。

これからすれば、帯方郡から九州島の北端末盧国(唐津市)まで水行で1万里であり、残りはわずか2千里余りであるから、この2千余里では陸行にせよ水行にせよ畿内までたどり着くはずはないのである。

末盧国に上陸したあとは東南に500里陸行して「伊都国」、さらに東南に100里で「奴国」、さらに東へ100里で「不彌国」。ここまでで1万700里、残りはわずか1300里しかない。この距離ではさらに畿内説は不可能ということになる。

以上により畿内説の成り立つ余地はゼロである。

ところが九州説でも、ここ(不彌国)から文の続きで「南至る、投馬国。水行20日。官は彌彌といい、副(官)を彌彌那利という。五万戸なるべし。」というのを「不彌国から続いている国だ。不彌国から船出して20日行った所に投馬国がある」と勘違いしている論者がほとんどなのだ。

この「南至る投馬国、水行20日」とは、帯方郡からの「水行20日」なのである。つまり投馬国は帯方郡から船で南下して20日のところにあり、九州島北端の末盧国(唐津市)までの水行日数10日の2倍の距離にある南九州(古日向=戸数5万戸)を指している。

同様に投馬国からの続きに書かれている「南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月」とは投馬国と同様、帯方郡からの「水行10日、陸行1月」なのである。

つまり邪馬台国は帯方郡から船で南下して10日の距離(距離表記では水行1万里)にある末盧国(唐津市)に達し、そのあとは徒歩の行程(陸行)で1か月かかる場所にあると言っているのだ。

私は唐津市から松浦川を遡上して至る山中の「厳木(きゆらぎ=イツキ)」を「伊都(イツ)国(戸数千戸)」に比定しているが、ここまでが徒歩で500里、5日の行程だろうか。

伊都国からは下りになり、徒歩100里で「奴国(戸数2万戸)」、さらに100里で「不彌国(戸数千戸)」、それぞれ徒歩で1日の行程だろう。佐賀平野の西部の小城市から大和町が比定される。佐賀市は当時まだ干潟の中にあったと思われる。

さて唐津に上陸してから陸行2千里のうち700里で佐賀平野の西端に至ったのだが、あとの1300里について途中の小国家群が書かれていないのが不審だが、唐津から小城市までの距離の2倍弱に当たる場所に女王国があるとしてよいだろう。

不彌国からは佐賀平野の北に聳える天山山塊の麓を東に行き、筑後川を渡り、久留米市あたりからは南下し、今度は耳納山系の西麓を通って八女市に至るまでの距離がちょうど該当する。

そこが卑弥呼女王の都した(八女)邪馬台国である。

 邪馬台国の官制

邪馬台国までの行程を記述した陳寿は、邪馬台国及び九州島の風土・産物・風俗などを書く前に、早くも邪馬台国の統治組織の最重要部である「4等官」について記録している。

もっとも邪馬台国への行程上にある対馬国以下不彌国までの小国家群についても、ヒコ・ヒナモリ・ヌシ・シマコ・ヒココなどの(統治者の官名)を書いているのだが、邪馬台国の官名はさすがに30か国の小国家群を統治している大国らしく女王「ヒミコ」は別として、4つの官名が見える。

「官に伊支馬あり、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。」

① 伊支馬(イキマ)

「イシマ」とも読めるが、私は「イキマ」を当てている。

このイキマは第1等官である。私はこれは「イキメ」の転訛だと思っている。

漢字を当てれば「生目」あるいは「活目」だろう。

「生きた目」ではなく「目を活かす」の方が役人の名としてはふさわしい。

江戸幕府の官制で「大目付」というのがあったが、役割としては似ているが、大目付は最高官職の老中の下にあり、一等官ではない。

邪馬台国のこの「活目」は実は邪馬台国自生の一等官ではなく、他国から置かれた官であると私は考えている。

その他国とは「大倭」だろう。邪馬台国は北部九州に勢力を扶植していた「大倭」によって監視されていたのだ。保護国になっていたと考えても良い。

「大倭」は、倭人伝に「国々に市あり。有る無しを交々易える。大倭をして之を監せしむ。」とあるが、この大倭はさらに伊都(イツ)国に「一大卒」つまり軍隊を置いて邪馬台国以北の国々を見張っていた――とあり、邪馬台国にとっては一種の占領軍に他ならなかった。

(※伊都(イツ)国について、私は厳(イツ)国と考える。神話に見える八千矛命、すなわちオオクニヌシ系の一大勢力だったのだが、北部九州の「大倭」(五十王国)に敗れ、一部の王族は伊都(イツ)国に押し込められ、大部分の伊都(イツ)国勢力は遠く出雲(イツモ)に流された。
 倭人伝時代の九州島では伊都(イツ)国(所在地は厳木町)だけの小国に成り下がっていた、と見る。)

女王卑弥呼が擁立されたのは「倭国が乱れ、暦年主なし」という戦乱の時代であった。その具体的な年代は後漢書によるとの桓帝と霊帝の統治期間の最中(AD147年~188年)だったとあるが、卑弥が女王になったのは決して軍事力による采配ではなく、霊能力によるものだったようだ。

その軍事力の弱点を補ったのが、「大倭」による占領統治だったのだろう。大倭が派遣した「伊支馬(イキメ)」こそが、言わば女王国の後ろ盾だったのである。

この「伊支馬(イキメ)」の勢力によって、邪馬台国の南部に存在し男王「卑弥弓呼(ヒコミコ)」が虎視眈々と女王国への北進を狙っていた狗奴国の野望は防がれていた。

ところが卑弥呼の後継の台与(トヨ)の時代もだいぶたってからようやく狗奴国が侵略可能になった。「大倭」の派遣する「伊支馬(イキメ)」が不在になったからである。

その時の「伊支馬(イキメ)」こそ、北部九州の一大勢力になっていた「大倭」こと「五十(イソ)王国」(糸島市が本拠地)の「活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイソサチ」こと後の垂仁天皇(崇神天皇の皇子)であろう。

「伊支馬(イキメ)」がいればこその女王国の軍事力なのであった。(続く)



竹田恒泰の日本史教科書

2024-10-13 16:14:26 | おおすみの風景
「そこまで言って委員会」(読売テレビ)は日曜の午後の番組として人気があるが、今回はレギュラーコメンテーターの竹田恒泰氏が中学校用の日本史の教科書を執筆し、文科省に申告していることを取り上げていた。

竹田恒泰氏は旧皇族の竹田宮の出身で、父の恒和氏はオリンピック委員としてその名が高かったが、国際オリンピック連盟(IOC)の某委員に賄賂を贈ったとして取り沙汰されたことがあった。

ただし私腹を肥やしたわけではないので、今回の2021東京オリンピックの開催に当たって私腹を肥やした某広告会社の人物とは一線を画せる人であった。

それはそれとして息子の恒泰氏は才気煥発の人で、歴史には並々ならぬ関心と知識を持ち併せており、歴史教科書を書いたことにさほどの驚きはない。
他のコメンテーターたちの質問に答える竹田氏。

ただ旧皇族という立場であるから、一般的に天皇制擁護の論陣を張るのは予想ができる。

中でも古代史以前の日本文化の発展に関して、一般史学的には中国発祥のものが朝鮮半島経由で日本にもたらされた結果とされているが、そこに異議を唱え、中国大陸からの直接的な伝播の方にシフトすべきだとしているようだ。

稲作にしろ鉄器にしろ銅鏡にしろ、朝鮮経由が全くないとは言えないが、むしろ大陸との直接の交流によってもたらされたとする方が、受動した文物の多様性から見て本流の可能性が高い。

(※先日、鹿屋市の吾平振興会館で肝付町(旧高山町)出身という元新聞記者だった古代史研究家のU氏の講演を聞いたが、氏の説では南九州のクマソは中国南部(呉越)あたりからの渡来人で、先進的な文物を携えて来たゆえ、南九州をはじめ九州各地に勢力を拡大して「九州王朝」をつくり、そこから全国に打って出たそうである。竹田氏のはクマソと特定するものではないが、中国勢力の流れが列島の古代を彩ったと考えているのとは当たらずと言えども遠からずか。)

中で某女史が投げかけたのが「竹田日本史は邪馬台国問題を避けているのでは?」という質問だった。
皇族とはつまり大和王権の系譜につながる者だから、山口女史は当然「邪馬台国畿内説」を教科書に書くものと思っていたらしい。

ところが竹田氏の見解は邪馬台国九州説であった。その論拠は示さなかったが、解釈の上で様々な説があり、中学校の生徒対象の教科書としては煩雑過ぎると考えて、あえて邪馬台国の所在地問題については触れなかったのだろう。

賢いと言えば賢いやり方である。

氏が最も提起したかったのは、古墳時代を「大和時代」とすることだったという。

平安・平城(奈良)・飛鳥と時代をさかのぼり、その次は「古墳時代」となるわけだが、古墳時代にはすでに奈良の古称である大和地方に王権があったのだから「王都としての大和」を時代名にすべきだという考えである。

3~6世紀に古墳という埋葬施設が大小多様に作られたのは史実だが、古墳という考古学的な物だけでは歴史を語るには不十分過ぎる。記紀やその他の文献を捨て去っては歴史の神髄は得られない。

当時の王権の都合のいいように書かれたのも史実であり、そこをどう拾捨勘案して再構成するかが歴史家の腕の見せ所だろう。


被団協にノーベル平和賞

2024-10-12 15:20:46 | 日本の時事風景
今年のノーベル賞の平和賞に日本の被爆者団体「日本原水爆被害者団体協議会」(通称・被団協)が選ばれた。

ノーベル平和賞で日本人が授与されるのは故佐藤栄作元総理以来、ちょうど50年ぶりだ。

佐藤元総理は「非核三原則」を唱えて受賞したが、今度の被団協は同じ「非核」でも根本から違う。

佐藤氏のは地政学的な絡みでの受賞だが、こちらは実際に原爆に遭遇した被害者自身が「核軍縮(非核)の差し迫った必要性を世界に訴え続けて来た」(ノーベル賞委員会の授賞理由)ことが評価された。

核兵器廃絶ではすでに7年前にICAN(NGO核兵器廃絶国際キャンペーン)が平和賞を授賞しているが、その時と同時受賞でもおかしくなかった。

被団協が設立されたのは、1954年にあの米国の水爆実験による被害「福竜丸事件」が起き、その2年後の1956年のことであった。

以来、途切れることなく原水爆禁止のスローガンを掲げてきており、国際的にも行動を広げて来た。

被団協による「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー」が国連で叫ばれたのは象徴的な出来事だった。

遅きに失した感があるが、2年前半から未だに続いているロシアによるウクライナ侵略戦争で、ロシア側の指導者(戦争犯罪人)プーチンが、核兵器の使用を口の端に上せたりしたことが弾みになったのだろう。

加えて、ロシア対ウクライナではロシア側だけの核保有だが、1年前から始まったイスラエル対パレスチナの戦争では、ハマスやヒズボラといった反イスラエルゲリラ組織の核保有国イランとの繋がりが明確になった。

このイスラエルとイランの対立はまさに核保有国同士の対立であり、そうなると双方で核の先制使用が取り沙汰される可能性が出て来た。

この対立に冷や水を浴びせる意味でも、日本の核廃絶主唱団体である被団協が平和賞を受賞した意義は大きい。

しかしながら日本政府は相変わらず、「米国の核の傘による戦争抑止力は絶対に必要」と、口では「核廃絶」(昨年の広島サミットにおける岸田首相の言葉)を訴えるのだが、全くの二枚舌であり、ますます世界の顰蹙を買うに違いない。