精神と物質

精神生活と物質生活のバランス

ライアーゲーム感想文

2014年09月24日 06時12分16秒 | 文章表現術


昨夜、『ライアーゲーム1』を読む。シナリオとしてヒットする要素が要所にあると思われ、そのへんを明確にすることは文章表現の道においても役に立つ気がするのだが、最後のクライマック過ぎた部分のストーリー展開に若干ひっかかるところがあり、それについて書いてみる。

……というわけで、以下ネタバレになるのでまだ読んでない人は読んでからどうぞ。

せっかくゲームに勝ったのに自分の取り分の5千万円を先生にあげる超お人好しの主人公。その上、協力者の詐欺師まで5千円を先生にあげる。

道義的にみてこの行為は正しいのか?

金に目がくらんで教え子を騙し、不幸に突き落とそうと平気な先生を同情から許し、その罪さえもご破算にして五千円をポンとあげる、という行為は道義的には正しいとは私は思わないのだが、しかし、一億の負債を抱えて生きるのか……と考えると、たぶん死ぬな……と想像がつくわけで、そうすると、いくら極悪人でもそんなところに追い込むようなことをしたらまともな良心があれば「自分を許せない」と罪の意識にさい悩まされるかもしれない。それに、そうした慈愛によって先生が改心する可能性はある。と考えれば道徳的といえよう。

人を不幸にして手に入れた金を使って幸福になれるわけがない、と考えられる感覚というのは健全な道徳意識である。

つまりこのストーリーの結末は道徳的に正解なのだ。

……だが、残念な点はせっかく主人公達に道徳的に正しいことを行わせながら、とってつけたような不自然な行為に読者が感じるような展開にしてしまっている点である。しかし、好意手的に解釈する江波、そうした表現はマンガより小説のような形式のほうが 描きやすいのかもしれない。