かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

日本の歴史11 徳川社会のゆらぎ

2012年09月10日 | Books


日本の歴史シリーズも、11巻目。出てから、4年後にやっと読んだ。

綱吉、白石、吉宗、田沼の時代の話。徳川幕府が、安定して、ひじょうにいい時代だったイメージを持つが、とんでもんない。
災害は多いし、経済は混乱するし。たいへんな時代だった。本書は、それらをまとめて、停滞の時代と呼んでいる。
政治、経済、庶民生活等、バランスよく解説してくれるが、やはり、天変地異の凄さに驚く。
先日話題になった南海トラフの大地震が発生。推定マグニチュード8.4。伊豆半島から、九州まで、広い範囲で、大津波が押し寄せた。その49日後、富士山が大噴火。直接の被害もさることながら、その後の神奈川県の西北部の治水に、長年苦しめられた。週末うろちょろしている地区だ。
同じことが、今の世で起こったら、その被害は、より甚大になることは、間違いない。

庶民の生活も、資料が多くなり、かなり分析が可能である。
民族としての生活サイクルは、「ケ」と「ハレ」の循環構造だったという。「ケ」は働く日常で、「ハレ」は、遊ぶ非日常だという。
働くエネルギーが枯渇した状態が「ケ枯(ガ)れ」で、その場合、日常を離れてエネルギーの充填が必要。そのたびの遊びが遊山だったという。
今の人々の生活とそう変わらないではないか。

通貨制度も大混乱。金貨と銀貨が入り混じり、その質の劣化が、経済の混乱に拍車をかけた。
藩札なども生まれたのだが、仙台藩は、仙台通宝という品質極悪の鉄銭を流通させ、それが、藩外に流通したことから、ますます混乱に拍車をかけたという。
この辺は、流石に今の経済学の方が、全然進んではいる。

仙台藩と言えば、赤子押返し禁令を出したのも、仙台藩という。押返しというのは、間引きのことで、資料から、相当の間引きが行われていたことが明らかという。当時、成人まで育つ確率が低かったものの、多くの子供を育てる経済力もなく、庶民の悩みは深かったようだ。
間引きを禁止のため、藩によっては、産後養育費制度なども作られたという。

ちなみに、昭和22年の平均寿命は、男50.1歳、女54.0歳。その50年前で、男42.8歳、女44.3歳!!
江戸時代では、5歳まで育つ確率が低かったため平均寿命は、もっと短かったと思われるが、5歳まで生きた後の寿命は、意外と長かったという。
いずれの平均年齢も、とっくの昔に、通り過ぎてしまっていることに愕然....
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日本の歴史8 戦国の活力

2012年09月09日 | Books
今日も、ゴルフだったがピリッとせず。天気のせいにはしたくないが、32度で、暑さとの戦いだったとしておこう。吹く風が、秋らしくなってきたんだけどね。



戦国時代の話は、ドラマや、小説など、いろんなところで、接する機会があるから、何となく擦り込まれて、皆それぞれの戦国大名に対するイメージを持っているだろう。

特に、信長、秀吉、家康が、最も有名な3人ということになろう。

そもそも戦国時代はいつからかということ自体議論がある。応仁の乱からという考え方もあるが、1493年の将軍交代制からという考え方が主流という。どこで終わったかというのは、もっと議論があり、信長が将軍を追放した1590年、秀吉が、北条氏を滅ぼした1590年、大坂夏の陣の1615年という説まであるという。つまり、室町時代の後半、群雄割拠の時代になり、完全に江戸幕府が日本を統一できたのは、大阪夏の陣となる。何と200年近く!も、ごちゃごちゃな時代であったということになる。

一向一揆との関係も面白い。室町幕府への不満から、一向一揆が頻発したが、応仁の乱が激しさと増すと同時に、一向一揆は収束したという。つまり、戦国大名の戦いは、一向一揆に加わっていた民が、各戦国大名の下に集結し、戦いに加わっていたと考えられるのだ。

本書は、時の流れに沿って、戦国大名を次々登場させ、その主な功績と、特徴を浮彫にしている。
面白いのは、信長までは、それまで勝ったり負けたりしていた大名の一人ととらえており、秀吉と、家康を、その後の時代を作った人物と捉えていることだ。
確かに、信長は、まだ統一途上だったから、国づくりまでたどり着いていなかったという見方もできる。

当時は、統一した幕府というものが実体を失っていたため、正史は存在しない。そんな中、詳しい日記をつけてる人がいて、その記述が、当時の様子を探る重要な手がかりになるという。
それを見ると、談合と、打ち上げの飲み会の連続だった様子も浮彫になる。今と変わらない?

江戸時代も、目前になり、ずいぶん身近な時代になってきた。
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日本の歴史7 走る悪党、蜂起する土民

2012年09月08日 | Books
今日は、ゴルフだった。前半乗り切れなかったが、後半はまずまずだった。
ただ、ゴルフにはまだ暑い。



話が前後するが、7巻、8巻の話を載せそびれたので、ちょっと復習。

本書は、南北朝から室町時代の話。
後醍醐天皇が、南朝を立てて、足利尊氏が、南朝を裏切ってなどというイメージが漠然とあるのだが、もっともっとドロドロした複雑系の時代であったことがわかる。
後醍醐天皇というのは、あれだけのことをしたのに、相当の変人だったようだ。
天皇の政治に戻そうとする発想はわかるにしても、武士の力を使うのか、貴族の力を使うのか、はっきりせず、足利家の台頭を招く。

ところが、この足利家が、また代が変わるごとに、ころころ変わる。特に、義満、義持あたりから、権力指向になり、貴族化する。明と断交しながら、中国好みだったという。
そして、国が乱れて、応仁の乱に突入。

どうしても、今の政治とダブって見えてしまう。
この混乱が、さらに戦国大名の台頭を招き、戦国時代に突入する。

橋下市長が天下とり?東国原元知事が幹事長?中田元市長が、官房長官?
リベンジの立場の党の顔が決まらないという異常事態。
今の天下が、誰の天下なのかすらもよくわからなくなってきた。
いずれにしても、国会が機能を止めてしまったのだから、さっさと作り直して、再出発しないと、何も動かない。その内に、だんだん国が衰退していく。
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日本の歴史10 徳川の国家デザイン

2012年09月07日 | Books


小学館の歴史シリーズも、ようやく2桁まで来た。
時は、江戸初期、あの300年の太平の世の基礎が築かれた時期だ。

本書は、オーソドックスに、政治、経済、そして庶民の生活、街作り等、バランスよく触れてくれる。
学校で習うのは、政治中心だから、本書の方が、とてもリアルだ。当時のにおいがよく伝わってくる良書だと思う。

最初の部分は、まだ戦国時代。信長、秀吉、家康のつばぜり合いの様子が、史実を元に分析される。
例えば、お城。この3人が、これだけ、多くのお城を作っていたとは。京都、安土、大阪、名護屋(九州)、伏見、駿府、江戸。これらのお城が、16世紀後半から、17世紀にかけて、次々作られ、落城するものは、落城していった。
ただ、メインで残ったのは、江戸と京都(二条城)なのは、ご存じのとおり。
特に、江戸は、ニュータウンと言えるような状況で、最初は、渦巻き状に、譜代、外様、旗本、町人といった区分けがなされていたという。
1657年の大火で、江戸の過半が焼け、街の構造も変わったのだが。それにしても、すごい火事だったのだ。

秀吉の刀狩と検知も、社会に大きな影響を与えた。当時、収穫の2/3を治め、1/3が生産者に残るというシステムだったという。それに比べれば、消費税なんてかわいいもの?

例の朝鮮通信使についても、またまた触れられている。対馬の宋家によって、日本国王とされた徳川家は、その後、日本国大君と称号を変え、朝鮮との外交関係を詭道に乗せた。
日本側は、朝鮮通信使を、公儀の威光をたたえる使節と解釈し、朝鮮側は、朝鮮に朝貢する(対馬の)宋氏に先導させた日本巡察使と位置付けていた。
完結に整理してくれているが、複雑なごたごたがあった。

農村の生活もずいぶん変わった。当時の農業は、資源循環利用のクローズシステムだったという。確かにそうだ。得ているのは、太陽の光と、水。釜の刃などの、金属製品は、交流によって得た。今の印度もかな?

大阪の商業都市という位置づけも、そのころ確立したものだ。日本各地からの船は、大阪湾に集まった。特に大阪南部。大阪城より、ずっと南のエリアだ。

入り鉄砲と出女も、よく聞くが、実際は、鉄砲も、女も、双方向、厳しくチェックされたという。女の移動には、かなりの制約が課せられた。

まさに、戦国時代から、江戸政権が確立するところまでの、歴史をわかりやすく、説明してくれる本だった。
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日本の歴史9 「鎖国」という外交

2012年09月06日 | Books

最近、つらつら読んだ本の話をしばらく。



小学館の日本の歴史シリーズも、9巻まで来た。
本巻は、ちょっと異色。まず表紙がベンガラ?著者が、アメリカ人(イリノイ大学教授)。そして、歴史本というよりは、江戸時代の外交にトピックを絞った、テーマ本だ。

その異色な試みは、成功しているように思われる。とても、興味深く読めた。

江戸時代は、鎖国で、国を閉ざしていたと習った我々世代には、びっくりなのだが、今は、鎖国とは言っても、諸外国と、交流していたことが明らかになっている。鎖国という言葉自体、最初に使われたのは、19世紀初頭だ。松平定信が、過去を定める中で、当時の外交政策が、しくみとして認識された。そして、鎖国という言葉が、その後に生まれた。そもそも、最初の目的は、キリスト教への制限だった。

一番わかりやすいのが、先日、福岡市博物館でも見た、朝鮮との交流。朝鮮通信使が、日本に訪れ、江戸まで(時には、日光まで)行列している。徳川幕府が、国際的に承認されている宣伝材料に利用されたと考えられている。成立間もない、徳川幕府の権威づけだ。だから、いやがる朝鮮通信使をいろんなところに引きずり回すことになった。秀吉が朝鮮を攻めて、持ち帰った朝鮮人の耳や鼻を供養した耳塚まで連れて行ったというから、朝鮮人にとっては、噴飯ものだ。何故応じたかというと、清の脅威が迫っていたという事情による。

そんな中、明が清に攻められ、幕府に援軍派遣の要請もあったという。幕府は、検討したが、そうこうしている内に、明は敗れ、援軍派遣は、実現しなかった。

当時、江戸幕府の情報ルートは4つあったという。
一番ピンとくるのが、出島を経由したオランダからのルート。その他に、長崎にたびたび来訪した中国人ルート、琉球経由で、鹿児島に訪れた中国人ルート、釜山から、対馬に訪れた中国人ルートだという。中国との交流は、極めて盛んだった。

あまりにも盛んで、日本の銀、銅が、大量に流出したため、輸入を減らすため、国内の農業振興を図ることになったという。

日本に最初に訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人だが、その驚きは、想像を絶するものがあった。当時、世界は、三国(日本、中国、天竺)からなると思われていたのが、そのもっと先から、見たこともない人が突如現れたのだ。天竺でさえ、とんでもない遠くの世界だった。ザビエル達のことも、天竺人と呼んでいた。唐のかなたは、そん他遠方だった。

面白かったのは、毛唐の由来。毛唐は、欧米人を侮蔑する意味で、使われているが、元は、日本人と、朝鮮人、中国人を区別する約束事みたいなものだったという。絵を描くとき、日本人と、他国の人を区別するために、他国の人を毛むくじゃらに描いたのだ。
それが、段々今のような使われ方になった。

興味深かったのは、日本人の朝鮮人蔑視思想の原因。特に、明治に入ってからも、征韓論などが、すぐ議論されるベースは、松下村塾の教えにあるのだという。それだと、明治時代以降の、政府の、朝鮮に対する政策も理解できる(イエスという意味ではなく、その理由がわかるの意)。

最後に富士山の話。加藤清正が、朝鮮半島を経て、中国東北部まで、攻め入った時、そこから富士山が見えたという話が、事実化し、琉球から富士山を見た浮世絵などが好んで描から、その傾向は、明治時代まで続き、軍国主義に利用もされた。
富士山は、ヒンドゥ教、仏教のカイラス山みたいな存在だったのだ。

本書の切り口は、今の日本人の世界観を考える上でも、斬新だった。アメリカ人を著者に選んだ編集者に拍手である。

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