花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

心柱神社に参拝しましょう。遠慮なされず。

2019年04月09日 05時55分55秒 | 感謝の心柱

 

こんにちは。大和藍足袋衆さんから言文が届きました。

わたしたちの心には,高天原と言う神界「心界」が広がっています。その心界に広がる高天原には,鎮守の森があります。この鎮守の森には湖畔もあれば,清らかな水が流れる清流も存在しています。夜になれば満天の星も出現します。言ってみれば人の汗や涙はその清流から流れ出た御神水でもあります。鎮守の森に立つ木々が心柱(こころのみはしら)と云うものです。たとえば,感謝の木や謙虚の木や奉仕の木など「十柱:御神木」が茂っています。さらに,その鎮守の森の奥深くには神さまが坐します御宮(御正殿)があるのです。こちらが今日の表題でもある心柱神社(みはしらじんじゃ)と申します。この世とあの世を繋ぐ神社です。

そして,その心柱神社に御祀りされている神さまは心神(しんしん)と言う根源神から派生した神さまです。産土の神(うぶすなかみ)と云う言葉を聞かれたこともあると思います。わたしたちがこの世に誕生し,人生を終える最後まで共に歩む尊い神さまで御座います。御座いますと言っても,上記の話は,わたし個人が感じるままに書いていますので,感じ方も考え方も人それぞれあると思います。したがいまして,上の言葉は,私の心柱神社から届いた御言葉と言うわけです。それと,心神(しんしん)と云う言葉は,伊勢神宮「伊勢神道」に伝わる言葉で自己の中に坐します神さまの分御魂を表現する場合に心神「しんしん」と申し上げています。

巷では,いろいろな言葉で表現されているようですが自分なりで良いと思います。

そう云った呼び名よりも大切なのは,自分の心の中に存在する心柱神社に参拝すると云うことであり,それには,自分自身の内面を見つめること,自分の心の中に坐します根源神の分魂を宿しているのだと云うことに気が付くことにあるのであります。外在的な拠り所よりも内在的拠り所こそ人は意識を向けるべきなのであります。過去幾多の宗教家も偉人も先人も最後の最後には,やはり自分自身の心の中に何かを見出して生きて行ったのです。これは,古神道の根本的な考え方です。人の心の中には,誰であっても神さまの分魂が内在しているという意味です。どんな悪人でも心の中には尊い神さまが坐しています。生れながらにして宿しております。

親鸞さんは,悪人正機と云う言葉を残されました。

仕事や家事で忙しく働いている方であっても,自分の心の中の神社であれば,いつでも,どこにいても参拝できると思います。神社で祭祀を司る宮司も,神社をいつまでも守護する護司も自分自身です。他人ではなく,自分自身です。これは他人である第三者には決して出来る事ではありません。自分だけの唯一存在する高天原と心柱神社を放置し続けると高天原は荒廃し,湖畔や清流の水は濁り,心柱神社は朽ち果ててしまいます。古神道の感覚では,自分自身の心の現れが自分の私生活に現象として現れて来ると云う言い伝えが御座います。一番如実に表れているのが家や部屋の掃除具合だとも聞いたことがあります。掃除については,またの機会に。

生きることに疲れてしまうのは,それだけ働いている証拠です。

生きることが嫌になってしまうのは,それだけ真直ぐな証拠です。

遠慮なさらず・・・・。参りましょう。拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


古神道入門 神ながらの伝統 4 再掲載

2019年04月06日 06時19分51秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

今日は,神主さんでもあり,古神道家でもあった小林美元先生が生前に書かれた著書「古神道入門 神ながらの伝統」の4を同書から一部を抜粋して前回同様,書かせて戴きたいと思います。上の写真は,ご存知の方も多いと思います。二見興玉(ふたみおきたま)神社の夫婦岩で御座います。いつも二見興玉神社に参拝させて頂くときには,こちらで海の神さまへ祈りを奉げています。

昔の人々は,伊勢詣と云えば,この二見が浦の海で禊を済ませてから伊勢の神宮へ詣でると云うことが習わしでしたが,時代の移り変わりで参拝の習わしも徐々に変わって来ています。古神道の世界観や古神道家の間では,この夫婦岩は「イザナギの神:男神」と「イザナミの神:女神」としています。そのイザナギの神とイザナミの神の間から太陽神「天照太御神」が誕生すると言われているのです。5月から7月の間にちょうど夫婦岩「夫婦神」の間から日の出の太陽「天照太御神」が昇るようすを観ることが出来ます。

それでは,以下,古神道入門 神ながらの伝統より。小林美元 著

第5章 弥栄(いやさか)の思想と信仰

なぜ,政治を「マツリゴト」というのか。

何度も申しますように,日本語というのは非常に古くから天体の動きを四十八の文字に写していました。あおうえい・かこくけきという一音,一音の声音が,宇宙を象徴的にあらわす符号として整序しておりました。

現代人が想像する以上に,宇宙の原理には精通していたのです。

ですから,

伊勢神宮の恒例のお祭り,二十年に一度行われる御遷宮のようなお祭りにしても,天体の動きに合わせて行われる。祭りを行う月と日と時を非常に大事にして,神代ながらに古代からのしきたりを厳重に伝承して行われてきております。

例えば,御遷宮の祭りは,北斗七星の運行と関係があります。

夕方七時頃,北極星の右上にあった北斗七星が時刻がたつとともに北極星の真上になり,それからだんだん時計の針と逆方向の左へと回っていきます。そして北極星の位置が,ちょうど北斗七星の柄の先の勺のところにくる時間に,神さまに勺で食事を捧げるということで,祭りが進められる。

この一例を見ても,天体の動きと祭りというものが,いかに密接にかかわっているかということが伺われるわけです。そういうことですから,村人の生活がまた社会的な発展に伴って段々と大きくなって,国として発展していく段階になっても同様に,その組織体を統御するために祭り事を行う。

そして国の祭り事が,そのまま村々を統治することになり,いわゆる政治にもつながっていく。

宇宙のカムとの深い関係,交流の中で,村人を一つに束ね結わうことが,祭り事でした。カムの意思に基づいて正しい統治を行なうという,政治の思想の姿があったわけです。だから政治を司る者は,少なくとも宇宙の運行とか自然生命に対する畏敬の念をもった人でないと尊敬もされず,その長たる資格がなかった。

明治の頃までは政治のことを政り事(まつりごと)とも称していましたが,しかし実際歴史的にみると,聖徳太子のように本来の意味での「祭り事」を意識した政治家は少ない。まして今日,政治というと,何やらどろどろとした権力闘争や駆け引きなどをイメージします。政治とは,「マツリゴト」であるということを忘却の彼方に押しやったかのようです。

以上

現代の政治家のみなさんにも読んで頂きたい内容であります。今では,魑魅魍魎の世界となり,ほとんど貴族化している政治家の人たちの頭の中に政治とは「祭り事」であると考えている人がいるのでしょうか?言葉では選挙が近くなったりすると綺麗な言葉を並べますが,日々の政治活動との差は激しいものであるようです。おくそくですが,国体と政体との区別すら理解していない政治家がいても不思議ではなくなってしまっています。これは国家存亡にかかわる重大な事柄でもあるのです。国体とは「祭祀」です。政体とは「統治」です。即ち,祭祀の中心の座に座ることが出来るのは天皇陛下だけであります。そして,統治を司る頂点に存在するのが内閣総理大臣であります。自分は政治家であると言うのであれば,最低これくらいは深く理解して戴きたいと願うばかりです。

 ※ 天皇陛下を祭祀の頂点と表現する人もおりますが,これは違います。頂点ではなく中心です。

   天皇陛下を祭祀の頂点とした明治・大正・昭和の歴史を想い出してください。

    結果,天皇に剣を持たせ軍服を着せたのです。これは,大きな罪です。天皇が持てる剣は,草薙の剣だけです。

ところで,記事本文中に伊勢神宮の祀り事について記載されているように,式年遷宮や恒例祭事の際には,天体の動きに合わせながら執り行うと云うことが書かれております。つまり,北極星や北斗七星をお祀りしているのが伊勢神宮でもあるのです。ここでもう1つ古神道家の間で語られている大切なことを書かせて戴きます。伊勢の神宮は「内宮」と「外宮」の2つの御正宮が御座います。

その2つの御正宮の内,外宮にお祀りされている神さまを豊受大神と一般的に称されますが,その際に,内宮にお祀りされております天照太御神の食事を司る神さまであると云う語り(現在の定説)がありますが,この意味を取り違いされている方が結構,多いのであります。外宮にお祀りされている神さまは「地球神:国常立大神」で御座います。国常立大神をお祀りしていると云うことは地球上に存在するすべては,国常立大神さまのもので御座います。そのことが取り違いされてしまい,外宮の神さまは,内宮の神さまの食事を司る神さまだと解釈されてしまったのです。きっと,過去の文献などに基づいてそのような解釈が通説となって行ったのだと思いますが,外宮は,内宮よりも遙か昔に祭祀場として存在しておりました。つまり,内宮よりも外宮の方が古いのです。

またいつか,機会があればゆっくりと書きたいと思います。

毎晩,北斗七星に祈りを奉げていると「和する事」と声なき声が聴こえて来ます。

北斗七星が大好きな花咲でした。拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


生きることが辛く苦しい人へ。

2019年04月05日 05時46分49秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

がんばって!と言っても,最早そんな言葉は通用しないほど何かに傷ついてしまったり,人が誰も信用できないくらいまで落ち込んでしている人もいらっしゃると思います。ですが,どうかそんな時にでも心の燈火だけは消さないでいて下さい。種火でも良いので心の燈火を消さないで戴きたいのです。人のことを棚に上げて,こんなことを書かせていただく立場ではありませんが,清く生きよう・正しく生きよう・美しく生きよう・正義が絶対と考えれば考える程,わたしは真理から遠ざかってしまう気がするのです。

これは,とても誤解を招く言い方かも知れません。清く正しく美しく生きることがどうして真理から遠ざかってしまうのだと言われれば返す言葉は,わたしにはありません。しかし,これらの言葉の本当の意味は違ったところにあるのではないかと考えています。たとえば,清らかな水だけを呑んでいては,濁を呑み合わせることが出来ません。清濁併せ呑むと云う言葉が示す通り両方を知ることで本当の清らかさが判るのではないでしょうか。蓮の花も然り,綺麗な蓮の花を咲かせるためには濁水が必要で在るようにです。

わたしたちが想い悩むことが自分の私利私欲のことであるならば,その想い悩みは消え失せることはないようにも感じています。なぜならば,たとえその問題に答えが見つかり,解決できたとしても人間は,さらなる欲を抱き,迷い込んでしまうからであります。人はなぜ生まれ,なぜ生きるのか?これは人生最大のテーマだとも思います。なかなか答えを見つけ出すこともできません。辛く,自分だけの力ではどうすることも出来ない困難な事に直面すると,正直な話し,つい他人と自分を比較してしまうこともあります。

そう云った意味においては,わたしも同じであります。ただ目の前のことに全力で取り組んでいても,心のどこかで自分はなぜ生まれて来たのか?どうして生きているのかを心神と自問自答している日々でありました。しかし,もしかすると私たち人が生まれ,生きる本当の目的と云うものは人を養うことにあるのではないかと感じるようになって行ったのです。更に,人を養うと云うことは凄いことなんだと云うことも理解出来ました。人を養うと言っても,例えば,親や家族の生活を養うと云うことだけではありません。

自分のことだけではなく,誰かの為に,何かの為にと云う気持ちです。

そう自問自答しているといつの間にか人は強く成長できるのだと云うことも解かりました。わたしの場合,その一念で毎日生きて居られるようなものです。たぶん,自分の事だけを考えて生きて来たら,今の自分は居なかったと思っています。ただ,それも自分の事だけを考えて来た結果に過ぎず,自分の事だけを考えて来たことで得られたのだとも思っています。たとえば,お釈迦さまが悟りをひらいたと云われる話しに,苦行が悟りをもたらしたと云う説が一般的ですが,わたしの感じるままに言わせてもらえば,これは全く違います。お釈迦さまが悟りを啓くことが出来たのは,貧しい女性による慈悲「思いやり」であります。苦行ではないのです。

人の優しさ,思いやりに触れた瞬間にお釈迦さまは悟りを啓くことが出来たのです。肉体を酷使させるような厳しい諸々の修行が悟りを啓かせたのではありません。これが後世になって,お釈迦さまの悟りは苦行によるものだと云う解釈が定説となってしまったのです。こうのようなことを書くと,なら山伏や禅僧の修行は間違いなのか?と言われるかも知れませんが,山伏や禅僧の修行は,そもそも意味合いが異なります。山伏「修験道」や禅僧がする修行は「同体思想」「同根思想」と云う内観に通じるものであります。

今日も纏まりのない記事になってしまい恐縮ですが,どうか自分自身を必要以上に傷つけることだけはしないで戴きたいのです。他人と比較しても迷いの淵に落ちるだけです。山に篭り,滝に打たれを繰り返していても手にしようとしているものは手に出来ません。人を養うと云うことが,この世での最高の慈悲であります。人の為に,何かの為に生きているからこそ人は成長できるように思います。これが本当の修行であるとも感じています。今,生きることが辛く苦しいと感じていても変わる時は一瞬で変わります。

心神を忘れずに居れば,なにがあっても絶対に大丈夫です。

心神とともに。 

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


古神道の秘儀を伝授します。

2019年04月02日 10時10分02秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

今日は,秘儀を伝授するなんて,何だか偉そうなタイトル表現になってしまっていますが,私たち人が生きて行く上でとても有効であり,意義のあることなのでそのことを書かせて戴きたいと思います。ただ,なにか良いことがあると云う先入観では見ない方が良いと思います。いつの日か振り返った時に判ると云う縄文時代以前から続く古神道の秘儀中の秘儀であります。でも,内緒だよ・・・。

古神道には,これまでもブログで紹介させて頂いて来ました通り,秘儀がたくさんあります。現代でも伝わっているものもありますが,その中には正確に伝わっていないものも多くあります。その理由は,お金になることを一部の人が判ってしまったからであるのですが,それはそれとして,古神道の秘儀の中でも特に私がおススメするのが自霊拝と云う秘儀で御座います。霊と云う文字や言葉に違和感がある方は,自励拝と言い換えても良いと思います。つまり,自分で自分を癒やす・励ます・感謝する。これだけです。

この秘儀は最先端の現代医学の世界でも注目されて来ている自己治癒の元であります。

先日も記事で,薬の効用について書かせて戴いた通りです。薬が症状を治しているのではありません。

自励拝を行うに,もちろん,お金も掛りません。おそらく日常生活の中で皆さんが既に毎日されている事です。ちょっとした意識の向け方を変えるだけであります。たとえば,女性がお化粧をするとき「カワイイな」とか「私は目が綺麗だな」とか自分に向けて話し掛けてあげるのです。そうするとより一層,褒められた細胞はイキイキと輝き始めるのです。お風呂に入るときにも自分の身体をさすってあげて「いつもありがとう」と話し掛けて優しく撫でてあげるのです。そうすると身体の細胞が歓びはじめて悪い細胞を退治してくれます。ご飯を食べるときも「私は料理が上手いな」と自分を褒めて上げるのです。そうすると本当に料理が上達します。

こんな言葉を聞いたことはないでしょうか?

米は焚き方,茶は淹れ方。これも古神道の秘儀なのです。

ただし,秘儀ですから注意が必要です。それは他人の前ではしない事と疑いを以てすることです。人の前ですると余計な念が入り込んでしまいますから止めた方が良いですし,それよりも悪いのが疑いを以て自励拝をして行くことです。生きている私たちでも人に疑われながら共にいるのは辛いことではないでしょうか?自分が自分自身を疑うと自分を傷つける選択をして行ってしまうのです。

疑われる自分自身(霊体)は「なんで疑うの?」「いつも一緒に居るのになんで?」「どうして信じてくれないの?」と云う波動を放ちます。しかし,その波動を受け取らずに無視し続けるとどうなるでしょう?その意思の表れです。自分自身を優しく思いやりを持つことが出来て,はじめて他の人へも優しく思いやりが持てるのではないでしょうか。自分が自分を好きなると云うことは,私たちが想像している以上に,私たちの人生に大きな影響を与えているのです。自惚れ・わがまま・傲慢さと云った低次元の波動の話しとは全く違います。自励拝と云う古神道に伝わる秘儀は,文字通り自分自身にしか出来ません。他人が出来るものではありません。

又,厄介なことに病気になってしまった場合も同様です。実際に,自励拝を取り入れている病院も結構,増えて来ています。現代医学が古神道的な考え方を実際の医療現場で活用して行くことが出来れば,飛躍的に患者さんの治癒に役に立つと考えています。病気などになってしまった場合「ごめんね。いつも無理をさせていて」と身体に話し掛けてあげてください。そして患部を優しく,思いやりを以て手を当てて下さい。手当と云う言葉の語源はここから来ています。今日は,日本の古神道に伝わる自霊拝のお話でした。

今が苦しい人でも必ず状況は変わります。

明日があることを信じてください。

古神道 花咲 あさひ 拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。 

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝