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三種神器の鏡と勾玉については高天原の神が自ら作ったもののようです。
しかし剣はヤマタノオロチの尾から出たものとされています。
「八尺瓊勾玉」「八咫鏡」は長さの単位としての八尺、大きな勾玉・鏡という一般名詞であるにもかかわらず「天叢雲剣」だけ固有名詞です。
天叢雲剣は特別な、唯一無二のもののように感じます。
自分たちで作ることが出来なかった剣とはどんな剣であったのか?
妄想をかきたてられます。
高天原がいつの時代の話であるか、どこにあったのか不明なのでなんとも言えませんが、銅鏡を作れるのであれば銅剣も作れるでしょう。
銅剣は九州・中国地方・四国地方に特に濃密に分布していますし、出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しています。
もし本当に草を薙いだ剣なのであれば相当の切れ味ですから、祭祀用の銅剣だとも思えません。(私は草薙とはクシナダの訛りで越の蛇の意だと思っていますが)
では鉄剣なのでしょうか?
中国で製鉄が本格化したのはBC600年頃だといいます。
しかし中国の春秋戦国時代の基本的な武器は青銅製だったそうです。
青銅の加工技術が非常に高く、製鉄技術はまだ未熟で青銅剣の威力のほうが高かったからだとされます。
古代中国の名剣は青銅かつ鋳造で作られたといいます。
柔らかい青銅を鋳て剣を作り、その上に成分量の違う硬い青銅を鋳ることでしなやかさと硬度の両方を兼ね備えた剣を作ったそうです。
ここで気になるのがヤマタノオロチが古事記では「越」とされること。
「越」といえばやはり連想されるのが中国の「越(えつ)」ですよね。呉越同舟の、あの越です。
越王である勾践は名刀を8本所持しており、そのうちの1本が出土しています。
なんとこの越王勾践剣、2千年以上の時を経ても腐食していません。
青銅剣なのですが、表面が硫化銅の皮膜で覆われているためなのだそう。
越(えつ)の歴史は多くの謎に包まれたままのようで、倭国との関係も詳らかになっていません。
魏志倭人伝においても倭人の習俗が越(会稽地域の海辺の住民)の文化と共通性があるように書かれていますね。
越(こし)と越(えつ)が関係しており、越王勾践剣のような剣が持ち込まれていたならば、それこそ自分たちで作ることができない唯一無二のものと言えそうです。
越の勾践に滅ぼされた姫姓の呉も日本列島に来たでしょうし(魏略によると倭人は自ら呉の末裔と言ってますし)、そういった中国大陸から持ち込まれた特殊な青銅剣が天叢雲剣なのでしょうか?
始皇帝のクロムメッキされた銅剣なんかもいいですよね。
稲作の始まりも越あるいは呉から温帯ジャポニカを携えてやって来た人々によるのであれば、倭国や朝鮮半島では作る技術のない青銅剣が伝わっていても良いのでは???
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