古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

懸ける神さま

2020-11-27 20:55:26 | 歴史

天御影神は鉄鐸を作ったとされる天目一箇神と同一神といわれ、私は銅鐸の神だったのでは?と思っています。

近江の御上神社で祀られる神さまです。

この「御影」という神名はもともと御「懸」であり、懸け神などと呼ばれたのではないかと妄想しています。

銅鐸は諏訪の湛神事の神木のような木にかけて使うものだったので、銅鐸神のことを懸け神と呼ぶようになったのでは?と疑っています。

銅鐸がなきものとなり長い年月が経ち、懸けるものがなんだったのか忘れられたことでしょう。

かけるは欠けるに通ずることから、かけ神では不吉に感じられ、ご神影を表す御影という名になったのではないでしょうか?

 

鐸のことを「ぬて」ともいいます。

大野手姫=大鐸姫(おおぬてひめ)の島、小豆島には紅葉の名所「寒霞渓」があります。

もともと神懸だったでしょう。麓には神懸の地名もあります

「縣」になっている地名でももともと「懸」だったのではないかと疑われるケースもあります。

例えば大阪の柏原市にあるその名も「鐸比古鐸比売神社」の所在地は

かつて 大縣郡の大縣村 だったそうです。

銅鐸神と考えられる手力男神は、鐸(さなき)を思わせる「佐那那縣」に祀られます。

熊野那智大社境内社「御縣彦神社」の祭神は八咫烏であり、銅鐸神と思われるアジスキタカヒコネと同一視されています。

 

しかし!

紀伊国一之宮、国懸神宮のご神体が日矛鏡なのですから、すべては妄想に過ぎないのですよね・・💧


弥生時代の奈良盆地

2020-11-24 19:02:11 | 歴史

弥生時代の奈良盆地は豊かだった、中西遺跡や秋津遺跡の水田跡を見るにそう思います。

奈良県御所市の中西遺跡と隣接する秋津遺跡では、弥生時代前期に少なくとも4万3000万平方メートルもの水田が広がっていたことが判明しています。

弥生時代前期における国内最大規模の水田跡であり、九州地方のものよりも規模が大きいのです。

ちゃんと灌漑施設も備わった水田だそうです。

この地では縄文時代にはクリを管理し利用していたのですが、地下水位が上がって荒れ地となったため水田として利用するようになったのではないかとの見解を橿原考古学研究所が示しています。

 

また奈良県磯城郡田原本町の弥生の環濠集落、唐古・鍵遺跡を見てもやはり豊かであったと感じます。

全国からの土器が出土していますし、半島との交流もあったようです。

青銅器の鋳造炉が出ており、銅鐸の主要な製造地であったと考えられています。

秋津遺跡からも唐古・鍵遺跡からも糸魚川産の翡翠が出土しています。

 

ヤマト政権の政権中枢が纏向におかれたのは、大和にその中心となる勢力があったから。

私は最近は素直にそう思うようになりました。

纏向前夜、大和には大きな勢力があったように考えます。

 

神武天皇が娶ることとなった姫蹈鞴五十鈴姫の父親は大物主神(事代主神とも)で、母親は摂津三島の三島溝杭の娘とされます。

姫蹈鞴五十鈴姫は在地勢力の娘だと考えられます。

とすると、この姫の名前が気になります。

たたら、いすず、どう考えても製鉄勢力の姫様ですよね。

纏向前夜の畿内は「鉄欠乏」だったという有力な説があります。

神武天皇が実在するかはおいておくとして、なぜ初代天皇が娶る在地勢力の姫が製鉄を連想する名前を持っているのでしょうか。

本当に弥生終末期の畿内に鉄は少なかったのでしょうか。


倭国と日本国

2020-11-20 17:49:43 | 歴史

いにしえの日本列島には倭国と日本国が存在したようです。

旧唐書を意訳すると、

 日本国は倭国の別種なり。

 その国は日出ずる国故に日本という名を用いている。

 あるいは倭国はその国名が正しくないことを憎み、日本国と改めた。

 あるいはまた、日本は小国である旧倭国の地を併合した。

と書かれてあります。

新唐書の記述ではまた違ってきますが、いずれにしろ列島内に倭国と日本国があったことは間違いなさそうです。

 

また、旧唐書には「倭国はいにしえの倭奴国なり」ともあります。

北部九州が倭国の一部であったことは疑いようがないと思われます。

その倭国の範囲がどこまでなのかが議論が別れるところです。

邪馬台国の所在地問題と同様に正解が解りません。

なぜ国内の書物には倭国と日本国の関係性が書かれていないのでしょうか。

 

いったい倭国と日本国はどういう関係にあったのでしょうか。

敵対する関係だったとは思えません。

たとえ九州・倭国であったとしても、ヤマト・日本国とは同盟関係にあったと思われます。

北部九州の協力なくして、ヤマトが朝鮮半島や中国と日常的に行き来があったとは思えないのです。

 

個人的には「日本中央の碑」が青森県東北町から発見されたことから、日本=東日本だったら面白いなと思っています。

「日本中央」の文字が刻まれた石碑は昭和24年に発見され「つぼのいしぶみ」ではないかと大きな注目を集めました。

征夷大将軍・坂上田村麻呂が「日本中央」と刻み付けたという伝説がある「つぼのいしぶみ」です。

東北町から発見された石碑が本物であるかはともかく、坂上田村麻呂から東北が日本中央であると認識されていたということですよね?

 

こうして書いているうちに、かつて夢中になって読んだ本を再読したくなりました。高橋克彦氏の「竜の柩」です。 読もっ♪

 


神有月の出雲と諏訪

2020-11-16 18:28:26 | 歴史

神無月がくるたびに思い浮かぶ妄想があります。

諏訪の神が日本一、格式の高い神なのではないのかと思うのです。

 

旧暦10月には全国の神々が出雲に集まり、そのために他の地では神が不在になります。

諸国では神が不在だから「神無月」で、出雲では神がたくさん集うので「神在月」というとの俗説があります。

出雲大社では神在月に例年、八百万神をお迎えしてお見送りする神在祭がとり行われます。

神々が出雲において様々な会議をなさるのだそうで、例えば「誰と誰を結婚させるか」という縁結びもこの会議で決められます。

 

その出雲と同じく旧暦10月が「神在月」なのが諏訪です。

諏訪に他所からの神様が集まるわけではありません。

諏訪の神様が出雲の会議に出向かないため、諏訪には神がいらっしゃるまま。故に神在月です。

 

なぜ諏訪の神が出雲に行かないのかについては諸説があります。

出雲の国譲りにおいてタケミナカタは最後まで抵抗し諏訪の地まで追い詰められ、諏訪から出ないことを条件として許されたので、諏訪から出られないのだという説が有力です。

私が気になる説は、諏訪には巨大な龍神さまがおられ、あまりにも大きいので動くにも大ごとなので会議にでなくてもよくなったという伝承です。

私は諏訪の神様が大きいというのは、神としての格が高かったことを意味し、出雲神のほうが格下だったのではないかと疑っています。

格上の神様に足を運んでもらうわけにいかないと人々が考えたから「諏訪の神は出雲に出向かない」という話ができたのでは?

 

越、出雲、北部九州は「日本海ネットワーク」で繋がっていたと考えられます。

その大元がひょっとして諏訪だったのではないでしょうか。

縄文時代に栄えた諏訪が大元で、気候の寒冷化によりその勢力が越→出雲→北部九州へと進出していったのでは。

北部九州から安曇氏が諏訪へやって来たのも、神話の中で出雲のタケミナカタが越を通って諏訪へ逃げ込んだのも、始まりの地である諏訪に戻ってきたのではないのでしょうか。

 

持統天皇が勅使を派遣し「須波神を祭らしむ」でいますし、天武天皇も遷都するつもりだったのか副都なのかはさておき、三野王を信濃に遣わし都とする土地を探させています。

何か諏訪は特別な土地の気がしてなりません。

 

でも出雲や越との繋がりを考える上で、特に四隅突出型墳丘墓の広がりを思うに諏訪が一番なのは妄想でしかないか・・と例年思うのです。


竪穴式住居

2020-11-13 12:08:51 | 歴史

竪穴式住居というと縄文時代のイメージですが、実は都に近い畿内でも平安時代頃までの庶民の家は、竪穴式住居だったのだそうです。

竪穴の深さは凍結深度によってきまるそうで、寒い地方ほど竪穴が深くなるといいます。

 

多くの遺跡で竪穴式住居が復元されていますが、縄文の遺跡で茅葺きの竪穴式住居というのはおかしいようです。

というのもカヤをどうやって切っていたか、研究者にもわからないそう。

カヤは黒曜石などの石器ではとても切れない、鉄でないと切れないのです。

縄文時代には鉄は普及していなかったのですから、カヤを切ることもできなかったはず。

鉄のない段階では今の復元のようなキレイなカヤ葺きはあり得ないようです。

カヤ葺き屋根でなかったのなら、縄文の大型竪穴式住居「ロングハウス」の屋根がどうなっていたのか気になるところです。

土葺き? それとも樹皮葺き?

もし縄文時代に褐鉄鉱による製鉄があれば、カヤ葺き屋根もあったのかもしれませんが。

カヤ葺きの竪穴式住居の見た目が好きですから、鉄があってくれたらいいのに…と思います。

縄文時代から木材の加工技術は発達していたといいますから、案外、居住性の良さから竪穴式住居をあえて選んで住んでいたような気もします。

冬場は住み心地がよさそうです。

 

鉄が不足していたと考えられている畿内なんぞは、弥生時代になっても庶民のカヤ葺き住居など、なかったのでしょうか。

また、平安時代頃までも竪穴式住居は続いていたのに、纏向遺跡からはほとんど竪穴式住居が出ないのですから驚きです。

田もなく、下々の住居もない計画都市の財力はどこからもたらされたものなのでしょうか?

箸墓古墳などの古墳群を造った労働者たちはどこに住まいし、どんな暮らしをしていたのでしょうね。