碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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デイリー新潮に、映画『海の沈黙』について寄稿

2024年12月08日 | 映画・ビデオ・映像

 

 

89歳「倉本聰」の新作「海の沈黙」は構想60年 

着想の原点は東大教授の“脳髄にひびく”言葉だった

 

11月22日に封切られた映画「海の沈黙」(若松節朗監督)。巷では主演を務めた本木雅弘(58)と小泉今日子(58)の32年ぶりの共演が話題だが、脚本・原作を務めた倉本聰氏(89)が映画を手がけるのはなんと36年ぶり。さらに、構想に費やした期間は実に60年という。倉本氏が「海の沈黙」に込めた思いを、氏の弟子でメディア文化評論家の碓井広義氏が読み解く。

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映画『海の沈黙』を観終わって、真っ先に浮かんだのは「原点」という言葉だ。原点とは、物ごとの根源を成すところである。ある贋作事件を梃子(てこ)に「美とは何か」という問いと正面から向き合うことで、倉本聰は創造者としての原点に立ち返ると共に、自らの脚本家人生に一つの「落とし前」をつけたのではないか。そう思った。

実は、かつて倉本は「贋作」をテーマとした作品を作ったことがある。今から約60年前、ニッポン放送のラジオドラマだった。タイトルは『応仁の壺 異聞』。ただし脚本家は別にいて、社員ディレクターだった倉本が演出を担当したのだ。

モチーフとなったのは「永仁の壺事件」と呼ばれる古陶器の真贋騒動である。1960年(昭和35年)、鎌倉時代の古瀬戸の傑作とされた通称「永仁の壺」が、実際は現代の陶芸家・加藤唐九郎によって作られたものであることが判明したのだ。国の重要文化財に指定されていたこの壺は、発覚後に指定を解除された。当時の美術界はもちろん、文化財保護行政にも大きな影響を与えた事件だ。

このラジオドラマは、贋物とされた「永仁の壺」を擬人化して〝主人公〟に据えるという大胆なものだった。それまで美術館で大切に扱われてきた壺が、突然ガラスケースから出され、人目につかない場所へと移される。壺はぞんざいな扱いを受けたことに怒り心頭で、深夜、下駄を履いてカランコロンと上野の山を下りていく。

そして町の居酒屋に入って酒を飲み、「なんでえ、みんな昨日まで『美しい』と言って俺をちやほやしてたのに、加藤唐九郎が作った贋物と聞いたら手のひら返しじゃねえか」と管を巻くのだ。「美だ、美だって言うけど、じゃあ一体美とは何なんだ!」と騒いだ壺は、結局店の親父さんに放り出され、また夜の街をガラガラと転がっていく。これを俳優の小沢昭一が演じた。

若きディレクターとして携わったこの作品は、その後、倉本の中で静かに沈潜していくことになる。なぜなら、「美とは何か」の追究は学生時代からの大事なテーマだったからだ。

美は利害関係があってはならない

東京大学文学部美学科の学生だった頃、演劇活動やアルバイトで忙しい倉本は、ほとんど授業に出ていなかった。ところがある日、久しぶりで足を運んだ教室で、とんでもないものに出逢う。「美は利害関係があってはならない」という言葉だ。それはアリストテレス美学の基本となる教えだった。

ただし、教壇にいた教授がその通りに言ったのか、それとも倉本が勝手にそう解釈したのか、今となっては判然としない。「しかし僕にはそのように聞こえ、落雷のように脳髄にひびいた」と倉本は言う。

さらに、「この言葉を教わったことで二浪までして東大に入った意味があったとその時僕は本気で思った。これからはこの言葉を自分の行動の全ての基礎に置く。それで充分だ! 本当に充分だ! 東大に入ったのはこの言葉に出逢う為だったのだ。よし、これで東大は卒業! 勝手にそう思い、そう決め込んで、以後すっぱりと本郷通いを断った」と、自伝的エッセイ『破れ星、流れた』の中で回想している。

美とは全ての行動規範である。創るのも美なら、行動も美だ。ならば、これをこれからの自分の行動の基礎に据えようと青年・倉本は思った。今後、あらゆる行動、あらゆる思考に、利害関係を絡ませることだけは一切しまいと決めたのだ。それは倉本の生き方の「原点」となった。

本作の主人公・津山竜次(本木雅弘)が、スイケンこと碓井健司(中井貴一)に向って言う。「夢を見た。俺が描いたゴッホの贋作、その前にゴッホがいてその絵を見てるんだ。ゴッホは振り返って俺に向って急に言ったのさ。いい絵だろ、俺が描いたんだ。いい絵ですねって俺がホメたら、ゴッホも嬉しそうにまたその絵に見入ってた。おかしいだろ」

何と寓意に満ちたセリフだろう。絵描きが描いた作品がある。名のある評論家が認め、権威者たちが太鼓判を捺すことで、それに何億という値がつく。後日、その作品が贋作だったと判明すれば、一転、今度は誰もその絵には見向きもしない。美の基準とはそんなものなのか。ならば、美とは何なのか。

その問いに、倉本は竜次を通じて答えている。「美しいものは、只(ただ)記憶として心の底に刻まれていればいい。その価値を金銭(かね)で計ったり、力ある人間が保証したりするということは、愚かなこととしか思えない。美は美であってそれ以上でも以下でもない」と。まさに、美は利害関係があってはならないのだ。

美術界においては、権威を持つ者が価値を決め、それをお上(かみ)が認定して箔(はく)をつける。美の価値が、ある特定の人々によって決定され、そのつくられた価値に踊らされる者も後を絶たない。「永仁の壺事件」の時代から現在に至るまで変わらない構造だ。しかも、それは美術界に限ったことではない。すべての創造行為の背後に潜む宿痾(しゅくあ)だと言っていい。

倉本がこの映画に込めたのは、人がつくったものの価値を人が決めるという矛盾に対する、静かな、しかし強い怒りだ。美(創造)は利害関係があってはならない。美は美であってそれ以上でも以下でもない。そのことを集大成となる作品で言い切ったのが、卒寿を迎える現役脚本家であることに、あらためて大きな拍手を送りたい。

碓井広義(うすい・ひろよし)
メディア文化評論家。1955年生まれ。慶應義塾大学法学部卒。テレビマンユニオン・プロデューサー、上智大学文学部新聞学科教授などを経て現職。新聞等でドラマ批評を連載中。著書に倉本聰との共著『脚本力』(幻冬舎新書)、編著『少しぐらいの嘘は大目に――向田邦子の言葉』(新潮文庫)など。

 

<デイリー新潮編集部>

 


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