さようなら、さくらももこさん
「ちびまる子ちゃん」世代に衝撃!
「ちびまる子ちゃん」世代に衝撃!
国民的人気漫画『ちびまる子ちゃん』の作者として知られる漫画家のさくらももこさんが8月15日に亡くなった。乳がんを患い長らく闘病中だったというが、53歳での旅立ちはあまりにも早い。広く愛されたちびまる子ちゃんとさくらさんの軌跡―。
さくらももこさんが描いた漫画の世界は、多くの人の心を鷲掴(わしづか)みにした。ゆかりの地、静岡市清水区の同市役所清水庁舎には、多くのファンが献花と記帳に訪れるなど、哀(かな)しみが広がっている。
庁舎のロビーで花を供えた小学校3年生の女子児童は、「まる子ちゃんは毎週楽しみに見ているのですごくショック。残念でたまらない」と、悲嘆に暮れた様子。
清水港近くにある「ちびまる子ちゃんランド」の記帳台でさくらさんへの思いと「まる子」の似顔絵を描いていた会社員・吉田早矢香さん(33)はこう語る。
「さくらさんの漫画を見て絵を描き始め、漫画家になりたいとずっと夢を見てきました。さくらさんがいなかったら今の私はいません。みんなを幸せにできる絵を描き続け、さくらさんのように夢を実現できるようになりたいと思います。ゆっくりと休んでいただきたいです」
自伝的作品の「ちびまる子ちゃん」だからこそ、さくらさんの死去で、まる子も死んでしまったかのような思いにとらわれた人も多かったのかもしれない。
自身が子どもの頃をモデルにした「ちびまる子ちゃん」は、家族や友だちと繰り広げるほのぼのとした日常を描いた内容で、まだ昭和だった1986(昭和61)年に連載が始まった。90年にはフジテレビでアニメ化され、広く人気となる。
さくらさんは、「ちびまる子ちゃん」の舞台である旧清水市で、65年に生まれた。作品と同じように、祖父母と両親、姉の6人家族だった。
作品の中に登場する小学校は、さくらさんの母校・清水入江小学校。この学校の教室で、個性的なクラスメートと楽しく過ごした時間が、作品の原点だ。
小学校5、6年生のときの担任だった浜田洋通(ひろみち)さんは、「ちびまる子ちゃん」に登場する「戸川先生」にそっくりだったため、「モデルではないか」とささやかれていた。
浜田さんがこう悼む。「(モデルかどうかを)確認する前にこういうことになってしまい、残念で辛(つら)く、悔やみきれません。さくらさんは、おっちょこちょいで抜けている部分もありましたが、嫌みがまったくなく、明るいお喋(しゃべ)りな子でした。まるでまる子と同じようでした。その子がこれだけ素晴らしい作品を作った。改めて敬意を表したいですね」
◇人間の普遍性が表現された作品
さくらさんは幼少期から漫画家になる夢を抱いていた。だが、なかなかうまく描けない。親からの反対もあったという。
ところが高校時代、作文を教師に「あなたの文章は素晴らしい。現代の清少納言だ」と大絶賛された。それが後押しとなって、だったらその文章を漫画に取り入れてやってみようと、さくらさんは発想を転換。それがやがて「ちびまる子ちゃん」となって花開く。
県立清水西高から静岡英和学院大短期大学部国文学科ヘ進学。84年11月に大和路(奈良)へ3泊4日の研修旅行に出かけた。2日目の夜、友人と2人で漫才を披露したことを、当時の担任だった高橋清隆教授はよく覚えている。
「さくらさんが台本を書いたのですが、それがとても面白いので驚きました。落語家への道も考えたことがあると聞き、納得しました。卒論は江戸時代の滑稽(こっけい)本作者である式亭三馬がテーマ。後のさくらさんのエッセーのように軽妙な文章でありながら、本質を抉(えぐ)っていました。当時から人の心を掴む、読ませる文章でしたね」
さくらさんが書いた、研修旅行の報告記「だから寺なら山がいい。」には、漫才を演じたことも記されている。
〈その夜、班ごとの“芸”があり、私は班の仲間によいしょされ、“まんざい”をやってしまう。高校のとき以来である。あんなこと、あんまりやりたくなかったのだが、ついついやってしまう私はお調子者。チャンチャン〉
明日香村の酒船石を訪ねた記述では、
〈これは人をばかにしている。タダだったから少しは怒りも抑えたが、さんざん疲れる坂を昇り、あげくのはてにあんなわけのわからん石では怒るにきまっとるだろっ〉
漫画家としてデビューしたのは84年、短大在学中である。2年後には少女漫画誌『りぼん』に「ちびまる子ちゃん」の連載を開始。切り口が鋭く、ギャグのセンスも抜群。あっという間に多くの人に受け入れられていった。90年からテレビアニメ化されたが、その年の10月には視聴率39・9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、国民的番組と呼ばれるようになる。
それにしても、なぜ「ちびまる子ちゃん」はここまで支持されたのか。まず、この作品は、身の回りの出来事や大人たちを、主人公の独自の視点で描いており、その批評眼の高さに特徴がある。
前出の恩師・高橋教授は、「ごく普通の家庭を舞台に、その温かさやトラブル、クラスメートとの何気ない日常など、どこにでもあることを切り取って描いています。そこには皮肉がありながらも、必ず温かさが込められています。新しい世界観を作り上げた作品といえるでしょう」と、評価する。
まる子は品行方正なわけではなく、成績優秀でもない。妬んだりひがんだりするなど、素直ではない部分もある。上智大の碓井広義教授(メディア文化論)はこう分析する。
「ある種のズルさや嫉妬心といった毒も持ち、煩悩のような人間のダメな部分を体現しているのがまる子です。一方で、友だちを大事にし、家族が大好き。一面ではなく、人間が持っているウラオモテ両面がエピソードとして盛り込まれる。だからこそ、時代を超え、人間の普遍性がしっかりと表現されています。それが広く受け入れられる要因でしょう」
一方、時代背景に反応する人も少なくなかっただろう。描かれているのは、今から40年ほど前、1970年代の半ば。高度経済成長期が終わり、第1次オイルショックを経て、低成長期に突入した頃の、ごく日常が舞台となっている。現在50歳代の中年世代にとって、「まる子ちゃん」はある意味、自分たちの「三丁目の夕日」だという思いが強い。自分たちの幼少時代が投影されているのだから。
昭和30年代を舞台とする「三丁目」で、団塊の世代がノスタルジーを刺激されたのと同じような感覚である。豊かではなかったが、穏やかな昭和を共有し、同じ土壌が描かれることに共感の声が多かった。
大きな花束を清水庁舎の献花台に供えていた自営業の桂秀樹さん(52)は、残念そうにこう話す。
「同世代の私たちが生きてきた話を日本だけではなく、世界に発信してくれたのがさくらさんです。昭和のいい時代を描いてくれたということで、私にとっては本当に身近な作品なんです。描いてあることすべて身近な感じがします。似たようなキャラクターが実際にいて、シニカルでクスッと笑えるところが非常に秀逸ですよね。永遠に残ってほしい作品です」
◇「平成」を象徴するアニメだった
東洋大文学部の藤本典裕教授(教育学)は、同じ国民的アニメの「サザエさん」と比較してこんな考察をする。
「サザエさんの波平さんは一家の当主として正面に座り、サザエさんとフネさんは台所に近くに位置しています。まる子ちゃんでは、両親と祖父母がそれぞれ並んで座り、お母さんが一人で主婦役を担っています。また、お父さんが怖くなく、その職業も描かれていません。時代々々の家族構成、親子関係や性的役割分業、子どもにとっての仕事の意味などの変化を読みとることができます」
60年代を描いた「サザエさん」の時代から変化が読み取れるというのだ。父が権威の象徴ではなくなりつつあることが映し出され、時代を反映しているのである。藤本教授は「労働へのリアリティーが薄らいでいることが表現されている」と分析する。その反面、「まる子ちゃん」では、口やかましい母親が登場するが。
平成2年の90年から「まる子ちゃん」のアニメ放送が始まり、平成最後の夏、さくらさんは逝った。それに先立つ今年5月、アニメのエンディング曲を歌った西城秀樹さんが亡くなった。まる子の姉・さきこは、西城さんの大ファンだった。
平成を代表するアーティスト・安室奈美恵は間もなく引退し、SMAPも既に解散している。ひとつの時代が終焉(しゅうえん)を迎えた。
前出の母校・清水入江小学校では、8月28日に全校児童がさくらさんに黙とうを捧(ささ)げた。1年生のある児童は、「天国へ行っても、漫画を描き続けてください」と、作文をしたためたという。
同小の図書室には、95年にさくらさんから寄贈された色紙が飾ってある。そこには「みんな なかよく」と記されている。そこにさくらさんの思いが凝縮されている。(本誌・青柳雄介)
(サンデー毎日 2018.09.16号)