(株)カプロラクタム-blog

果たしてココは何処なのだろうか・・・
否!ココは(株)カプロラクタム代表取締役兼社員αのweblogである!

入院4日目 手術日

2022年03月07日 | 心境
いよいよ手術日です。

朝は絶食で下剤を飲んでいるので、朝できることはとにかく出すことだけです(笑)あと手術後はHCUに移動となるので必要最低限の荷物しか持ち込めず、携帯も含む着替えその他の荷物は全て家族に持ち帰ってもらうことになりました。事前に説明はあったのですがいまいち理解してなかったので、5日分くらい着替えが入ってたのですよね・・・すべてを手放し、9時ごろ手術着を着て手術室へ。

毛布を掛けてもらいながら手術着を脱ぎ、麻酔用の点滴と背中にも麻酔を打ちます。ここが痛くなければ後遺症の心配もなく安全ということで、その確認をされた後は一瞬で意識が遠のき、次に気付いた時はもう15時半でした。これが全身麻酔か・・・事前にいろいろと説明があったので特に驚きませんけど、HCUに移り、感覚が戻ってきて最初に感じたのは下半身の強烈な違和感とたんの絡む不快感でした。導尿はもちろん初めてですが、尿意が常にあるというか、多分勝手に出ているのでしょうね。足は血栓予防のため常にマッサージされている感じで、こちらは気にしても仕方ないと判断しました。たんの出し方は事前におそわっていたのですが、両腕に点滴が通っていて長さが足りず、口まで持っていけません。握らされてるナースコールボタンで何とか片手は動くようにしてもらい、自力でティッシュでとってゴミ袋に入れるくらいはできるようになりましたけど、それ以外は怖くてあまり動かせません。寝られる感じもなく、事前に読んでいたハンターハンターのストーリーを思い出したり、頭の中でクラシックやゲーム音楽を思い出して、とにかく時間が過ぎるのを待つだけの苦しい時間でした。

入院3日目

2022年03月06日 | 心境
金曜日入院、月曜手術だったので、土日は特にすることもなく過ぎていきました。

まずは病室を移動し、家族と共にに今までの検査結果の説明と同意書を取るのが主な内容でした。実は初日にシャワーの時間が取れなかったので朝浴びる予定を入れたのですが、移動と重なり5分でさっと済ませたのが最も難易度の高いミッションでした(笑)
手術は幽門側切除という定型手術で、ロボット支援型腹腔鏡手術を行うそうです。傷口が小さく術後の快復が早いのが利点なのだとか。自分自身は最初に痛み止めの注射をされた後全身麻酔となるため、手術中のことは一切わからない模様です。6時間ほどかかるらしく、その間家族は待機しないといけないのが一番申し訳ないですな。がんは一度なってしまうと手術で取り除く以外には根治せず、放っておけばどんどん増殖して悪化してしまうため、早期発見で手術が可能なレベルというのは不幸中の幸いだったということでしょうか。もちろん、がんはならないに越したことはないので、今元気な方はぜひ胃がん健診を定期的に行い、40歳などタイミングを見て「ピロリ菌検査」というものを受けてみることをお勧めします。最悪でも、胃の不調や胃潰瘍など、胃に何らかの自覚症状があったなら即胃カメラで見てもらうべきだったというのが、自身の人生における最大の後悔です。

土曜の午後から日曜にかけては、定期的な検温、血圧測定等以外は完全に自由でした。大きな検査やリハビリ等も土日はありません。基本的に土日は病院も休みなのですが、入院患者は普通にいるので看護師は24時間交代勤務なのですよね。今は特にコロナ対応などで看護師も減っており、少ない人数もしくは連続勤務などで凌いでいるのかもしれません。それでもグチはおろか嫌味のひとつも返さないのは立派だなあと思いました。この姿勢は学ばないといけませんな。
元気なうちはご迷惑をかけないよう静かに過ごしていましたけど、同じ大部屋に入った方が全員そうとは限らず、夜は思うように寝ることができませんでした。うーん全身麻酔中は睡眠に入るのかな?

入院2日目

2022年03月05日 | 心境
3月16日に無事退院できたので、思い出せる範囲で経過を書いていこうと思います。

まず4日の入院日。とりあえず部屋に移動して、病棟やリハビリについての説明を聞き、胃カメラまではバタバタとすぎて来ました。何やら明日病室移動があるので、あまり荷物を出さない方がいいと判断し、持ってきた胃がん関係の本で時間つぶし。まだいつ検査や呼び出しがあるかは分からないので午前中は大人しくしていました。胃カメラの麻酔が切れるのを待って昼食だったのですが、分かっていたこととはいえ量はめちゃくちゃ少ない。朝から絶食なのにこの量では絶対に持ちません。基本的に入院患者さんはお年寄りが多く、そちらに照準を置いているからなのでしょうね。リハビリについても、正直手術後2~3日歩けない程度でそこまで体力が落ちるという実感も余りわきませんでした。
まあ手術までは病院内自由なので、時間にゆとりのある午後はいろいろ回って歩ける範囲やトイレの位置などを把握して回りました。手術後に使うオムツも購入。これも全く使うイメージが湧きませんが・・・とりあえず、手術前はむしろ栄養をしっかりとらないといけない判断したのと、あととにかく暇な時間が多そうなので、5日の説明会の時に親にパンとマンガを持ち込んでもらうことにしました(笑)

入院

2022年03月04日 | 心境
胃がんの手術をするため、本日朝から入院することになりました。

42年生きてきて初めての入院、手術と言うことになります。腹腔鏡手術で予定は2週間と言うことですが、快復が早ければ早く退院できるのだとか。普通入院というと着の身着のまま緊急で運ばれるようなイメージがあるので、自分の足で、荷物も持って病室に向かうと言うのもなんだか変な感じがしますね。とりあえず、本日は胃カメラとだけ聞いているので午前中飲まず食わずなのですけど、午後から何かすることがあるのか、そちらの方が気になってしまいます(笑)
5日は両親に手術の説明、土日をはさんで7日月曜が手術日になります。この2日間もやることが不明なのですが・・・リラックスすることが第一なのかな?
当日は全身麻酔なので自分は何もわからないのでしょうけど、術後はしばらくICUかHCUに移るということで、亡くなった祖母や教え子がいたあの部屋で目覚めるのかと思うと不安は尽きません。とりあえず、元気になって続きのブログ更新できる日が来ることを願って・・・。

胃がん

2022年01月11日 | 心境
健康診断で引っかかり診断されましたorz

毎年バリウム検査はしていたのですけど、去年は慢性胃炎で経過観察となり、スルーしていたら今年は要精密検査になってしまいました。もともと胃潰瘍は2016年ごろにおそらくなっていたことがあり、胃の違和感と痛み、下痢が続いて食べられなくなっていたので内科で胃酸を抑える薬をもらって何とかもち直していました。今思えばその体験が裏目に出た形で、とにかく下痢になるほどおかしくなったら薬を飲めばいいやとここ数年キャベジン等でごまかしていたのですよね・・・検査の2ヶ月前にも内科で処方してもらっていましたし、何かしら引っかかるような気はしていたのですが。

その後人生初の胃カメラ体験で、胃潰瘍があることが発覚。念のために組織検査とピロリ菌も調べることになり、今回両方とも引っかかってしまったという経緯です。がん細胞さえ見つからなければ薬が増える程度で済んだのですがねえ。
今後どうなるかは全く分かりませんけど、大きな病院でさらに精密検査する模様です。ここ数日はこの不安が元でお腹が痛くなるし、すぐ何とかしたいのに次の検査まで間があるしで結局薬を飲むことくらいしかできないのがもどかしいですな。


令和スタート!

2019年05月01日 | 心境
「令和」幕開け、新天皇陛下が即位 雅子さま新皇后に
というわけで、本日より令和元年となった模様です。

即位の儀式を見ましたが、すでに新しい天皇陛下にはオーラが備わっていましたね。天皇陛下だから代々受け継がれた不思議な力を持っているなんて発想はさすがにしませんけど(笑)この国の象徴として責務を全うする覚悟のようなものを感じました。なるべくご負担のないように務めていただきたいものです。

幼稚園くらいの頃、祖父に日本で一番えらいのは誰か聞いたとき「天皇陛下だ」と教えてもらったのが、自分がその存在を知った始めだったと思います。当時は昭和天皇ですから、天皇と同じ誕生日ということで自分も偉いような気になっていました(笑)しかしそもそもどういう人なのかというのは、普通学校でも教えてくれないのですよね。自分は3年生を受けもった時は、町探検などで神社で休憩する際、祭られている神様の話をし、その系譜が現在の皇室につながっていると話すようにしていますが、小さい頃にこういう話を誰とも話題にしないで大人になった場合、「天皇なんて必要ない」みたいなことを言う人物に育ってしまうでしょう。
天皇は「偉い人」ですが、何が「偉い」かというと、誰もが自分の幸せを願うだけで手一杯で生きている中で、天皇陛下は国民みんなの幸せを願って日々祈りをささげてくれている点が「偉い」わけです。世界には王室のない国なんてたくさんありますし、皇室も100年後はどうなっているかわかりませんが、少なくとも今現在、これだけ国民の精神的支柱となっている皇室が影も形もなくなる未来は想像できません。千代に八千代に続いていくよう、我々国民もまた皇室の幸せを祈らずにはいられませんな。

祖母の葬儀

2014年09月30日 | 心境
今日、祖母の告別式がありました。

昨年末に倒れて寝たきりになり、それ以来、夕方はほぼ毎日見舞いに行っていました。一時は話ができるまで回復していましたが、先週から容態が悪くなってそのまま・・・と言う感じでした。元々最大限に回復してももう退院できる見込みはなく、手術当初はそれこそ余命2~3日宣告され、集中治療室から出ることも適わないと脅かされたので、10ヶ月ももったのは考えうる最長不倒だったのではないかと思います。今月半ばには妹の第3子が生まれ、その報告もできたので、安心したのかもしれません。

唯一の心残りは自分の結婚を見せられなかったことですね。チャンスが全くなかったわけではなかっただけに残念でなりません。

七夕の奇跡

2014年07月07日 | 心境
全く私事なので訳が分からない更新になりますが、今日、奇跡的な確率で人に遭遇しました。

市内は狭いので町を歩いていればどこかで保護者や教え子に遭遇することもあるわけですけど、今回はかなり久しぶりな再会だったので驚きました。思えば今日は年に一度の待ち人に会う日か・・・覚えていてくれたことが何より嬉しく、少し心がすっきりしました。

いや、七夕的な相手ではないです(笑)一応、自分の覚えとして・・・

β氏通夜に思う

2014年02月15日 | 心境
と言うわけで、β氏の通夜に参列してきました。

実はこの情報を得たのがこの日の未明で、たまたま情報をつかんだ友人から教えてもらいました。急な訃報に驚き、その次に沸いたのが「故人に呼ばれている」という根拠の無い確信。大学や社会人になったばかりの頃は飲み会もしていたのですが、遠い地域に勤務していたこともあって既に10年近く連絡を取っていませんでした。ただ、お別れのチャンスは通常亡くなって2、3日もないわけで、それが可能なタイミングで情報を入手できた以上、全ての予定に優先すべきだと思い立ったわけです。早速電車を検索し、幸い同日中に帰宅可能であったため、早いほうが良いかと通夜に参列することにしました。

30代半ばにもなると、小中高大の友人のいずれかでは不幸の噂を聞いているものです。しかし自分にとって近しい友人というとそれぞれ数人に絞られるので、その中1人の不幸というは初めての経験です。片道4時間ほどかかるため、本を持っていきましたが結局往復でも1冊読みきれないまま放心していました。
通夜には100名以上の参列があり、その7割近くを若い世代が占めていました。予期せぬ、早すぎる死であったことがうかがい知れます。奥さんやご家族を含め、誰も見知った方はいませんでしたが、自分も半身をえぐられたような悲しみに襲われました。苦しまずに逝けたようだという情報がせめてもの救いです。

追悼がてら、本家HPも5年ぶりに更新しました。5年放置していた間に300ヒット程度なので最早死に体でしたが、お暇な方は適当に散策し追悼してやってくだされ。

(株)カプロラクタムの成り立ち

2014年02月12日 | 心境
10年目に突入して今更ですが、このブログ名についての由来というか、思い出を書き連ねたいと思います。

このブログの前身である(株)カプロラクタムには、隠しページ的な存在として宇宙完全大百科という読み物が存在しています。これは元々高校時代に、友人と自分の2人で「自分達だけに通じる造語に意味を見出し、それを訳知り顔で語り合うとカッコよくね?」という、今で言う中2病的な発想で生まれた書物です。学校のプリントの裏にびっしりと説明を書き、お互い回し読みをしていました。3年間かけて50音順に1語ずつ造り、2人で100語とはしがき等を10(笑)完成させました。なので、同じ頭文字(例えばアポラスト・アルティプラソーノ)の2作品は、それぞれが書いたということになりますね。今読むと高校時代の内輪ネタや当時の流行ネタが満載で、いわゆる黒歴史(笑)であると言えるでしょう。ただ、自分を構成する光と水は、大部分この時期に形成されたことが良く分かります。

で、その友人とはクラスで唯一2年間一緒だったのですが、3年になり離れても同じように、3年間様々なバカをやってきました。造語をお題に、イメージするキャラクターを描いて見せ合ったり、お互いに推理クイズやパズルを作って解き合ったり、2コマや4コママンガの前フリだけ書いて交換し、オチを考えたり、推理小説を書いたり、バクマンのPCPのような完全犯罪?の計画を立てて実行、報告しあったりと、ありとあらゆる才能を投じて暇つぶし手段に興じていました。会話にも暗号を混ぜたり、古語で話したりもしていました。もちろんそんな楽しげな活動が2人内で留まるはずもなく、自分達の作成したネタは幾人かに共有され、その恩恵を享受する組織ができたわけです。しかし表立って話すと目立つので、組織内に通じる暗号やコード名をつけて呼ぶようにしました。で、その名称こそが「(株)カプロラクタム」であり、主な発信源であった自分がα、その友人がβと名乗ったわけです。カプロラクタムという言葉はナイロンの原料で、化学Ⅱの教科書に載っていた語句であり、スペルが違うのは素で間違えた本来の意味との差別化を図るためですが、実はその発案者はβの方だったので、じゃあ何故カプロラクタムだったのか、というとはっきりしません。しかし秘密結社のようで中々かっこいい響きだと思い、その後、パソコンやインターネットのブームに乗り、大学時代にHPを開設したのは自分の独断ですが、今でも気に入って使っている次第です。

それにしても、ココまでネットやクールジャパン文化が花開くとは思っていませんでしたが、振り返れば大百科はアンサイクロペディアのようなものですし、お互いマンガの続きを書いたり、ある名から想像して創造する遊びなどは今もバラエティで扱われたりしています。推理クイズは後にデスノートで一般化した縦読み等、後のマンガや小説で同じ着想のトリックをいくつも発見するほどの完成度でした。学園祭でも推理劇や、今ある「リアル脱出ゲーム」のような企画をしたよなあ・・・完全犯罪(カプロラクタム計画)に至っても、「特定の人物に辛いカレーを食らわす計画」「離れたクラスでもポケ紙(ネタを忍ばせたメモ。ポケベル前世代のアナログ的手法)を回す計画」「年賀状を2度出す計画」「自転車で、お互いを常に抜き返しながら帰宅することで、後ろにいたオバちゃんにベルを鳴らさせない計画」など、PCPの着想は我々が元祖だったのではないかと思うほど酷似した行為を、十数年前に実際に行っていたわけです。ずいぶん時代を先取りして生きていたよなあ(笑)

本当にβは才気溢れる男でした。本日亡くなったそうです。逝くには早すぎるだろ・・・

尊厳死

2013年12月29日 | 心境
尊厳死法案、現実味…自民PT、議論要請へ
いざ自分や家族がその立場に立ったら・・・本当に難しいですね。

下世話な話、回復の見込みのない終末期の医療には、ものすごくお金がかかります。医療費はもちろん、入院すれば部屋代もバカになりません。長期化すればそれこそ百万単位、もしかしたら千万単位を覚悟しなければいけません。特に今は医療技術が格段に進歩しているので、積極的治療を望めば、おそらく昔に比べ格段に延命率は伸びているのだろうと思います。ただ、それで回復の見込みがあればまだしも、それだけ払って良くて「現状維持」・・・実際は保険でカバーされている分もあるので、個人の支払いだけでなく、延命するだけのために莫大な国民のお金を使っていくことになります。
もちろんお金の問題だけでなく、人の命を左右する場面でそれをどう扱うかは、慎重に話し合わないといけません。本人は既に意識がない場合もあるでしょうけど、仮に「もう死にたい」と言っても、安楽死は殺人行為になってしまうため、治療は行わざるを得ないわけです。ちなみに、今回の「尊厳死」とは安楽死でなく、延命措置を行わない、または途中で治療を止めることを言うそうです。治療法自体は選べるので、リスクをとってでも積極的治療を行うか、自然に任せて悪化した事象のみ対応していくかは選択できますが、現状では「悪化しても対応しない」ということはできないので、手を尽くしてできるだけ延命させると言うのが今の方向です。しかし「そこまでしてでも生きたくない」と、意識のある時に意思表示していれば、そのまま「尊厳死」させるということを認めよう、というのがこの法案というわけです。

個人的には、家族や皆にそこまで迷惑をかけてまで生きたくはないなあと思っています。しかし、実際その立場だった場合、家族だったらやはり手を尽くして欲しいと願うのではないかとも思います。自分も逆の立場だったらおそらく決断できないでしょう。いくら本人の望みでも、手を尽くさなかったことで死期が早まることを、残された遺族は絶対後悔するような気がします。現状、この法律が“ない”ことによって、「このまま死なせる」という選択肢は選ぶことができません。実は、それが救いになっているのではないか、とも思うので、自分は今の所、この法案には賛成できません。
今月、祖母が入院し、それこそ上記のような場面に遭遇しました。高齢なので手術に耐えられないかもしれないし、持ってもまず元のようには回復しないだろうと言われました。幸いまだ入院中ですが、仮に今点滴を止めてしまえば2~3日も持たないわけです。ただ、病院に見舞いに行くようになって、祖母の様子を見るたびに「生きようとする意志」のようなものを感じ、絶対に命を粗末にするような真似はしたらダメだなあと決意を新たにして帰ってきています。

意味のない「生」などありません。延命の上の死もまた尊厳死なのでしょう。

けんぼうは1年生

2012年04月30日 | 心境
子どもに絵本を読み聞かせしていて涙が出たのは初めての経験でした。

この絵本は岐阜県出身の岸 武雄さんという方の作品で、作中に伊吹山が登場し、30年前には全国読書感想文コンクールの課題図書にもなった名作です。自分も1年生の時に初めて学級文庫にあったのを読んで、軽くトラウマになった本ですが、不思議とその後も図書館でこの本を見かける度に手にとって読んでいた覚えがあります。あと、あるページから後ろを読まないようにしていた記憶も・・・教員になってから、低学年を受け持った年には必ずこの時期にちゃんと全部読み聞かせをすることにしていますが、今年は妹の子が3才になったからか、年を喰ったからか、2度目の1年生だからか、3年生で亡くなった教え子の学年が6年生になったからか、もうボロボロでした。何人かつられて泣いてくれたことが救いかな?

「おとうちゃーん」
お父さんの帰りを待ち、駆け寄ってくる3才のけんぼう。
小さいけんぼうのためにも、長生きしなくてはと心に誓うお父さん。
しかし、それから間もなくして、けんぼうは交通事故で亡くなってしまう。
3年が経ち、お父さんはいつもの帰り道にふと思う。
けんぼうが生きていたら…「もう1年生だなあ」と。

岸武雄さんは今年亡くなったそうですが、あと半年生きていたら100歳だったそうです。つか99歳でも大往生ですね。やたらと交通事故が多かったこの4月、先人の如くには生きられなくとも、親より早く死ぬ不幸だけはもう二度と味わわせたくないと、この本を読む度に決意を新たにします。

葬儀に思う

2012年03月26日 | 心境
親戚のおじいさんが亡くなり、本日葬儀がありました。

といっても、自分とは直接血のつながりがない方なので、通常であれば参列も迷うところだったのですが、実は先週より両親が海外旅行(地球の反対側)に出かけていて、明後日にならないと戻れないので、我が家の代表代行として参列することになった次第です。

当然、本日は修了式ですし、1年生だからちゃんと話をして見送りたかったので、おとき・精進落とし等はご無礼し、告別式のみ参列させて頂くことにしました。ネットで調べられた限りの礼は尽くしたつもりですが、ご香典の「ふくさ」なるものと、献花をうっかり失念してしまいましたorz・・・まあ、故人も高齢だということで、近親者のみの葬儀でしたし、自分が分からない参列者の方からも悉くちゃんづけで呼ばれる始末でしたから、最低限の役目は果たせたかなと思います。

でも流石にソレガシ、もう30代に突入して久しいわけで、こういうこともソツなくこなさないとダメなのだろうなあ・・・

入学式

2011年04月07日 | 心境
今年は1年生を担任することになりました。

特別支援学校にいた頃から、ここのノウハウを生かして若いうちに持ちたいなあと思っていたので、待望&念願の、ということになります。ちなみに自分の信念として、人事については一切希望をせず、管理職に委ねることにしていますので、ソデノシタとかはありません(笑)まあ、今まで持っていなかった1と6のうち、6の方はいつでもやるチャンスはあるでしょうから、先に1が持てた事は本当に良かったです。これで来年6だったら、もう小学校は卒業かなあ(笑)

そんなわけで、毎年同じく繰り返される担任発表から始業式、入学式という流れも、今年は全く新鮮でした。まず始業式後の所在のなさ。嵐の前の静けさとはまさにこのことでしょう。教室の準備や掃除、ネームシール貼りなども、高学年児童や各担任が手伝ってくれるので、いつも以上に楽でした。いつもなら春休み中に頑張って作る朝の会等のマニュアル関係や、仕事の分担表なども、言葉を習う前である前提からか、一切作っていませんでした。
しかし、こんなに楽をしていて良いのか・・・と思ったのも束の間。その後の式から写真撮影、始めの学活、懇談会、PTA選挙などが怒涛のように押し寄せ、息継ぎの間もなく潜水したような感じでした。特に懇談会は、父親もいるため出席率は130%、立ち見まで出る始末です。まあ、当たり前なのでしょうけど、参観日の後の懇談会がひどいと役員のみ数名参加というのもザラなので、この参加率にはびっくりでした。

1日乗り切って、今日は初日と言うよりセレモニー的要素が強い日だったと思いました。おそらく、本当の意味で子どもが見えてくるのはまあ来週当たりでしょう。よく「1年生は宇宙人」と聞きますけど、こちらの指導次第で如何様にもなる「真っ白いキャンバス」であると思いました。どんな絵を描いていくか、今後も日々試行錯誤の毎日ですね。

あとは、正露丸を5錠飲んで乗り切った、この胃腸風邪を子どもに悟られずに治すのみか・・・orz

ニュースのない日

2010年12月31日 | 心境
飲み会から帰ってきてgooのニュースを見てみたら、12月31日のニュースが白紙になっていました。

別にこれは珍しい現象でなく、gooの「過去1週間のニュース」では、日をまたぐととりあえず新しいページとして更新され、ニュースが入ると随時更新されていくようになっています。まだ今日は始まったばかりですし、朝になれば大なり小なり事件が起きるので、だんだん記事が増えていき1日で3ページか4ページ分ぐらいになるわけです。
自分のブログでは、その中から1記事を選んで更新することが多いのですが、これは!と思った記事がなかった場合、その日の更新に非常に苦労します。まあ、身の回りで事件と言うか、トピックがあればそれを書くわけですけど、それほど波乱万丈な人生でもないですし、書くのに相応しくない内容もあることは心得ています。例えばこの更新の下に表示される14記事のうち、時事を扱ったのは10記事もあります。そして、そのうちの半分以上は、明らかに良くないニュースです。

1日のうちで、ニュースが全くない日というのは存在しません。逆説的ですが、もしそんな1日があったしたら、「今日はニュースがなかった」「報道関係者の一斉ストが起きた」というニュースが流れるからです。それ以前に、結果としてニュースのない日ができてしまったら、報道関係者は食べていけませんから、必死でニュースを探すことでしょうね。
子どもに毎日日記を書かせると、よく「書くことがない」と言う子がいますが、1日だって「前と全く同じ日」は存在しませんし、同じことを勉強する日も、同じように遊ぶ日もまたないでしょう。そうした日々の違いがトピックになる以上、1人1人に「書くことがない日」はありえませんし、また子どもが40人いれば、誰か1人ぐらいは歯が抜けたり、自分や家族の誕生日だったりなどのスペシャルトピックをもっているものです。そう考えれば、1億2千万人の人達に、「全く特別でなかった1日」というのは、絶対に起こらないのです。ただし、「良くないニュース」に限定すれば、それは努力次第で減らすことができるかもしれません。

話を交通事故に限定すると、統計を取り始めた1968年以降、死亡事故の起きなかった日は1日も存在しないそうです。年末になると、今年の交通事故死亡者が何人を切ったとか、何県がワーストだったとか出ますが、人を数字や割合で表すと、その重みが全く失われてしまいます。あそこで時間を取って名前を1人1人読み上げるなり、全ての遺影を映すなりすれば、死者5000と言う数字の1つ1つが全て「命」「人生」のあった人だったのだという認識に至るのではないでしょうか。
今年、自分の身近な所で交通死亡事故があり、よく報道されている「意識不明の重体」という表現が「ほぼ助からない状態」のことを指していることが分かりましたし、「脳死」が絶対に元に戻らない、不可逆な状態であることも分かりました。知識としては知っていましたが、何も分かっていませんでした。心臓を動かすために足を犠牲にすることも、人工呼吸器がないと呼吸できないのに傷は治っていくことも、まるで生きているかのような脊髄反射が起こることも・・・悲報を受けて自分も涙が止まりませんでしたが、ご家族の悲しみを思うと想像を絶しますし、何かできることをと考えても、何もできない現実があり、葬儀ではせめて安らかにと祈ることくらいしかありませんでした。年月は無情に過ぎ、乗り越えるしかないと分かっていても、どうしても悲しみと後悔は残ります。何故「車に気をつけて」と一言声をかけなかったのか・・・
起きてしまってからでは取り返しがつきません。一人一人の注意があれば、防げた事故も多いでしょう。自分も、今そんなことを言いながら、たった数日前に自転車とぶつかりそうになったことに文句を言っている始末ですし。でも防げるはずなのです。回りに注意すれば。スピードが遅ければ。よそ見しなければ。飛び出さなければ。急がなければ。スタッドレスに変えれば。交通ルールを守れば。

せめて今日は交通事故だけでもニュースのない1日になるように願いつつ・・・良いお年を。