福岡県の東の端の山間部。もともと人口減少が続いていた地方に二つの中学校が新設された。両者1947年。1945年までは男という男は出征した。しかし負け戦と供に大勢の男たちは帰農する。1950年の朝鮮戦争勃発までは都市は砂漠を意味した。
「つて」なくして都市で食って行くことはできないが、故郷は少なくとも食うことには都会のような冷たさを見せることはない。子供も一緒に移住し限界山村たる東の村に2校も同時開校となった。
僕は小石原(こいしわら)中学校跡に建つ社会福祉協議会なるところを訪ねた。行政はなんという無駄をしたんだ。じつに新しい校舎が建っているではないか。廃止すると分かっていながら縦割りのアホ公務員は立派な校舎を建てている。部署や市や県が違うと気違い公務員は何でもできる。
中学校はわずか30年余りで廃校となり東峰(とうほう)中学校に統合される。小石原中学校跡には言い訳がましく高齢者活動促進施設とか社会福祉協議会がいる。いまだに税金をどぶに捨てるのをやめてない。3人ですむ仕事を10人でしている。
僕は元校庭を見学した。じつに狭い。谷底には十分な土地がある。こんな急斜面の狭い土地に形だけの中学なんて作る必要はない。
校庭の隅っこに小石原中学校と書いた石碑を見つけた。校門だ。校庭の端に捨てられている。男子は校帽を脱いで一礼して入ったもんだ。30年経てば捨てるようなもんのため、毎日毎日お辞儀をしたのか。ひとが石に刻むときの気持ちを自覚せよ。
校門の石柱の裏に回ると「平和条約締結記念」と書いてあった。1年ほどずれてはいるがこれほどの山の中にも講和条約は平和条約として衆目にあがっていたのだ。
人々がどれほどの思いで「平和条約」を石に刻んだかは分からない。ただ僕は、村人総出で手弁当で谷底から人力で引き上げて建てた校門が、「平和」と刻まれたとき平和への願いを感じた。
案の定アホ社会福祉協議会なるものには何の歴史の記録もなく村史にもなかった。
平和を唱えるモノの中には気違いがいることは確かだ。しかし、再び戦に走ろうとするのも同じく気違いだ。バカは言う。守らないと攻められる。さあ軍隊を強くしよう。攻められるぐらいならこちらから攻めよう。チャンコロやロ介やチョンはバカだから日本はすぐ勝つぞ。
さあ、この言い草はどこかで聞いた気がしないか。
自民党は日韓基本条約にとらわれて官僚の言うことを聞かなかったから今日の事態を迎えた。終戦直後の軟弱外交は北方四島なんて言う変法を生んだ。全千島と樺太南半部が日本だろ。怯えた議員達に問題解決能力はなかった。銃も撃てないで竹島とか騒ぐな。多くのチャンスを官僚が逃さないように質の高い議論をせよ。官僚は情報よりも世論を見ている。
武力は解決を遠ざける。