か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

川南(かわなみ)造船所。風化し取壊され美化されるのか、人間魚雷。

2012年02月01日 | 東洋歴史
帝国海軍は開戦当時世界最高の魚雷を持っていた。破壊力、航続力、速度、雷跡、どれをとっても世界に比するものはなかった。

現代の技術をもってしても魚雷の速度は時速200キロが限度だ。当時我が国の魚雷は最高速で時速90キロだった。第一次大戦時の魚雷の速度は時速30キロ程度であるから長足の進歩を遂げている。

魚雷だから当然海中を進む。推進力はどうやって得たのだろう。なんと外径63センチの中にレシプロエンジンを搭載していたのだ。そしてわずかの消費された酸素の分だけタンクから供給するという方式をとった。これは恐ろしく長い航続力とほとんど見えない雷跡という二つの利点をもたらした。

そのわずかの排気は二重反転プロペラの軸を通って海中に消えた。直径63センチの円の中に時速100キロを出すエンジンを収めたのだ。地上ならわけもない。この63センチが問題だ。どの国も破壊力と工作性と推進力のはざまで悩んでいた。水の多様な抵抗は直径に比して加速度的に増大する。

帝国海軍はどの一点をとってもゆるぎなき世界最高の栄誉を獲得した。

40km先の敵を屠ることができたのだ。敵を恐怖のどん底にたたき落とした。40kmの彼方から水面下を時速100キロで近づいてくる槍に米軍は恐怖を越えて感嘆した。JAPはなんと多くのSUBMARINEを持っていたのか。いや、米軍がそう思っただけだ。わが潜水艦は一隻だった。槍が正確で長かったのだ。

しかし、帝国の夢はいつも短く残虐な結末になる。整備力、工作力が漸減するにつれこの酸素魚雷の活躍する場は消えた。

もはや戦局は、何でも言いから船をつくれ、という断末魔の様相を呈していた。戦時急造船だ。関連産業もない片田舎で艦載機の飛来に怯えつつ精神力だと鼓舞されていったいどんな船をつくれというのか。

何隻か人間魚雷を作ったようだ。なんと時速13キロメートル。自転車のようなスピードで敵艦に向かって行ったら米軍はきっと降伏に来たのかと思っただろう。動力は一応潜水艦だから蓄電池とディーゼルのハイブリッドだ。自転車に乗った少年を機関銃で撃ち殺す。だれでもできることだ。

死ぬかもしれないが戦えと言われたら戦うことなどわけもない。お前が死ぬと大勢が助かると言われたら僕にはいく勇気はない。この人間魚雷(海龍)は違う。なんの意味もなく犬死しろといっている。

海龍が造られた川南(かわなみ)造船所が取り壊しになることになった。その時の写真。
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Posted at 2011/12/21 19:44:56

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