2007年4月10日(火)の 『李歐』 (講談社文庫) は、櫻花屯 のp456からp521、つまり最後まで読了。
タイトルは、咲子さんが耕太に言った台詞。
【さくら桜】
★その村の外れからは、五千本の桜がネンジァンのほとりへ続き、一彰が村に落ち着いて間もない五月には、この世のものとは思えない開花の風景を見た。 (p512)
注:ネンジァンの「ネン」が変換できず、バランス悪いのでカタカナで統一しました。以下同。
【今回の名文・名台詞・名場面】
★『十一月九日、ぼくはベルリンの壁が壊されるのをこの目で見た。あまりに素晴らしい光景だったので、この興奮を君と君の家族にも届けたい。ぼくの歓喜が、木馬に乗って日本へ届きますように』 (p461)
11月だったか、たまたまテレビのチャンネル変えたら、放送大学のドイツ語入門Iの文化コーナーで、ベルリンの壁の崩壊が取り上げられてました。 あんなウソみたいな出来事でベルリンの壁が破壊され、大きく歴史が動いたのかと思うと・・・後から事実を知った李歐の反応を知りたいものです(苦笑)
残念ながら流れた映像には、李歐は映ってませんでした(←あったりめーだ!) あれほどの美形、カメラマンがほっとくわけないと思うが(←まだ言うか!)
★この十数年の中でも、李歐は今や打てば響く家族のようであり、一彰にも話したいことは山ほどあったし、相手の話も山ほど聞きたいと思う。そういう気持ちが、これまでにもまして募っていくのを感じながら、一彰は李歐に宛てて、ロンドンの私書箱に木馬を囲んだ家族の写真を送り、一緒に添えた新年のカードに『ぼくは年月を数えることにした。君と別れて、四千五百四十日が経つ。五千日を数える前にぼくは大陸へ行く決心をした』と書いた。 (p462)
カズぼん、ついに決意。 しかし難関(妻・咲子の猛反対)が待ち受けていた。
(『リヴィエラを撃て』のネタバレありますので、ご注意)
比較するのもどうかと思いますが、『リヴィエラを撃て』の手島時子さんの場合。
精神的にズタズタにされた夫・手島修三さんを見て、恐らく「このままではこの人はダメになる」と思っただろうから、手島さんと共に日本を離れました。相当悩んで悩んで、悩み抜いたとは思うのよ。
一方の咲子さん。・・・まあ、これがそれなりの反応だよね。自分の人生ひっくり返すような賭けに似てるもんね。
★結局のところ、二十二のころに発見したと思った大陸も、短い日々にその姿を見た若き日の李歐も、一向に行き先の定まらない自分の人生がたどり着いた守山工場に射してきた一幅の光だったのか。それが未だに光る闇でしかないところを見ると、自分は今もなお確かなものは何も摑んでいないということだろうと一彰は考えた。母と守山耕三はすでに亡く、大陸と李歐が残り、今はさらに妻子が加わっていたが、この作業場こそ三十年来の自らの不毛を包み、不毛のまま生かしてきた場所だったのだと、今さらながらに納得した。そうだとすると、工場を清算して出ていくのは、言葉の正しい意味でたしかに正真正銘の出発であり、人生はこれからだということだった。
李歐にしても、自分とは器の桁が違うにしろ、一人の人間である以上、そのうちにどれほどの不毛を抱えているか、知れたものではなかった。しかし、大陸の荒野を緑の耕地に変える事業に乗り出した時点で、李歐は、一足先になにがしかの未来を見いだしたのだとすれば、なにはともあれこの目で確かめたい、一緒に喜び、称賛を伝えたい、と思った。この自分が今一番何をしたいかと言えば、たぶんそのことだと一彰は自分に応えてみたが、思えば、妻子を捨てるろくでなしの血もまた、母譲りだった。 (p470~471)
もうグダグダですな、カズぼん・・・。
★近年の原口は、十年前よりはるかに重みを増した自らの立場と、生来の放逸の折り合いを付けるようにして一彰を飼い続けているように見えたが、ともに十年分の年を重ね、落ちつくべきところに落ちついた感もあった。原口の風狂はここ数年、無人の島で男二人、何もしないで一緒に風呂に入るだけというのが最高やと言い、実際、三十半ばになった一彰も、何となくその感覚は分かるようになっていた。たしかに、こういう淫靡の形もあるのだ、と。飼い殺すだの、咬み殺すだのと言い合ってきた戯れは、ともかく十年を経て、そんなふうに変わってきたのだ。 (p477)
十年か・・・すごいなあ。「淫靡の形」が変わっても、ここまで律儀にカズぼんを守る楯になっている原口組長はえらい! ある意味で私の理想の夫婦の形だよ!(爆)
『わが手に拳銃を』のリ・オウはとっとと原口組長殺してましたが(苦笑)、『李歐』の李歐は、「今、原口を殺したら一彰の身が危ない。状況が変わり、時が来るのを待て」と、状況見極めた判断をしている気がします。 それでも綱渡りのような絶妙なバランスの、均衡の危うさは変わらないんだけどね。
★どんな回路を使ったのか、狡猾な脳味噌は何とか逃げ道を探しだすと、代わりに生前の原口達郎の顔をいくつも、いくつも呼び戻して見せた。大阪刑務所の運動場で、帽子の下から白い歯を見せて「兄ちゃん」と呼びかけてきた顔。「青竹に蛇」と囁いて、若い男の指をくわえてみせた顔。来る日も来る日も楽しげに拳銃の話をしていた顔。初めて一彰に調整させたコルト・ガバメントを手に、いきなり「海へ行こう」と言い出した顔。
一彰は数分の間、知らぬ間にどこかへ運ばれて微笑んでいたが、しかしそれも、急激に現実に引き戻されると同時に、見るもの聞くものから実感が抜け落ちて、最後は一面の靄だった。 (p480~481)
ここを取り上げたのは、単純に私の好みから。原口組長、好きだもん・・・。原口達郎組長追悼を、カズぼんと共に。合掌。
★一彰はたしかに泣いたが、それは身体中の骨や臓腑や筋肉が一つひとつ溶けて崩れていくような歓喜であり、歓喜と同量の後悔や絶望を含んだ、全身がちぎれそうな苦痛だった。一寸先も見えない不安に押し潰されそうに苦しく、幸福過ぎてやはり苦しかった。この十五年、自分が何を考えてきたか、何をしてきたか、今何が起こっているか、一切何も知らない女を前にした自分の存在は、すみからすみまで反吐を催しそうだったが、その自分が、今また生涯この女を離すまいと思う。まさに、幸福と窮地が見事に隣り合い、誠実と不実が奇跡的に釣り合っている、この一瞬を惜しんだ余興だった。 (p484~485)
「余興」って、カズぼんあんた・・・と呆然となりそうなほど、ここは「高村節」と言いたくなるような文章表現ですね。
★ここ数年来、一彰は自分の心臓と一つであるかのように李歐の心臓を感じるのだった。この半日の間に自分が封じ込めた山ほどの感情を、李歐は今、一つ一つその手で摑み出していき、一彰の代わりに悲嘆と憤怒の声を上げて泣いていた。一つ泣き声を上げるたびに李歐は怒りを募らせ、誰も止めることが出来ないその咆哮が、海を越えてここまで轟いてくるのが分かった。咲子の死から自分の妻子の死へ、友人知人たちの死へ、文革時代の父母の死へ、いくつもいくつも遡っていき、さらにそこに自分の手で殺してきた人間全部を足して、李歐は自分の生きてきた時代の、せめてその袂でも引っ摑んで、これ以上はない無念と憎悪の火を噴き出していた。そうして今にもうねり出していこうとしている苛烈な魂一つを、一彰は刻々と自分の心臓の中に感じた。狂い出て行く李歐の一歩一歩を、そのつど敗れそうになる自分の動悸の一つ一つで感じた。 (p490~491)
カズぼんと共有している李歐の激しい怒り、生きている時代に対するやるせなさは、読んでいる私も辛い。
★咲子を死なせたというのに、自分の心身はまだ十分に形を留めてここにある。それは異様な感じだった。自分にはまだまだ李歐を待つ意思と気力があり、たとえ万一のことがあっても、李歐を待ち望んだ日々が減るわけではないと思う、この心のありようも異様だった。一つ一つ掘り返したら、出てくるのはただ、恋しい、恋しい、恋しい、という五千日弱の他愛ないため息だけだったが、それが積み重なってここまで来た、この十五年のすべてが異様だった。 (中略)
しかし一彰は、遠くまで来たと思う自分の今を、もう憎悪はしなかった。母に連れられて、三十一年前に野里のバス停に降り立った子供は、その後山ほどの嘘と不実を塗り重ねてここまで来て、今日はついに女房まで死なせて、もうこれ以上自分を憎悪する余地もなかった。どんなに異様だろうと、ここにいる自分はもうこれ以上のものにはなれず、李歐を待つこの心身一つ、もう憎悪の対象にもならない何者かだと言うほかなかった。だから、もういいではないか。自分は恋しいだけだ。恋しい、恋しい。李歐が無事なら、この心臓が止まってもいいと一彰は思ったのだ。 (p495~496)
495ページだけで「恋しい」の単語が6個。
分かった! あんたの想いは分かったから! 早く李歐の元へ飛んで行け! と死んだ咲子さんに代わって、許して応援したくなる(苦笑)
今どきの恋愛小説は読んでないので分からないが、こんな直截且つ品の良い言葉で心情を絞り出すのは、逆に新鮮で珍しいかもしれない。「好き」や「愛している」じゃなくて「恋しい」だから。
★「守山はな、黄友法が死んだとき、一言『希望のカラ売りや』て言いよった。今もはっきり覚えとる……。戦争が終わっても、植民地が独立しても、民主主義だの共産主義だのいうて、どれだけの人間が希望の前売り券を自分の命で買うてきたか、いうことや。それでもその日は来ない。いつまで待っても、希望のカラ売りや。そういう時代やった。
それでも、どこかの一点で時代は動いていくんやろう。文化大革命も、何百万人も死んで、あるとき終わった。ベトナム戦争も終わった。ベルリンの壁も崩壊した。誰かが動かしていくんや。誰が動かすか、や。そんな人間が、どこかの一点で出てくる」
「ぼくが希望と言ったのは、そういう意味です」
「ひょっとしたらあの后光寿はその一人かも知れんぞ。……君は、どう思う?」 (p509)
いい意味で出てくればいいけれど、悪い意味で出てこられるとね・・・と最近の政治情勢を見て憂う。
★李歐が現れた日のことは、一生忘れることは出来ない。 (p516)
うん、私もね。 その感動を味わったところを、以下にピックアップ。
★一彰はそのとき、これは見知らぬ男だ、という思いを自分に確認するのがやっとだった。目の当たりにしていたのは、二十二歳の李歐そのままの目鼻立ちと変形はしているが、なおも言葉がないほどの凛々しさと、見たことのない美しさを湛えた男だった。もう一片の無駄もなく研ぎ澄まされた肉と骨と魂だった。
李歐は、すぐ目の前まで進んできて「ヘイ……!」と一言発し、一彰も何とか一言、「やあ」と日本語で応えた。
「笹倉が死んだ」
李歐はしっかりとした日本語で言い、一彰は初めに直感した通り、ただ一つうなずいた。
「后光寿も死んだ。ぼくは李歐に戻った」
「よく帰ってきた。……お帰り」
「一彰こそ、よく来てくれた。……さあ、行こう」 (p518)
★荷車を引いて先頭を行く李歐は、十六で国を出て以来二十二年の転変を経て、今や常人にはもはや覗くことも覚束ない深みを背筋に刻み、ますます壮大になった強烈な意思の光を、その全身から発散させていた。四千の人びとと、百万ヘクタールの土地と、五千本の桜と、巨万の富を従えたその男の足元で、まさに三百六十度の大地がひれ伏しているかのようだった。 (p519)
あまりにも鮮やかな、生と死の描写。笹倉氏の遺体の重さと、後に続くカズぼんをはじめとする数多の人間の命を、背中に引き受ける李歐。
その踏み出す一歩一歩の確かさに、最も胸をつかれ、静かな感動を覚えた場面です。
で、相当迷ったんですが、あえてアレからアレはすっ飛ばします~(笑)
★五月、ネンジァンのほとりには五千本の桜が咲いた。李歐は、花の妖気に誘われるように昔と同じファルセットで「ホォンフー――スィヤーアァ、ランヤァミ、ランタァ、ラァンアァ」と唄った。薄い布を波のように振り流しながら、全身を春の喜びに震わせ、その手指と腕と脚で、大地と天空の光全部を抱くようにして踊った。 (p521)
李歐が桜か、桜が李歐か。
たくさんの偽名・・・鈴木、晏磊(アンレイ)、範飛耀(ファンフェイヤオ、白面(パイミァン)、后光寿(ホウクァンショウ)・・・を使って生き抜いた李歐が、ようやく本来の「李歐」に戻り、これから生きていくという、決意にも似た歓喜の舞い。
高村作品を読むといつも感じるのは、「締めくくりはこれしかない!」という終わり方。 「この後に文章続けられるか? いや無理でしょ、蛇足でしょ」と思うの。
時には静かなさざなみのような感動に、時には大きな衝撃に包まれて、余韻を惜しみながら本を閉じるのが、何より好き。
これで『李歐』再読日記は終わりです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。 お疲れさまでした! (私もね)
来年からは、長らく放置している『神の火』再読日記(旧版・新版ともに)に手をつけたいです・・・。
タイトルは、咲子さんが耕太に言った台詞。
【さくら桜】
★その村の外れからは、五千本の桜がネンジァンのほとりへ続き、一彰が村に落ち着いて間もない五月には、この世のものとは思えない開花の風景を見た。 (p512)
注:ネンジァンの「ネン」が変換できず、バランス悪いのでカタカナで統一しました。以下同。
【今回の名文・名台詞・名場面】
★『十一月九日、ぼくはベルリンの壁が壊されるのをこの目で見た。あまりに素晴らしい光景だったので、この興奮を君と君の家族にも届けたい。ぼくの歓喜が、木馬に乗って日本へ届きますように』 (p461)
11月だったか、たまたまテレビのチャンネル変えたら、放送大学のドイツ語入門Iの文化コーナーで、ベルリンの壁の崩壊が取り上げられてました。 あんなウソみたいな出来事でベルリンの壁が破壊され、大きく歴史が動いたのかと思うと・・・後から事実を知った李歐の反応を知りたいものです(苦笑)
残念ながら流れた映像には、李歐は映ってませんでした(←あったりめーだ!) あれほどの美形、カメラマンがほっとくわけないと思うが(←まだ言うか!)
★この十数年の中でも、李歐は今や打てば響く家族のようであり、一彰にも話したいことは山ほどあったし、相手の話も山ほど聞きたいと思う。そういう気持ちが、これまでにもまして募っていくのを感じながら、一彰は李歐に宛てて、ロンドンの私書箱に木馬を囲んだ家族の写真を送り、一緒に添えた新年のカードに『ぼくは年月を数えることにした。君と別れて、四千五百四十日が経つ。五千日を数える前にぼくは大陸へ行く決心をした』と書いた。 (p462)
カズぼん、ついに決意。 しかし難関(妻・咲子の猛反対)が待ち受けていた。
(『リヴィエラを撃て』のネタバレありますので、ご注意)
比較するのもどうかと思いますが、『リヴィエラを撃て』の手島時子さんの場合。
精神的にズタズタにされた夫・手島修三さんを見て、恐らく「このままではこの人はダメになる」と思っただろうから、手島さんと共に日本を離れました。相当悩んで悩んで、悩み抜いたとは思うのよ。
一方の咲子さん。・・・まあ、これがそれなりの反応だよね。自分の人生ひっくり返すような賭けに似てるもんね。
★結局のところ、二十二のころに発見したと思った大陸も、短い日々にその姿を見た若き日の李歐も、一向に行き先の定まらない自分の人生がたどり着いた守山工場に射してきた一幅の光だったのか。それが未だに光る闇でしかないところを見ると、自分は今もなお確かなものは何も摑んでいないということだろうと一彰は考えた。母と守山耕三はすでに亡く、大陸と李歐が残り、今はさらに妻子が加わっていたが、この作業場こそ三十年来の自らの不毛を包み、不毛のまま生かしてきた場所だったのだと、今さらながらに納得した。そうだとすると、工場を清算して出ていくのは、言葉の正しい意味でたしかに正真正銘の出発であり、人生はこれからだということだった。
李歐にしても、自分とは器の桁が違うにしろ、一人の人間である以上、そのうちにどれほどの不毛を抱えているか、知れたものではなかった。しかし、大陸の荒野を緑の耕地に変える事業に乗り出した時点で、李歐は、一足先になにがしかの未来を見いだしたのだとすれば、なにはともあれこの目で確かめたい、一緒に喜び、称賛を伝えたい、と思った。この自分が今一番何をしたいかと言えば、たぶんそのことだと一彰は自分に応えてみたが、思えば、妻子を捨てるろくでなしの血もまた、母譲りだった。 (p470~471)
もうグダグダですな、カズぼん・・・。
★近年の原口は、十年前よりはるかに重みを増した自らの立場と、生来の放逸の折り合いを付けるようにして一彰を飼い続けているように見えたが、ともに十年分の年を重ね、落ちつくべきところに落ちついた感もあった。原口の風狂はここ数年、無人の島で男二人、何もしないで一緒に風呂に入るだけというのが最高やと言い、実際、三十半ばになった一彰も、何となくその感覚は分かるようになっていた。たしかに、こういう淫靡の形もあるのだ、と。飼い殺すだの、咬み殺すだのと言い合ってきた戯れは、ともかく十年を経て、そんなふうに変わってきたのだ。 (p477)
十年か・・・すごいなあ。「淫靡の形」が変わっても、ここまで律儀にカズぼんを守る楯になっている原口組長はえらい! ある意味で私の理想の夫婦の形だよ!(爆)
『わが手に拳銃を』のリ・オウはとっとと原口組長殺してましたが(苦笑)、『李歐』の李歐は、「今、原口を殺したら一彰の身が危ない。状況が変わり、時が来るのを待て」と、状況見極めた判断をしている気がします。 それでも綱渡りのような絶妙なバランスの、均衡の危うさは変わらないんだけどね。
★どんな回路を使ったのか、狡猾な脳味噌は何とか逃げ道を探しだすと、代わりに生前の原口達郎の顔をいくつも、いくつも呼び戻して見せた。大阪刑務所の運動場で、帽子の下から白い歯を見せて「兄ちゃん」と呼びかけてきた顔。「青竹に蛇」と囁いて、若い男の指をくわえてみせた顔。来る日も来る日も楽しげに拳銃の話をしていた顔。初めて一彰に調整させたコルト・ガバメントを手に、いきなり「海へ行こう」と言い出した顔。
一彰は数分の間、知らぬ間にどこかへ運ばれて微笑んでいたが、しかしそれも、急激に現実に引き戻されると同時に、見るもの聞くものから実感が抜け落ちて、最後は一面の靄だった。 (p480~481)
ここを取り上げたのは、単純に私の好みから。原口組長、好きだもん・・・。原口達郎組長追悼を、カズぼんと共に。合掌。
★一彰はたしかに泣いたが、それは身体中の骨や臓腑や筋肉が一つひとつ溶けて崩れていくような歓喜であり、歓喜と同量の後悔や絶望を含んだ、全身がちぎれそうな苦痛だった。一寸先も見えない不安に押し潰されそうに苦しく、幸福過ぎてやはり苦しかった。この十五年、自分が何を考えてきたか、何をしてきたか、今何が起こっているか、一切何も知らない女を前にした自分の存在は、すみからすみまで反吐を催しそうだったが、その自分が、今また生涯この女を離すまいと思う。まさに、幸福と窮地が見事に隣り合い、誠実と不実が奇跡的に釣り合っている、この一瞬を惜しんだ余興だった。 (p484~485)
「余興」って、カズぼんあんた・・・と呆然となりそうなほど、ここは「高村節」と言いたくなるような文章表現ですね。
★ここ数年来、一彰は自分の心臓と一つであるかのように李歐の心臓を感じるのだった。この半日の間に自分が封じ込めた山ほどの感情を、李歐は今、一つ一つその手で摑み出していき、一彰の代わりに悲嘆と憤怒の声を上げて泣いていた。一つ泣き声を上げるたびに李歐は怒りを募らせ、誰も止めることが出来ないその咆哮が、海を越えてここまで轟いてくるのが分かった。咲子の死から自分の妻子の死へ、友人知人たちの死へ、文革時代の父母の死へ、いくつもいくつも遡っていき、さらにそこに自分の手で殺してきた人間全部を足して、李歐は自分の生きてきた時代の、せめてその袂でも引っ摑んで、これ以上はない無念と憎悪の火を噴き出していた。そうして今にもうねり出していこうとしている苛烈な魂一つを、一彰は刻々と自分の心臓の中に感じた。狂い出て行く李歐の一歩一歩を、そのつど敗れそうになる自分の動悸の一つ一つで感じた。 (p490~491)
カズぼんと共有している李歐の激しい怒り、生きている時代に対するやるせなさは、読んでいる私も辛い。
★咲子を死なせたというのに、自分の心身はまだ十分に形を留めてここにある。それは異様な感じだった。自分にはまだまだ李歐を待つ意思と気力があり、たとえ万一のことがあっても、李歐を待ち望んだ日々が減るわけではないと思う、この心のありようも異様だった。一つ一つ掘り返したら、出てくるのはただ、恋しい、恋しい、恋しい、という五千日弱の他愛ないため息だけだったが、それが積み重なってここまで来た、この十五年のすべてが異様だった。 (中略)
しかし一彰は、遠くまで来たと思う自分の今を、もう憎悪はしなかった。母に連れられて、三十一年前に野里のバス停に降り立った子供は、その後山ほどの嘘と不実を塗り重ねてここまで来て、今日はついに女房まで死なせて、もうこれ以上自分を憎悪する余地もなかった。どんなに異様だろうと、ここにいる自分はもうこれ以上のものにはなれず、李歐を待つこの心身一つ、もう憎悪の対象にもならない何者かだと言うほかなかった。だから、もういいではないか。自分は恋しいだけだ。恋しい、恋しい。李歐が無事なら、この心臓が止まってもいいと一彰は思ったのだ。 (p495~496)
495ページだけで「恋しい」の単語が6個。
分かった! あんたの想いは分かったから! 早く李歐の元へ飛んで行け! と死んだ咲子さんに代わって、許して応援したくなる(苦笑)
今どきの恋愛小説は読んでないので分からないが、こんな直截且つ品の良い言葉で心情を絞り出すのは、逆に新鮮で珍しいかもしれない。「好き」や「愛している」じゃなくて「恋しい」だから。
★「守山はな、黄友法が死んだとき、一言『希望のカラ売りや』て言いよった。今もはっきり覚えとる……。戦争が終わっても、植民地が独立しても、民主主義だの共産主義だのいうて、どれだけの人間が希望の前売り券を自分の命で買うてきたか、いうことや。それでもその日は来ない。いつまで待っても、希望のカラ売りや。そういう時代やった。
それでも、どこかの一点で時代は動いていくんやろう。文化大革命も、何百万人も死んで、あるとき終わった。ベトナム戦争も終わった。ベルリンの壁も崩壊した。誰かが動かしていくんや。誰が動かすか、や。そんな人間が、どこかの一点で出てくる」
「ぼくが希望と言ったのは、そういう意味です」
「ひょっとしたらあの后光寿はその一人かも知れんぞ。……君は、どう思う?」 (p509)
いい意味で出てくればいいけれど、悪い意味で出てこられるとね・・・と最近の政治情勢を見て憂う。
★李歐が現れた日のことは、一生忘れることは出来ない。 (p516)
うん、私もね。 その感動を味わったところを、以下にピックアップ。
★一彰はそのとき、これは見知らぬ男だ、という思いを自分に確認するのがやっとだった。目の当たりにしていたのは、二十二歳の李歐そのままの目鼻立ちと変形はしているが、なおも言葉がないほどの凛々しさと、見たことのない美しさを湛えた男だった。もう一片の無駄もなく研ぎ澄まされた肉と骨と魂だった。
李歐は、すぐ目の前まで進んできて「ヘイ……!」と一言発し、一彰も何とか一言、「やあ」と日本語で応えた。
「笹倉が死んだ」
李歐はしっかりとした日本語で言い、一彰は初めに直感した通り、ただ一つうなずいた。
「后光寿も死んだ。ぼくは李歐に戻った」
「よく帰ってきた。……お帰り」
「一彰こそ、よく来てくれた。……さあ、行こう」 (p518)
★荷車を引いて先頭を行く李歐は、十六で国を出て以来二十二年の転変を経て、今や常人にはもはや覗くことも覚束ない深みを背筋に刻み、ますます壮大になった強烈な意思の光を、その全身から発散させていた。四千の人びとと、百万ヘクタールの土地と、五千本の桜と、巨万の富を従えたその男の足元で、まさに三百六十度の大地がひれ伏しているかのようだった。 (p519)
あまりにも鮮やかな、生と死の描写。笹倉氏の遺体の重さと、後に続くカズぼんをはじめとする数多の人間の命を、背中に引き受ける李歐。
その踏み出す一歩一歩の確かさに、最も胸をつかれ、静かな感動を覚えた場面です。
で、相当迷ったんですが、あえてアレからアレはすっ飛ばします~(笑)
★五月、ネンジァンのほとりには五千本の桜が咲いた。李歐は、花の妖気に誘われるように昔と同じファルセットで「ホォンフー――スィヤーアァ、ランヤァミ、ランタァ、ラァンアァ」と唄った。薄い布を波のように振り流しながら、全身を春の喜びに震わせ、その手指と腕と脚で、大地と天空の光全部を抱くようにして踊った。 (p521)
李歐が桜か、桜が李歐か。
たくさんの偽名・・・鈴木、晏磊(アンレイ)、範飛耀(ファンフェイヤオ、白面(パイミァン)、后光寿(ホウクァンショウ)・・・を使って生き抜いた李歐が、ようやく本来の「李歐」に戻り、これから生きていくという、決意にも似た歓喜の舞い。
高村作品を読むといつも感じるのは、「締めくくりはこれしかない!」という終わり方。 「この後に文章続けられるか? いや無理でしょ、蛇足でしょ」と思うの。
時には静かなさざなみのような感動に、時には大きな衝撃に包まれて、余韻を惜しみながら本を閉じるのが、何より好き。
これで『李歐』再読日記は終わりです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。 お疲れさまでした! (私もね)
来年からは、長らく放置している『神の火』再読日記(旧版・新版ともに)に手をつけたいです・・・。