あるタカムラーの墓碑銘

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三輪車と納豆かけご飯と、どっちがええの (p483)

2013-12-30 00:17:43 | 李歐 再読日記
2007年4月10日(火)の 『李歐』 (講談社文庫) は、櫻花屯 のp456からp521、つまり最後まで読了。

タイトルは、咲子さんが耕太に言った台詞。


【さくら桜】

★その村の外れからは、五千本の桜がネンジァンのほとりへ続き、一彰が村に落ち着いて間もない五月には、この世のものとは思えない開花の風景を見た。 (p512)

注:ネンジァンの「ネン」が変換できず、バランス悪いのでカタカナで統一しました。以下同。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★『十一月九日、ぼくはベルリンの壁が壊されるのをこの目で見た。あまりに素晴らしい光景だったので、この興奮を君と君の家族にも届けたい。ぼくの歓喜が、木馬に乗って日本へ届きますように』 (p461)

11月だったか、たまたまテレビのチャンネル変えたら、放送大学のドイツ語入門Iの文化コーナーで、ベルリンの壁の崩壊が取り上げられてました。 あんなウソみたいな出来事でベルリンの壁が破壊され、大きく歴史が動いたのかと思うと・・・後から事実を知った李歐の反応を知りたいものです(苦笑)
残念ながら流れた映像には、李歐は映ってませんでした(←あったりめーだ!) あれほどの美形、カメラマンがほっとくわけないと思うが(←まだ言うか!)

★この十数年の中でも、李歐は今や打てば響く家族のようであり、一彰にも話したいことは山ほどあったし、相手の話も山ほど聞きたいと思う。そういう気持ちが、これまでにもまして募っていくのを感じながら、一彰は李歐に宛てて、ロンドンの私書箱に木馬を囲んだ家族の写真を送り、一緒に添えた新年のカードに『ぼくは年月を数えることにした。君と別れて、四千五百四十日が経つ。五千日を数える前にぼくは大陸へ行く決心をした』と書いた。 (p462)

カズぼん、ついに決意。 しかし難関(妻・咲子の猛反対)が待ち受けていた。
(『リヴィエラを撃て』のネタバレありますので、ご注意)
比較するのもどうかと思いますが、『リヴィエラを撃て』の手島時子さんの場合。
精神的にズタズタにされた夫・手島修三さんを見て、恐らく「このままではこの人はダメになる」と思っただろうから、手島さんと共に日本を離れました。相当悩んで悩んで、悩み抜いたとは思うのよ。
一方の咲子さん。・・・まあ、これがそれなりの反応だよね。自分の人生ひっくり返すような賭けに似てるもんね。

★結局のところ、二十二のころに発見したと思った大陸も、短い日々にその姿を見た若き日の李歐も、一向に行き先の定まらない自分の人生がたどり着いた守山工場に射してきた一幅の光だったのか。それが未だに光る闇でしかないところを見ると、自分は今もなお確かなものは何も摑んでいないということだろうと一彰は考えた。母と守山耕三はすでに亡く、大陸と李歐が残り、今はさらに妻子が加わっていたが、この作業場こそ三十年来の自らの不毛を包み、不毛のまま生かしてきた場所だったのだと、今さらながらに納得した。そうだとすると、工場を清算して出ていくのは、言葉の正しい意味でたしかに正真正銘の出発であり、人生はこれからだということだった。
李歐にしても、自分とは器の桁が違うにしろ、一人の人間である以上、そのうちにどれほどの不毛を抱えているか、知れたものではなかった。しかし、大陸の荒野を緑の耕地に変える事業に乗り出した時点で、李歐は、一足先になにがしかの未来を見いだしたのだとすれば、なにはともあれこの目で確かめたい、一緒に喜び、称賛を伝えたい、と思った。この自分が今一番何をしたいかと言えば、たぶんそのことだと一彰は自分に応えてみたが、思えば、妻子を捨てるろくでなしの血もまた、母譲りだった。
 (p470~471)

もうグダグダですな、カズぼん・・・。

★近年の原口は、十年前よりはるかに重みを増した自らの立場と、生来の放逸の折り合いを付けるようにして一彰を飼い続けているように見えたが、ともに十年分の年を重ね、落ちつくべきところに落ちついた感もあった。原口の風狂はここ数年、無人の島で男二人、何もしないで一緒に風呂に入るだけというのが最高やと言い、実際、三十半ばになった一彰も、何となくその感覚は分かるようになっていた。たしかに、こういう淫靡の形もあるのだ、と。飼い殺すだの、咬み殺すだのと言い合ってきた戯れは、ともかく十年を経て、そんなふうに変わってきたのだ。 (p477)

十年か・・・すごいなあ。「淫靡の形」が変わっても、ここまで律儀にカズぼんを守る楯になっている原口組長はえらい! ある意味で私の理想の夫婦の形だよ!(爆)
『わが手に拳銃を』のリ・オウはとっとと原口組長殺してましたが(苦笑)、『李歐』の李歐は、「今、原口を殺したら一彰の身が危ない。状況が変わり、時が来るのを待て」と、状況見極めた判断をしている気がします。 それでも綱渡りのような絶妙なバランスの、均衡の危うさは変わらないんだけどね。

★どんな回路を使ったのか、狡猾な脳味噌は何とか逃げ道を探しだすと、代わりに生前の原口達郎の顔をいくつも、いくつも呼び戻して見せた。大阪刑務所の運動場で、帽子の下から白い歯を見せて「兄ちゃん」と呼びかけてきた顔。「青竹に蛇」と囁いて、若い男の指をくわえてみせた顔。来る日も来る日も楽しげに拳銃の話をしていた顔。初めて一彰に調整させたコルト・ガバメントを手に、いきなり「海へ行こう」と言い出した顔。
一彰は数分の間、知らぬ間にどこかへ運ばれて微笑んでいたが、しかしそれも、急激に現実に引き戻されると同時に、見るもの聞くものから実感が抜け落ちて、最後は一面の靄だった。
 (p480~481)

ここを取り上げたのは、単純に私の好みから。原口組長、好きだもん・・・。原口達郎組長追悼を、カズぼんと共に。合掌。

★一彰はたしかに泣いたが、それは身体中の骨や臓腑や筋肉が一つひとつ溶けて崩れていくような歓喜であり、歓喜と同量の後悔や絶望を含んだ、全身がちぎれそうな苦痛だった。一寸先も見えない不安に押し潰されそうに苦しく、幸福過ぎてやはり苦しかった。この十五年、自分が何を考えてきたか、何をしてきたか、今何が起こっているか、一切何も知らない女を前にした自分の存在は、すみからすみまで反吐を催しそうだったが、その自分が、今また生涯この女を離すまいと思う。まさに、幸福と窮地が見事に隣り合い、誠実と不実が奇跡的に釣り合っている、この一瞬を惜しんだ余興だった。 (p484~485)

「余興」って、カズぼんあんた・・・と呆然となりそうなほど、ここは「高村節」と言いたくなるような文章表現ですね。

★ここ数年来、一彰は自分の心臓と一つであるかのように李歐の心臓を感じるのだった。この半日の間に自分が封じ込めた山ほどの感情を、李歐は今、一つ一つその手で摑み出していき、一彰の代わりに悲嘆と憤怒の声を上げて泣いていた。一つ泣き声を上げるたびに李歐は怒りを募らせ、誰も止めることが出来ないその咆哮が、海を越えてここまで轟いてくるのが分かった。咲子の死から自分の妻子の死へ、友人知人たちの死へ、文革時代の父母の死へ、いくつもいくつも遡っていき、さらにそこに自分の手で殺してきた人間全部を足して、李歐は自分の生きてきた時代の、せめてその袂でも引っ摑んで、これ以上はない無念と憎悪の火を噴き出していた。そうして今にもうねり出していこうとしている苛烈な魂一つを、一彰は刻々と自分の心臓の中に感じた。狂い出て行く李歐の一歩一歩を、そのつど敗れそうになる自分の動悸の一つ一つで感じた。 (p490~491)

カズぼんと共有している李歐の激しい怒り、生きている時代に対するやるせなさは、読んでいる私も辛い。

★咲子を死なせたというのに、自分の心身はまだ十分に形を留めてここにある。それは異様な感じだった。自分にはまだまだ李歐を待つ意思と気力があり、たとえ万一のことがあっても、李歐を待ち望んだ日々が減るわけではないと思う、この心のありようも異様だった。一つ一つ掘り返したら、出てくるのはただ、恋しい、恋しい、恋しい、という五千日弱の他愛ないため息だけだったが、それが積み重なってここまで来た、この十五年のすべてが異様だった。 (中略)
しかし一彰は、遠くまで来たと思う自分の今を、もう憎悪はしなかった。母に連れられて、三十一年前に野里のバス停に降り立った子供は、その後山ほどの嘘と不実を塗り重ねてここまで来て、今日はついに女房まで死なせて、もうこれ以上自分を憎悪する余地もなかった。どんなに異様だろうと、ここにいる自分はもうこれ以上のものにはなれず、李歐を待つこの心身一つ、もう憎悪の対象にもならない何者かだと言うほかなかった。だから、もういいではないか。自分は恋しいだけだ。恋しい、恋しい。李歐が無事なら、この心臓が止まってもいいと一彰は思ったのだ。
 (p495~496)

495ページだけで「恋しい」の単語が6個。
分かった! あんたの想いは分かったから! 早く李歐の元へ飛んで行け! と死んだ咲子さんに代わって、許して応援したくなる(苦笑)
今どきの恋愛小説は読んでないので分からないが、こんな直截且つ品の良い言葉で心情を絞り出すのは、逆に新鮮で珍しいかもしれない。「好き」や「愛している」じゃなくて「恋しい」だから。

★「守山はな、黄友法が死んだとき、一言『希望のカラ売りや』て言いよった。今もはっきり覚えとる……。戦争が終わっても、植民地が独立しても、民主主義だの共産主義だのいうて、どれだけの人間が希望の前売り券を自分の命で買うてきたか、いうことや。それでもその日は来ない。いつまで待っても、希望のカラ売りや。そういう時代やった。
それでも、どこかの一点で時代は動いていくんやろう。文化大革命も、何百万人も死んで、あるとき終わった。ベトナム戦争も終わった。ベルリンの壁も崩壊した。誰かが動かしていくんや。誰が動かすか、や。そんな人間が、どこかの一点で出てくる」
「ぼくが希望と言ったのは、そういう意味です」
「ひょっとしたらあの后光寿はその一人かも知れんぞ。……君は、どう思う?」
 (p509)

いい意味で出てくればいいけれど、悪い意味で出てこられるとね・・・と最近の政治情勢を見て憂う。

★李歐が現れた日のことは、一生忘れることは出来ない。 (p516)

うん、私もね。 その感動を味わったところを、以下にピックアップ。

★一彰はそのとき、これは見知らぬ男だ、という思いを自分に確認するのがやっとだった。目の当たりにしていたのは、二十二歳の李歐そのままの目鼻立ちと変形はしているが、なおも言葉がないほどの凛々しさと、見たことのない美しさを湛えた男だった。もう一片の無駄もなく研ぎ澄まされた肉と骨と魂だった。
李歐は、すぐ目の前まで進んできて「ヘイ……!」と一言発し、一彰も何とか一言、「やあ」と日本語で応えた。
「笹倉が死んだ」
李歐はしっかりとした日本語で言い、一彰は初めに直感した通り、ただ一つうなずいた。
「后光寿も死んだ。ぼくは李歐に戻った」
「よく帰ってきた。……お帰り」
「一彰こそ、よく来てくれた。……さあ、行こう」
 (p518)

★荷車を引いて先頭を行く李歐は、十六で国を出て以来二十二年の転変を経て、今や常人にはもはや覗くことも覚束ない深みを背筋に刻み、ますます壮大になった強烈な意思の光を、その全身から発散させていた。四千の人びとと、百万ヘクタールの土地と、五千本の桜と、巨万の富を従えたその男の足元で、まさに三百六十度の大地がひれ伏しているかのようだった。 (p519)

あまりにも鮮やかな、生と死の描写。笹倉氏の遺体の重さと、後に続くカズぼんをはじめとする数多の人間の命を、背中に引き受ける李歐。
その踏み出す一歩一歩の確かさに、最も胸をつかれ、静かな感動を覚えた場面です。


で、相当迷ったんですが、あえてアレからアレはすっ飛ばします~(笑)


★五月、ネンジァンのほとりには五千本の桜が咲いた。李歐は、花の妖気に誘われるように昔と同じファルセットで「ホォンフー――スィヤーアァ、ランヤァミ、ランタァ、ラァンアァ」と唄った。薄い布を波のように振り流しながら、全身を春の喜びに震わせ、その手指と腕と脚で、大地と天空の光全部を抱くようにして踊った。 (p521)

李歐が桜か、桜が李歐か。
たくさんの偽名・・・鈴木、晏磊(アンレイ)、範飛耀(ファンフェイヤオ、白面(パイミァン)、后光寿(ホウクァンショウ)・・・を使って生き抜いた李歐が、ようやく本来の「李歐」に戻り、これから生きていくという、決意にも似た歓喜の舞い。

高村作品を読むといつも感じるのは、「締めくくりはこれしかない!」という終わり方。 「この後に文章続けられるか? いや無理でしょ、蛇足でしょ」と思うの。
時には静かなさざなみのような感動に、時には大きな衝撃に包まれて、余韻を惜しみながら本を閉じるのが、何より好き。



これで『李歐』再読日記は終わりです。
お付き合いいただき、ありがとうございます。 お疲れさまでした! (私もね)

来年からは、長らく放置している『神の火』再読日記(旧版・新版ともに)に手をつけたいです・・・。


男の人は、女より熱に弱いて言いますけど (p409)

2013-11-29 00:18:41 | 李歐 再読日記
2007年4月9日(月)の 『李歐』 (講談社文庫) は、幽霊 のp396からp455まで読了。

タイトルは風邪をひいて熱を出したカズぼんに、経理担当の高野さんが言った台詞。
先週健診があったのですが、男性は採血の際に顔を背けてることが多いですね。
熱が37℃をちょっと超えただけでも「もう死ぬ~」「もうアカン~」とギャンギャン騒ぐし。 黙っておとなしく寝てろっちゅーねん!
・・・というのを思い出して、今回のタイトルにしました。


【さくら桜】

★守山工場の花見は、今年も盛会に終わった。樹齢六十年を越えた主役の桜は、どこにそんな力があるのかと驚くほど今年もまた枝を伸ばし、花は年々ますます見事になる。 (p398)

★それから二日後の月曜日の夜、強い風が吹いて、まだ三日ぐらいは持つだろうと思っていた桜が激しい勢いで散り始めた。 (p402)

★目覚めると、天空を切る風の轟音と桜の枝の唸る音が、ひゅんひゅん、ばたばた鳴り続けており、枕元でそれを聞きながら、ふと、桜はもう散ってしまっただろうかと思い、起き上がって窓のカーテンを開けると、外は一面の桜吹雪が渦を巻いていた。 (p402~403)

★府警本部の大阪城公園も、塀を覆う桜の靄はもう色が抜けかけていた。 (p411)


【今回の名文・名台詞・名場面】

★二十二歳のころの面差しとほとんど差はないが、そこに十年前にはなかった風格が加わって、畏怖を覚えるほど鮮やかな男の顔が、はっきり見えていたのだった。桜ではない、七分咲きの真紅の極薄の花びらがゆっくりと開いていく牡丹のような華やかさだった。 (p404)

カズぼんから見た、30代の李歐。
後半部分は絶世の美男だけではなく、絶世の美女の描写でも十分通用しそうな表現ですね。

★「十年も待ってたからな」と一彰が応えると、「まだ十年だ」と李歐は言う。
そうして喋るたびに、ゆるやかに開く口許からは、黄金色の濃厚な蜜のような十年分の豪奢な笑みが滲み出して、一彰との一メートル足らずの距離をじわじわ満たしていき、一彰は一刻一刻を惜しみながら、骨にまでそれを沁み込ませたいと思ったものだった。
 (p405)

李歐の描写が艶っぽい。ただそれだけでピックアップ。

★「年月なんか数えるな。この李歐が時計だ。あんたの心臓に入っている」
「心臓に?」
「動いているだろう?」
「ああ……、心臓が妊娠したような気分だ」
「そいつは嬉しいな。ぞくぞくしてきた……」
光の靄は、その言葉通りさんざめくように震え、悶えるように光輝を迸らせて、李歐がほんとうに、一瞬全身で愉悦の声を上げたかのようだった。するとたちまち興奮は一彰にも伝わり、心臓が子宮になってうごめきだす未知の快感に貫かれながら、身体中から笑いが噴き出した。
 (p405)

『李歐』の中でも「惚れたって言えよ」と匹敵する名台詞のやり取り。今回は普段は無視されているこの後の部分も引用しました。・・・本当に心臓が妊娠しちゃったんだな、カズぼん・・・。

★「たくさん話したいが、しかし、また今度だ。忘れないでくれ。まずは五千本の桜であんたを大陸に迎えたいと思う。今夜たしかに約束した。こうして、ここで約束した」と。
行かないでくれ、もっと話をしてくれ、そんな説明では分からないと喉元まで出かけた声は、どこからかやってきた直観に封じられ、一彰はやっと一言「心和肝……!」と呼びかけることが出来ただけだった。十年前に自身が吐いた言葉は李歐に届いたようで、もうほとんど消えかけている残光の中から、満足げに、また一つ悦びに身を震わしたらしい微かな気配が返ってきた。
 (p406~407) 

先走りますけど、「心和肝……!」の叫びで李歐は生き返ったようなものですね。

★「商売人は自由です。北京の闘争劇はいやというほど身に沁みてますが、機を見るのは商売人の方が上ですよって。政治には翻弄されても、最後には金を動かしているほうが勝ちです。」 (後略) (p436)

こういう気概のある「商売人」って、今の日本にいるんだろうか。

★ゲリラ時代にジャカルタで出会ったのなら、それは行きずりの一夜の交情から始まったのだろうと、まず想像してみた。しかし、その後も数回逢瀬を重ねて、子供まで孕ませたのなら、李歐は恋をしたことになる。
恋といっても、淡い好意が親しみに変わったのか、それとも激しい欲情がどこまでも深まった結果なのか、あるいは肌寂しさが募らせた夢だったのか。自分と咲子の五年間を重ね合わせながら、一彰は李歐がどんな恋をしたのかと自分のことのように胸を騒がせ、いったいどんな顔立ちの女だったのか、具体的にどんな逢瀬の日々だったのか、想像が追いつかないままに虚しく臓腑を絞らせた。李歐は女にどんなことを囁いたのか、どんなふうに抱いたのか、女はどんなふうに李歐を受け入れたのか、二人でどんな歓喜の声を挙げたのか……。
李歐がどこかの女に恋をした。どこかの女が李歐に恋をした。二人の間に息子が生まれた。
ただそれだけの事実を一彰は知っただけだったが、李歐とインドネシアの女の艶めかしい息づかいが鼻孔をくすぐり、絡み合った李歐の白い肌と女の狐色の肌の熱さが、今にも自分の肌に張りついてきそうだった。二人が我を忘れたに違いない数秒の熱波や恍惚が、その二人の身体から発散して地球を巡った末に、数年も遅れて自分の身体に届き、この自分の下半身を貫いている、と感じた。そうして身体にやって来た感覚とともに、茫々として温かい霧に包まれながら、一彰はしばし、まるで自分が李歐になって女を愛したような、あるいは自分が女になって李歐を愛したような、そんな幻覚の中にいた。
 (p440~441)

長い引用になりましたが、ここを取り上げるか否か、さんざん迷った。
カズぼんが咲子さんと睦みあってる時の描写は、色気や官能はあまり感じないのですが、李歐は別格。相手が男だろうが女だろうが関係なし。
それにしてもさあ・・・カズぼんの想像力って、何というか・・・度を越してるというか、スケールが違うというか、的が外れてるというか・・・。 カズぼん本人自覚してないだろうけど、ちょっとは嫉妬も含んでいると思う。
恐ろしいのは、これ全部カズぼんの「想像」ということ。実際にカズぼんが想像したような出会いや恋をしたのかは、李歐本人に訊かないと分からないのだよ。

★「市場で動かしているのは所詮、数字です。稼いだ資金を最終的に何に使うかで、人間の真価が決まります。」 (後略) (p446)

★「水を制する者は土地を制する。豊かな耕地と緑は千年の財産やと、后光寿は言うてます。これからの数十年、電子技術はどれほど進歩するや分かりませんが、人間は機械を食うて生きていくことは出来ませんやろ。二十一世紀の人類を支えるのは耕地やて、后光寿は言います。」 (後略) (p446)

上記二つの引用。李歐の哲学が垣間見えますね。

★「そうそう、后光寿は言うてました。日本にいた短い間に心に残ったものの一つは、守山工場の桜だったと。ほんの少しの差で、彼は結局あの桜が咲いている姿は見てませんのやが。はて、桜のほかに彼の心に残ったものというのは、何やったんでしょうか……?」
笹倉は針のように細めた目で嗤い、一彰は苦笑いを返すに留めて、応えなかった。
 (p447)

意地の悪い笹倉氏(苦笑)

★こうして現在に至る足跡を聞いた今もなお、百年千年先の大地のために種を蒔くという李歐は、この自分がたとえ生まれ変わってもまだ、手の届かないほど彼方にいる何者かだと感じた。長年の自分の想像をことごとく裏切って、今なお摑みどころがないほど茫洋として大きく、どんなに夢を見ても見たりない何者かであることが、心から楽しく、痛快だった。 (p447)

スケールが大きいとしか言えない李歐。

★一つは「年月は数えない」と。もう一つは「桜は千本で十分だ」と。守山工場の桜一本で、毎春精気が吸い尽くされるほどなのに、千本もあったら、それこそ千の命があっても足らないじゃないか、と。 (p447)

李歐の提案を、一つはあっさり承諾して、一つはやんわりと修正案を提示するカズぼん。五千本どころか、千本でも多すぎるほど多いね。手入れも大変だし・・・(いきなり現実的)

★もはや李歐の十年はほぼ輪郭を現し、大陸もまた具体的な土地の風景になって立ち現れた今、一人の男と一つの大地は、夢想ではない新たな生々しい大気という大気を圧していた。平原の風に吹かれて立つ桜の一本一本は、数千キロの彼方から手招きするように一彰を誘い、どこかの枕の上で今は静かに閉じているのだろう男の唇は、ゆるりと紅を引いてやりたいような欲望を駆り立てていた。その一方では、狂い出るのでない限り、自分は大陸へ出ていけず、李歐の姿を再び見ることもないという唐突な結論もまた、それは確かにやって来て、今ここにあるのだった。
一彰は、自分の心身がいっそひと思いに狂い出さないかと思い、目が痛くなるまで青葉をふいた桜を眺め続けた後、自分は生きて大陸を見ることはない、という結論を一つ出してみた。しかしその直後、李歐に会いたいという思いは逆に熱波になり、たった今出した結論も脇に置いて、一彰は自分の心臓を摑み出すほかないような苦しさに全身を絞り上げられていた。
 (p449~450)

恋する男のとまどいやためらい、迷うさまが何とも言えませんな、カズぼん。


いろいろ抜けている気がしますが、ここで一旦アップ。
あと1回で完成です。


金になりそうなものはないな (p362)

2013-11-24 21:11:15 | 李歐 再読日記
前回までのアップ分のあと、続きの下書き部分が保存されていたので、それを パクリ 利用しつつ、現在読んでいる方が記憶が新しいため、これ以降は初版の『李歐』で引用していきます。
「あれ? 私の持っているものと違う・・・」と思われたら、それが違いのある部分という証拠。 ご報告よろしく!


2007年4月8日(日)の 『李歐』 (講談社文庫) は、コウモリ のp349から、幽霊 のp396まで読了。
珍しく日曜日に出かけたので、電車で読みました。映画「バッテリー」のチケットが当たったので、観に行ったのでした(・・・と、日記を紐解いて気付いた・笑)

今回のタイトルは、李歐が「アイルランドの特産品は何だ」とキーナン神父に尋ね、「雨。牛。ギネス。リネン。文学」と応じたときの李歐の返答。


【今回の漢詩】

杜甫の七言律詩「返照」 (p369)
但し李歐が自分の写真に書き添えたのは、最後の2行のみ。

楚王宮北正黄昏    楚王宮北 正に黄昏なるに
白帝城西過雨痕    白帝城西 過雨の痕 
返照入江翻石壁    返照 江に入りて石壁に翻えり
歸雲擁樹失山村    帰雲 樹を擁して 山村を失す
衰年肺病惟高枕    衰年 肺を病んで 惟だ枕を高うし
絶塞愁時早閉門    絶塞 時を愁えて 早く門を閉ず
不可久留豺虎亂    久しく豺虎の乱に留まる可からず
南方實有未招魂    南方 実に未だ招かれざるの魂有り


張謂の七言古詩「湖中對酒作」(唐詩選) もしくは 「湖上對酒行」(全唐詩) (p379)
タイトルが確定してないらしい。 おまけに読み下し文が分からなかった。 『唐詩選』、持ってないのだ。
文字化けしてるところもありますが、ご勘弁。
カズぼんが咲子といちゃついているときに、最後の2行を呟いてました。

夜坐不厭湖上月
晝行不厭湖上山
眼前一尊又長滿
心中萬事如等
主人有黍百餘石
濁醪數斗應不惜
即今相對不盡歡
別後相思復何益
茱萸灣頭歸路賖(貝+余)
願君且宿黄公家
風光若此人不醉
參差辜負東園花



【さくら桜】

★司祭はにこにこしながら青葉をふいた桜の大木を見上げて、「これはほんとうに奇跡の木ですね」と言う。 (p349)

★「姫里の工場の隣には小さなカソリック教会があって、そこには大きな桜の木がある。四月初めに花が咲く。この世のものとは思えないほどの美しさだ」 (p367)

★カーテンを閉めずにおいた窓の外は、花芽で重そうにたわんだ桜の枝がくっきりと浮かび上がり、一週間前は見えなかった花芽の薄いピンク色が、夜陰を華やいだ感じにしていた。 (p379~380)


【今回の名文・名台詞・名場面】

★あのパイミァンは特別でした。まるで待ち構えていたように、身につけていたものを全部脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿で驟雨の下に立つと、悠然と身体を洗い始めるのです。底知れない緑の中に人間の白い裸身が一つあるというのは、悪魔の誘惑かと思うほどの光景です。それがもし女性であったなら、私はきっと欲情に呑まれていたに違いありません。彼は、それほどに美しい姿をしていましたが、恐ろしいことに、彼は私が見ていることを知っており、ときどき挑発するように私の方へ振り向いては、清々と笑ってみせることもありました。 (p356)

キーナン神父、李歐に魅せられる。あるいは李歐、キーナン神父を誘惑する。

★「もしも彼に会ったら、そう遠くない将来に、必ず迎えに行くからと伝えてほしい」と。彼は「必ず迎えに行く」という言葉を、二度繰り返しました。 (p368)

李歐、「白馬に乗った王子様」の定番台詞を吐く。
長い人類の歴史の中で、このような言葉を信じたがために泣いた人間は数えきれないほどいますが(苦笑)、李歐は有言実行。

★また、李歐の残忍さについても、西洋人の司祭にはどう映ったのか分からないが、一彰の目には、南洋の国々の政治や社会の不毛と混沌の中にあって、それを鮮やかに突き抜ける、研ぎ澄まされた回答のようにも感じられたのだった。理性の言葉など初めから無用な、殺すか殺されるかの狂気に満ちた密林のゲリラ戦の中にあって、李歐の残忍さにはむしろ、聡明や透徹という言葉が似合うと一彰は思った。そこにあったのは、生きるための鮮やかな残忍と、死ぬときは死ぬと見据えた透徹だけだ、と。 (p370)

★とめどなく広がっていく夢想のどこかに、その夜は壮大な気分と絶望の両方が根を下ろしているのを感じながら、一彰は普段は滅多にしないのに、久々に声に出して李歐の名を呼んでみた。それは、たっぷりと震えてかすれ、まるで初めて恋人の名を呼んだみたいだと、自分でも可笑しかった。
「李歐、(君は大陸の覇者になれ、ぼくは君についていく夢を見るから)……」
 (p374)  ※カッコ内は北京語。

文庫の帯のコピーにも使用された一文ですが、帯は

「李歐よ 君は大陸の覇者になれ ぼくは君の夢を見るから――」

だったはず。
「ついていく」の有無で、印象が異なるなあ。前者は能動的で意志が強く感じるし、後者は受動的って感じ?

★実弾をぶっ放して気晴らしになるというのでもなく、もちろん男の肌が恋しいのでもなかった。それでも、誘われれば日常を放り出して島へ行く自分がいる。原口二のクルーザーに乗ったのは、昨夜もまた、もう一人の吉田一彰だった。 (p388)

淡々と連ねられた文章の中に突然官能をそそるような一文が挿入されると、ドキドキして困るんだよね・・・(苦笑)

★李歐の脚。もう十年にもなるが、初めてキタ新地の路地で出会った男が踊り出したときの、魔術のようにしなる身体を支えていた脚と膝。あの美しい動きを支えていた一つの柱が、腰から下に伸びた真っ直ぐな骨だったことを、実はその場で初めて納得しながら、一彰は自分の直観に寸分の疑いも持たなかった。 (p392)

ここで思い出すのが『照柿』。 東京駅で野田達夫が合田雄一郎さんと再会した際に、

上背があり、涼しげで無駄のない夏の身なりをし、習慣のように真っ直ぐに伸びた背筋から下半身への線は、爽快そのものだった。木を掘るとき、上から下へ、ノミを一気に打ち込むことの出来る線だ。そういう線を持つ人間は、現実にめったにいるものではない。

と惚れ惚れしてましたね。

★李歐がもしほんとうに生きていたとして、十年前に会ったきりの日本人が一人死んだと聞いて何を思うのか、どうせ死んだ自分には分からないことだと思えば案じるまでもなく、これはもう、先に夢を見たまま死んだ方が勝ちだ、と。
あるいはまた、もし逆に李歐が死んだと知らされた日には、少なくともこの手でこの原口を殺そう、と。その後、貨物船にもぐり込んででも大陸へ渡ろう、と。
 (p396)

な・ん・で!? と初めて読んだときは疑問だった部分。
何度か読み返して分かったが、組長がどこかの組織と手を組んで李歐を始末したとしたら、組長は「李歐の仇」になるわけだ。
ここは原口組長にしては「蛇」(カズぼんのことね)は人質であって諸刃の剣。
李歐にしても、原口組長が人質である「蛇」を、ある意味守っていると判断できるから手を出しにくい。
カズぼんと李歐がお互いに信頼し合ってないと、この絶妙の均衡状態は維持されない。際どい綱渡りのようなところだな。


雑居房で男同士が知り合ったといえば、それで察して下さい。 (p338)

2008-01-05 00:05:30 | 李歐 再読日記
2007年4月7日(土)の 『李歐』 (講談社文庫) は、コウモリ のp298からp349まで読了。
そういえば7日は「新潮」 の発売日でしたから、キリのいいところで読むのをやめたんだっけ。この直後に、キーナン神父の長い長い手紙が控えているから。

今回のタイトルは、カズぼんの台詞から。さて、そう聞かされた田丸さんは、何をどう「察した」んでしょうね?


【さくら桜】

★作業場の中から従業員が「ほら、咲きましたで!」と長閑な一声を上げた。見上げると、工場の庭を覆う桜に淡いピンク色の花がちらほら散っており、その一瞬は思わず金策も忘れて目を細めたものだった。来る日も来る日も仰いできたと思った桜だが、一彰が開花を見るのは実に十九年ぶりだったのだ。 (p323~324)

★桜は、咲きだすと早い。一晩で三分咲きになった花は、日増しに枝という枝にピンク色の雲を散らしていき、 (p328)

★工場の桜は、一夜明けると一気に散り始め、庭は桜吹雪だった。 (p336)


【今回の名文・名台詞・名場面】
原口組長ご贔屓の私、前回は恥ずかしさが先に立ってかなり抑えましたが、今回はドドンといきますよん♪

★一彰の目にはただ、対立する組の幹部を日本刀で切りつけるのも辞さない男の血なまぐささや、拳銃と情欲のごった煮や、一緒に過ごした夜の生身の熱などが脈絡もなく重なり、平穏な生活に慣れかけていた臓腑が、びくっとおののいたに留まった。 (p301)

原口組長との再会。思うこと、いろいろ。感じること、いろいろ。

★「まあ、私らの世界では自首は裏切りと同じやて、素人さんに言うても仕方ない。初めにそう教えておかなかった人間のミスでっしゃろ」 (中略) 
「一部、ミスがあったことは認める。しかし、私たちはミスを放置したことはない」
 (p302)

カズぼんをあくまで「素人」と通す原口組長と、それを認めたくないシンジケートの男たちと。こういう世界は、あまり理解を示したくはないんですが(苦笑)
ただ、このやり取り次第ではカズぼんの「これからの立ち位置」に、微妙に違いが出てくるんですよね。

★グラスを置いて目が合うと、数秒の間互いに見えない綱を引き合い、一彰が先に逸らそうとした目を原口は再度引き戻して、待ち構えていたように、さまざまな狂おしい爆発を滲ませた笑みを噴き出させた。 (p305)

何て官能的なんだ! この数秒間の駆け引きを、隠微と淫靡と言わずして何と言う! 原口組長が「どのようにして」カズぼんが逸らした目を引き戻したのか、いろいろと裏読み出来る部分ですよね。ちなみに私は・・・ 組長がカズぼんをグイッと引き寄せた。更に妄想を膨らませると、カズぼんの顎をガシッと掴んで、顔を自分の方へ固定させた。 ・・・と妄想を働かせたりもしましたが、如何? (あくまで「裏読みの妄想」ですので、よしなに)
本当はその表現通り、視線を絡め合って、綱引きのような駆け引きがあったんだろうと思われます(そして、カズぼんが負けた)
だけど読み返すと、たまに妄想を働かせたくなる部分なんですよ~。

★「塀の中では、ええ目させてもろうた」
「今日、その分は返していただきました」
「あんなのは儀式やが、吉田さん。今日はあんたを見ていて、蛇を思い出した。草むらでじっとしとる、きれいな毒蛇や。触ったらひんやり冷たい。おとなしいが、なつきもしない。最後は、咬みつく。ええやないか……。惚れ直したで」
「笛を吹いてくれたら、踊りましょうか」
「それも、スリル満点や。客人らにああ言うた手前もあるが、あんたはこの原口がもろうた。組は関係ない。俺が飼い殺すか、あんたが咬むか、や」
 (p305)

さすがです組長。カズぼんという毒蛇を飼うという酔狂、そして何と余裕のある、懐の大きなお方なのでしょう。
・・・それはそれで置いておいて、組長もカズぼんとの相性(←何の)が良かったんですか。そうですか、それは良かった♪ (私は「原口×カズぼん」なもので)

★「ひっかかる感じがしたんやろ?」
そう言い当てて見せた原口は、顎のひと振りで一彰を椅子から立たせると、一彰のジャケットの前を自分の手ではだけて、スラックスのベルトの脇にリボルバーを差し込んだ。
そうして、餌を与えた蛇を愛でるように「削り直しは任せた、興奮させてくれや」と原口は囁き、一彰の方もまた、意思とは関係なく溢れ出た身震いとともに、腰にぶら下がった拳銃一丁の重量を味わったのだった。
 (p309)

おお、何と大胆な組長の行動! その後の囁きが、動と静といった感じで実によろしい。官能的だなあ~(こればっかり) 

★刑務所時代、原口は一彰の若い生硬な手指を青竹のようだと言い、便箋を割いて作った紙縒りをそれに這わせながら、青竹に蛇、と笑ったのだった。そして、紙縒りの先で撫でられるたびに一彰が身震いを走らせると、原口は「咬んだろか……」と囁いたのだ。 (p310~311)

出ました、紙縒りプレイ!(←こらこら)
でも、この気持ちは分からないでもないんだよなあ。私も小さい頃から、柔らかい布団のシーツや毛布の端っこの部分を触るのが好きだったらしい(笑) 触りすぎて、当然その部分だけ真っ黒けで、洗濯しても汚れが落ちなかったそうな・・・。

★「この原口が、あんたの草むらの安全は守ったるさかい、俺が覗いたときには、愛想の一つでもみせてくれや」
「愛想、ですか……」
「愛想や。そのつど飼い主が誰かを思い出すやろ?」
 (p313)

「愛想の一つ」で済めばいいんですけどねえ? 済まないんですよねえ、これが。

さて、原口組長とカズぼんの関係。『わが手に拳銃を』 (講談社) との違いは、これで明白ですね。
『わが手に拳銃を』 では、杯を交わした組長は、カズぼんをあちらこちらに連れ回し、やくざ仲間に顔見せさせている。
『李歐』 では、一切そんなことはしない。組織や裏の世界から手が回らないようにする代わりに、拳銃の修理や改造を依頼する組長、守ってもらう代わりに、それらを引き受けるカズぼんという、一種の取引関係になっている(更にプラスアルファの行為もありますが)
カズぼんを「堅気の人間」として扱っている組長が、ギリギリの線でカズぼんの生活を守っているんですよね。

★もはや想像もおぼつかない霞の中で、一彰は身体じゅうの皮膚を破って噴き出す欲望に駆られた。噴き出すように、李歐に会いたいと思った。 (p321)

★それが何者であったにしろ、もう一度会いたい、ただ会いたいと思った。
しかし、李歐はもういないのだ。
 (p321~322)

「後悔」という言葉では片付けられない、一彰の想い。p321は「会いたい」という言葉が連呼されていて、読んでいると恥ずかしい気がするのは、私だけ・・・じゃないですよね?

★「人間、あんまり美しいもんを見ると、言葉が出えへんようになりますんやな」 (p331)

守山工場の桜を見た人の言葉。確かに美しい物や人などを目にすると、絶句しますものね(そういう経験有り)

★誰もほんとうの顔を見たことがないというのも、実に李歐らしい。 (中略) 政治の影を引きずっているのは李歐ではなくアジアであり、何者かと尋ねられたら李歐は李歐だと答えるしかない。その李歐が生きており、昔自ら言っていた通り、今やアジアのどこかで、金を動かしているのだ。想像する端から、飛び跳ねるように胸が弾んだ。
ああ李歐が生きている。
 (p340~341)

2~3つ前に取り上げた内容とは一転して、カズぼんの歓喜をひしひしと感じる部分。
李歐って、変な表現かもしれませんが、ある意味では「本物の幻」のような存在なんですよね。以前も記しましたが、李歐という名前を知っているのは、吉田一彰ただ一人。それ以外の人たちが知っているのは、偽名を使用している李歐。


こんな時間にアホな子……! (p267)

2007-07-03 22:58:18 | 李歐 再読日記
今回も房子さんの台詞から。

単行本『マークスの山』 (早川書房) を探して古書店巡りをしていると、ついつい他の高村作品も版数を確認する癖がついてしまいました。
 
そしてついに見つけましたよ・・・! 『李歐』 (講談社文庫) の初版! やったあ!
噂の又聞きなんですが、初版と2版と3版以降で、ちょこちょこ違う部分があるらしいのです。ヒマな時に見比べてみようっと。

***

2007年4月6日(金)の 『李歐』 (講談社文庫) は、李歐 のp241からコウモリ のp298まで読了。


【主な登場人物】

原口達郎・・・原口組五代目組長。刑務所内でカズぼんと知り合う。今回分では、カズぼんの過去の回想でしか登場しませんけどね。
『李歐』で私が最も好きなキャラクター。理由? それは訊かなくても分かってるでしょ。


【今回の書籍】

ショーロホフとか、魯迅とか、パール・バックとか・・・李歐が住んでいた村に来た学生から貰った本の作家。ショーロホフは、きっと『静かなドン』(あるいは『静かなるドン』。出版社によって、表記が違う)。魯迅は『阿Q正伝』 『狂人日記』は当然でしょうし、それ以外ももちろんあるでしょうね。パール・バックは『大地』ですね。これは面白かったなあ~。機会があれば、再読したい。初めて読んだのが小学6年生だったから。

シェークスピアの『マクベス』・・・同上。四大悲劇の一つ。残る三つは『オセロー』 『ハムレット』 『リア王』


【今回の音楽】

チャイコフスキーがいいなあ、ヴェルディがいいなあ・・・同上。舞踊を学んでいた学生がいたので、李歐も一緒に踊るようになった。ここで李歐は特技の一つを身につけたのですね。


【今回の漢詩】

劉長卿の七言絶句「重送裴中貶吉州」 (p250)
拳銃を李歐と一緒に盗みに行ったカズぼんが、舞鶴で撮影したポラロイド写真の裏に書きつけたもの。

猿啼客散暮江頭  猿啼き客散ず 暮江の頭
人自傷心水自流  人は自ら心を傷(いた)ましめ 水は自ら流る
同作逐臣君更遠  同じく逐臣と作(な)りて 君更に遠く
青山萬里一孤舟  青山萬里一孤舟


ちなみに李歐が「改作」したのは、以下の通り。大きくしてある部分を変更。

猿啼客散暮江頭
人自傷舒心水自流
同作大臣君更遠
青山萬里一孤舟



【さくら桜】

★守山は「工場の桜、咲いたか」と尋ね、一彰が「ああ咲いたよ」と応えると、長い時間を置いて一言、「ぼん。花見や……」という呟きが返ってきた。それが最後の言葉になった。 (中略) まだまだ桜の開花には遠い、肌寒い日のことだった。 (p271)

★夜になって冷え込んだ姫里の路地に、桜の樹皮の微かな匂いが漂っていた。来年の春は桜の下で一彰と酒が呑めると言って、去年の夏から守山がずっと開花を待ち続けていた桜だった。まだ固いままの花芽をつけたその裸の枝が、教会の敷地から大きくせり出して寒風にたわみ、工場の建屋の屋根をバタバタと叩いていた。 (p277~278)

守山さんの最期。出所したカズぼんと観桜することを心待ちにしていたのにねえ・・・。

★耳をすませると、工場の屋根を叩いて鳴り続ける桜の枝の彼方に、今もまた一瞬、李歐の声が聞こえた。 (p285)

今回は桜の咲いている場面はありませんが、カズぼんの心象風景ということで・・・。


【今回の名文・名台詞・名場面】
前回はちょっと暴走してしまい、暴言を連発してしまいましたが、今回は抑えるように努めます。もちろん、( )内は北京語です。

★「それでも、ぼくが失望したかというと、それは違う。朝から晩まで、豚の毛を抜きながらぼくはずって大地を眺めていた。地球は丸いんだから、地平線の先はヒマラヤだ、太平洋だ、ほっきょくかいだ、と想像し始めたら飽きるはずがないじゃないか。それに、土と空しかないというのは、ともかく壮大だった……」 (p244)

李歐の原点は、この小さい頃に培われた感性にあったんですね。

★「日本の新聞は、文革はそろそろ終わるだろうと書いてる……」
「終わっても何も変わらないのが中国だ。もともとおおかたの人間はお上の言うことなんか聞いていないし、農村は貧し過ぎる。共産党の妖怪の巣はそのまま生き残る。中国を救うのは唯一、経済だ。金の力だ。だから僕は金儲けをするんだ。手段は何でもいい。洗浄してしまえば、合法的な資金だからな」
 (p249)

李歐には、一本筋の通った信念「金儲け」。

★一彰は、ずっと目を凝らして眺め続けた。やがて李歐は一彰の方へ向き直って立ち、雨の中から突然「(降りて来いよ)!」と声を張り上げた。それはちょっと、震えるように響いた。
「(もう言うな)」と一彰は応じ、李歐に向かって手招きした。李歐はやって来て、船の縁に上がり、首をいっぱいに伸ばして護岸を見上げた。一彰も護岸からいっぱいに身を乗り出した。
「李歐。いつか大陸に連れ出してくれ。約束してくれ」
「それはもう約束済みだ。(とにかく降りて来いよ、どうして降りてこないんだ)!」
仰向けた顔いっぱいに雨を受け、目をしばたたきながら、李歐はこれまで突然見せたことのない激情をあらわにして、一彰の眼下で何やら喉を振り絞っていた。しかしもう、その目や口許や声の表情を受け止める時間はなく、一彰は「惚れた?」という一言で全部を受け流した。
やられたと思ったかどうか、李歐はほんの一瞬、真っ白な歯をむきだして嗤った。それから、互いにいっぱいに伸ばした腕で首を抱き合い、離れた。どちらももうすっかり濡れそぼっていたので、まるでプールの中で抱き合ったような感じがした。
 (p262~263)

『李歐』で、必ずといっていいほど名場面・名台詞に挙げられるところ。ちょっと長い引用になりましたが、ここは切れないでしょう。
今回で読むのは5回目くらいなんですが、白状しますとこの5回目で、初めてうるっと涙腺が緩みかけました。特に 「どうして降りてこないんだ!」 のところ。たまたまタイミングよく、電車が乗換駅に着いたので、涙を引っ込めましたが(←この薄情者!) もう一駅先でしたら、どうなっていたやら。

何でだろう? 何度も読んでるのに! 内容も結末も分かってるのに! いや、分かっているからでしょうね。
十五年って、ひと口では言えても、実際はとんでもないほど長い長い年月なんですよね。カズぼんの十五年はこれから語られていくわけですが、李歐の十五年は、第三者の手紙や語りでちょっとしか垣間見えません。また、それが余計に想像力をかき立てられるし、李歐の苦難・苦労がしのばれるわけです。

この場面、李歐にしてはまったく余裕がなく、逆にカズぼんはいつものように落ち着いていて、精神的に優位に立ってますね。カズぼんが2か月年上と判明したからでしょうか? 両者の対比としては、なかなか面白いところです。

★一彰はしばらく遠ざけていた男の顔をゆっくりと呼び戻したが、それと同時にその顔に重なる数十日の不快と興奮の入り交じった泥のような時間が戻ってきた。 (p290)

雑居房でともに過ごした数十日で、カズぼんの心身に深く食い込むことに成功した原口組長。さすがでございます。
蛇足ですが・・・。
不快 → 原口組長に○○○されたこと。
興奮 → 拳銃の話と、上記に伴うものの両方あると思われる(笑)

★一彰は、寝苦しさがつのると拳銃を頭の中で組み立てており、原口に誘われるのを恐れながら、一方では頭と身体のどちらかが原口を待っているという毎夜だった。 (p291)

蛇足ですが・・・。
頭が待っているもの → 原口組長が語る拳銃の話。
身体が待っているもの → 原口組長自身。カズぼんの身体に合ったんでしょうか(爆) ・・・不快やったんとちゃうんかい、カズぼん!(←無用なツッコミ) 「心と身体は別」かも知れませんが、ね。

★その重しの下からなおも滲み出してくる衝動が、不安をほの暗い興奮に変え、振動させ、最後には不安も興奮も、泥に沈むようにして一つになっていく。そうして自分のもののようでない身体と頭に、一彰は硫酸でも注ぐように拳銃の話を注ぎ、繰り返し繰り返し、焼火箸に触れるように幻想の鋼に触れ、指を這わせたのだった。 (p292)

★長い夢から覚めるようにやって来たその鮮やかな実感は、あれほど激しかった拳銃の妄執を一気に洗い流して、それ以降ほとんど思い出すこともなかったのだった。それがも今ごろ原口達郎の名前一つとともに忽然と立ち戻ってくる、その速やかさもまた恐ろしいほどだった。 (p292)

上記二つの引用。李歐が土と空の間で「李歐」を形成したように、カズぼんも拳銃で「吉田一彰」を形成したということなのか。これぞ、三つ子の魂百まで。しかも新たに「拳銃=原口組長」とすり込まれてしまっているから、もう逃げ出せない、避けられない。


「十年早い女たらし」 (p196)

2007-05-05 22:46:02 | 李歐 再読日記
2007年4月5日(木)の 『李歐』 (講談社文庫) は、守山工場 のp121から李歐 のp183からp241まで読了。

今回のタイトルは房子さんがカズぼんを称した台詞。しかし一つ足りない。「男たらし」でもあるんですよ。その点は田んぼのおまるの方が、よくご存知だ(苦笑)


【李歐の偽名】
ここでちょっとまとめてみましょうか。現時点で登場していない偽名もありますが、ご了承を。【2007.5.8. 追記しました】

鈴木・・・「ナイトゲート」にいた時と、守山さんが知っている名前。笹倉さんは、鈴木の名前も知っている。

晏磊(アンレイ)、範飛耀(ファンフェイヤオ)・・・殺し屋として国際指名手配になっている名前。田丸さんが知っているのも、この名前。原口組長は、晏磊の方を知っている。

白面(パイミァン)・・・すみません、これを忘れておりました。キーナン神父が会った時には、この偽名を使用。「白面儿(パイミァル)」で、ヘロインの意味になるそう。李歐、相変わらず人を食ってます。

后光寿(ホウクァンショウ)・・・後に笹倉さんと手を組んだ時に名乗った、実業家としての偽名。原口組長は、后光寿の名前も知っている。

カズぼんは、全ての偽名も知っているし、本名も知っている。「本名を知っているのはカズぼんだけ」という前回のネタバレ隠し字部分で綴ったこと、これでお解かりでしょ?


【今回の漢詩】

杜甫の五言拝律「春帰」 (p203)
ビールを飲んだ李歐が、思わずもらした一節は、最後の「此身醒復酔 乘興即爲家」の部分。

苔径臨江竹    苔径 江に臨む竹
茅簷覆地花    茅簷 地を覆う花
別来頻甲子    別れし来り頻りに甲子
帰到忽春華    帰り到れば忽ち春華
倚杖看孤石    杖に倚って孤石を看  
傾壺就浅沙    壺を傾けて浅沙に就く
遠鴎浮水静    遠鴎 水に浮んで静かに
軽燕受風斜    軽燕 風を受けて斜めなり
世路雖多梗    世路 梗ぐこと多しと雖も
吾生亦有涯    吾が生 亦た涯り有り
此身醒復酔    此の身 醒め復た酔う
乘興即爲家    興に乘じて即ち家と爲さん



カズぼんは感嘆し、
「すごい取り合わせだな。杜甫と、舞踊と、ギャングと……」
「金儲けと」李歐はそう付け加え、
(以下略) (p204)
と、李歐に切り替えされました。


【今回の名文・名台詞・名場面】

★「君の人生は水銀灯の運命やな」などと言った。「立ってるだけで、女が寄ってくる。男も寄ってくる。犯罪も寄ってくる」
水銀灯とは言いえて妙だと思い、一彰は反論もしなかった。
「俺は、刑事やから分かるんや。君という男の全身が、叩けば音のする空洞や。目の前で人が死んでも恐怖もない、善悪の判断もない、人として自然な感情もない、多分死ぬのも恐いとは思っとらんやろ。そういう人間が行き着くところは自殺か、犯罪や」
昨日までの自分なら、それもある程度当たっていただろうが、今は違う。空洞は空洞でも、線香花火の大群が賑やかに燃えている空洞だ。一彰は茎からちぎり取った枝豆を洗いながら腹の中で反論した。感情がないということもない。善悪の判断も出来る。悪と分かった上で加担しているだけだ、と。
 (p134~135)

★「君はあの殺し屋を助けたいんやろ」と囁いた。「俺は君の倍ほど生きとるんやぞ。君があの男に執心しとるのは、目を見たら分かる。だから、善悪の判断がないと言うたんや」
「田丸さんは真面目な人だと思っていたのは撤回します」
「俺も、君に感情がないて言うたのは撤回する。俺は最初、君は隠れ左翼かと思うたんやが、違う。君は一面では、善悪の判断がつかなくなるほどの感情の塊や」
 (p192)

上記2つの引用。刑事というのは人を見るのが商売だから、田丸さんは本当によく分かってる。言われたカズぼんも自覚はしている。・・・田丸さんの指摘とは違う、自覚ではありますが。だって「執心」どころか、「惚れて」るんだからね。

★「人生がおもしろないて、医者に言うん? アホらし……!」 (p194)

自暴自棄になった房子さんの発言。確かにそんなことは医者に言っても、しゃあないですわ。

★敦子にも房子にも、多分ほかの女にも、自分は少しずつ惚れ、少しずつ情を移し、少しずつ興味を失い、少しずつ自分の中に残っていくのだ、と。そして、自分という人間がそんなふうに出来ているのだとしたら、淫乱もたかが知れていた。どんな逢瀬も性愛も、今のところ欲望のほんのとば口に沈殿していくだけで、その先を自分は未だ見たことがない。 (p195)

カズぼんの描写・その11。淫乱というよりは、淡白で薄情な博愛主義者? それでも淡白は淡白なりに、薄情は薄情なりに、誠実ではあるようです。

★こうしている間も李歐は、長閑な佇まいから依然底知れない磁力線を発しており、そのそばでは、後先の判断も損得の勘定も、理性も感情も何もかもがかき消えて自分がどこにいるのか分からなくなるのだと一彰は考えた。代わりに理由もなく胸が躍るような興奮が膨らんでいき、さらに一層わけが分からなくなる。まさに妖術だと思いながら、すでに一生に一度の欲望の行き着く先を見ると決めた一彰は、今もただ満たされ、幸せな気分だった。 (p204~205)

まるで「この人に一生ついていこう」と結婚を決めた、うら若い女性が抱く幸福感と言っても過言ではない!(爆) 「妖怪」李歐に惚れてしまった身としては、もうどうしようもないわね。

★そして、一彰が抱えた自分の膝に頭を垂れた短い間に、突然「ヘイ」という李歐の声がして、顔を上げると目の前にブローニングの銃口が突き出ていた。李歐は、白と黒のコントラストが鮮烈な目にぬめりのある光をたたえて一彰を一瞥し、ニッと笑って「友だちでも、気を許すな」と言った。
一彰は不思議に余裕があり、自分でもどうしてそうだったのか分からない冷静さで、鋼の塊を眺め、「安全装置がかかってる」とやり過ごした。次いで、冷静の一方で怒りが爆発し、なるほどこれが自分の本性だと思いながら、「二度とするな」と言い放った。李歐は、その夜一番の素直な笑顔を見せて「約束する」と応え、拳銃を座布団の下に入れた。
 (p205)

新妻になる喜びを噛みしめている(←違うってば)カズぼんに、きつい釘を刺す李歐。しかしそこは懐の大きい妻の素質(←だから違うって)を備えたカズぼん、見事に切り返して李歐を感服させてしまいました。あるいは「妻(←違うよー)を怒らせたら、怖いよ」という意味も含まれていたりして・・・?

★「ばかみたいだ……」と一彰は言い、李歐は何ということもないというふうに「晏磊の命の値段が二十万てことだ」と応えた後、「でも、李歐はそんなに安くないぞ。これからだ。十年後を見てろ。年商一億ドルのビジネスをやってやる」 (p206)

1978年(「植村直己の北極圏を犬ぞりで踏破した」(p142) という記述から判明)のアメリカドルって、約200~300円くらい? とすると・・・(計算中)・・・日本円で約20,000,000,000~30,000,000,000円!?(Oの数を数えられない方へ・・・約200~300億円です) ひえええ~! だけど李歐が言うと、不思議なことにちっとも大言壮語と思えない。李歐の発言と李歐という存在の価値って、それくらいの金額は当然の如く、あって然るべきなんですよね。

★「大航海時代に海に船を出した先人たちを思い出してみろ。大陸へ行きたくなったら、ぼくがいつでも連れ出してやる。揚子江からチベットまで、何万キロでもお供する。忘れるな、これはぼくの約束だ。……条件は、心和肝(シンヘガン)」 (p206~207)

またまた出ました、李歐の名台詞! 「心和肝=心臓と肝臓」、つまり吉田一彰という人間そのもの。別の言い方をすれば「人生のパートナーは一彰、君だ」 ・・・蛇足でしたね。

★「ああ、六つのときとおんなじ顔しとるわ……」と、守山が呻くようなため息を吐くのを聞きながら、一彰は数秒間、バレルの中で螺旋溝の山と谷が正確にかみ合って回っていく感触を身体じゅうで味わい、たったそれだけのことで一回分セックスをしたように満たされたのだった。 (p229)

カズぼんの描写・その12。かつて、子供カズぼんが守山さんが隠した拳銃の試作品を盗み、それを返却した時のひとコマ。カズぼんは、拳銃を組み立てる細かい作業をすることが大好き。好きなことを成し遂げた快感というのは、えも言われぬほどの達成感、満足感、幸福感を味わうことに等しいということ。
私の場合は、一冊の本を読了すること。そして一つブログの記事をアップすることが、それにあたりますね。


「ぼんはええ子やな」 (略) 「これからは悪い子になるんだ」 (p123)

2007-04-29 23:50:47 | 李歐 再読日記
2007年4月4日(水)の 『李歐』 (講談社文庫) は、守山工場 のp121から李歐 のp183まで読了。

今回のタイトル、守山さんと子供カズぼんの会話。その言葉どおり「悪い子」になったカズぼんは律儀なのか、確信犯なのか、無意識なのか、あるいは愚か者なのか(←こらこら)


【主な登場人物】

房子・・・『李歐』にしか登場しないキャラクター。名字は不明。アルバイトも辞め、大学も自主退学した一彰が、勤め始めたバーの経営者。


【さくら桜】

★頭上の桜は満開で、絶え間なく花びらを散らし、庭に響く音楽と一緒にひらひら、ぶるぶると震えながら一彰の目にピンク色のシミを作り続けた。 (p121)

★姫里を後にした日、守山は警察に行ったまま戻らず、無人の工場の庭には散り始めた桜が渦を巻いて降り注いでいた。早朝、最後に教会の板塀の穴からその庭を眺めたとき、一彰は自分が夢を見ていたような気がしたのだが、たしかにそこはもうずっと時間が止まったまま、桜が降り続いているばかりだったに違いなかった。 (中略) ほんとうは誰もいなかったのだと一彰は納得し、ああそうだ、ぼくはこの桜に化かされたのだと思った。 (p129)


【今回の名文・名台詞・名場面】
( )内は本当は北京語です。ご了承を。『わが手に拳銃を』 (講談社) では、リ・オウはかなり英語を喋ってましたが、『李歐』では出てきませんね~。

★母の男好きは生まれつきだ、おかげでその血を引いた自分も淫乱だ、などと思った。 (p134)

カズぼんの描写・その5。淫乱、ですか・・・苦笑いするしかないですね。

★その中間の、何もない虚空に一彰の身体は浮いており、依然重力はあったが、これまでより随分軽くなっていると感じ続けた末に、かねてからの予感通り、ついに自分の人生は変わったのだなという獏とした実感もやって来た。もっとも、その転機とやらは、自分の足元に転がった五つの射殺死体と不可分のものだったし、とうてい先々の明るさの片鱗も見えないものだったが、それでもなお、この重力の軽さはいくらか感動的だった。一彰はただ単純に慰められ、恐れも不安もどこかでせき止められてしまった分、ひどく冷静にもなれたのだった。 (p140)

カズぼんの描写・その6。「重力の軽さ」・・・母が死んだという事実を知ったこと、母の愛人がナイトゲートで暗殺されたことなどが、繋がっているんだろうか。

★常に、その場の状況に合わせて自分の満足の基準を引下げ、それなりに形ばかり納得し、受け入れる。そうして自分という人間はいつも、周囲の力で変形させられるのを最小限に留めることによって、結果的には、吉田一彰という混迷な固体には何の転回もなく、改善もない。 (p144)

★一彰は、人間にとって心の痛みというやつは自明の理ではないことをぼんやりと思い、そうだとしたら、いったい自分はどこまで行ったら後悔するのだろうと思ってみたりしたが、そんなふうにして自分について考えること自体に漠然と失望し、興味を失う形で考えるのをやめた。代わりになおも息だけをし続け、のたりと横たわる身体一つの、すえた汗の臭いがひどく生々しいと感じながら、いつの間にかまた寝入り、何かの夢を見てもがくように目覚めると、晴れない重力の霧がかかっている。そうして過ぎた時間に、一彰を感動させたのはただ一つ、食い物が絶えて蠕動運動をやめた胃腸の、驚くべき静けさのみだった。 (p145)

★首から上が何者であっても、その下の臓器も骨も筋肉も、とにかくばかばかしいほど厳粛だった。一彰は、今なおなにがしかの輪郭があり質量があるのは、たしかにこの胃袋や痛んでいる背骨の方だと思い、とりあえずこの自分の身体というやつだけは認めてもいいと思った。 (p146)

カズぼんの描写・その7と8と9。警察の事情聴取から解放され、大学を退学し、アルバイトも辞めた後のカズぼん。・・・気持ち悪い怖さとぬるい無気味さを感じます。
余談ながら、この辺りの文章を拒否反応を起こさずすんなりと受け入れ、抵抗なく読めた方なら、『晴子情歌』 『新リア王』 (どちらも新潮社) を読めるはず。

★「そう、それでよろしいんや。本心いうもんは、人に明かすもんやあらしません」 (p159)

カズぼんを探し当てた笹倉さん。ある頼みごとをし、ちょっとしたカズぼんのプライヴェートに突っ込んだ際の笹倉さんの台詞。食えませんな。

それではお待ちかね、李歐登場。
李歐の発言は、読んでいるには耐えられるんですけど、声に出すとのた打ち回るくらい、こっ恥ずかしいですね~。聞かされたカズぼんも、たまったもんじゃなかろう。「声に出すと、危険な磁力と魅力と魔力を感じる日本語(あるいは北京語)」、それが李歐だ(笑)
また李歐の行動も「何でそうなるの」とツッコミ入れたいくらい、唐突・・・。

★やがて、男は手を止めると、ペンキ屋が塗り具合を眺めるように、ちょっと身を引いて塗ったばかりの他人の唇を眺め、せっかく赤くした唇も男の顔には似合わないといったふうに溜め息をついた。自分でやっておきながら徒労だったと言わんばかりにけだるいその表情も、さして何も眼中に入っていそうにない、辺りを浮遊するような眼差しも、すうっと撫でるように動く眼球も、何もかもが精巧な作り物かと思う艶かしさだった。 (p172)

カズぼんの唇に、女から貰った口紅を塗った李歐(苦笑) ホンマに李歐の言動だけは分からんわ・・・。
李歐が初登場した時と同様、ここでも李歐の一挙手一投足に、言葉という技を駆使して、表現し尽くそうという高村さんの意図が感じられます。

★「あんた名前は」と一彰は尋ねてみた。男は顔を上げ、スプーンの手を止めたとたん、一転して艶やかな笑みを滲みださせて、「惚れた?」ときた。 (p174)

ホンマに分からんわ! と無用なツッコミしてみました。・・・今なら分かるけどな(←ホンマかいな)

★「名前を聞いただけだ」
「つまらん返事だな。惚れたから名前を教えろ、って言えよ。言ったら教えてやる」
「あんたの物言いって、めまいがする」
「お互いさまだ。国立大学の学生とこのぼくが出会うような国が、この地球上にあったなんて、想像もしなかった」
「大学はやめた。だから、ぼくが学生だったということは忘れてほしい」
「だったら、ぼくがナイトゲートにいたことも忘れてくれ」
「名前ぐらい、尋ねてもいいだろう」
「(惚れたって言えよ)」
 (p175)

この最後の李歐の言葉を読んだ時の衝撃度は、読んだ回数に関係なく、読むたびに大きいし、今もって新鮮ですね。「出た~!」そして「やったあ~!」という気分を味わいます。
また高村さんは、どのキャラクターにどんな発言をさせればふさわしいのか、いやというほどご存知だ。こんな台詞、李歐にしか言えないし、李歐にしか合わないし、李歐にしかふさわしくない。
私は読みませんが、もしも一般向けの恋愛小説や、某男性向け商業ジャンルの小説や、某女性向け商業ジャンルの小説で、こんな台詞が出てきたら、それを発言するにふさわしいキャラクターなのか、失望しつつも(笑)どんなキャラクターなのか知りたい気もしますが・・・出てこないかも知れませんね。きっとこの作品をすぐさま連想させるだろうし、見事なまでに作家さんは使用できないでしょう。

★そして男が中国人なら、一から十まで感覚が違っていて当然だったが、こんなにも目まぐるしく表情が変わり、物言いが入れ替わると、感覚もくそもない。こいつは生身の上にもう一枚、華やかな色の幕がかかっているに違いないと思いながら、一彰は眼前の男一人に目を奪われ、目を奪われている自分に違和感を覚え続けた。いきなり他人の唇に伸びてくる男の手も、こうして聞こえてくる声も、いったいこれは人間の手か、人間の声かと疑ってみた直後に、もう身じろぎも出来ない。言葉も出ない。目を奪われ、見開いてただ相手を凝視している自分に驚き続けた。 (p175)

カズぼんから見た李歐。もうこの「蛇に睨まれた蛙」のような状態だけで、次のカズぼんの台詞↓が出てくるのも、むべなるかな。

★「ああ、惚れた。惚れたから、名前ぐらい教えろ」と一彰は言ってみた。
すると男は、今度は一転して興ざめするような醒めた目をよこしてこう応えた。「あんた、これが取引だというのは分かってるだろうな」、と。
一彰は首を横に振った。
「この世で、他人の口から身を守る方法は二つある。一つは、殺す。もう一つは、相身互いの共存だ。ぼくはあんたに名前を教えることで、それなりの代償を払う。あんたも、ぼくの名前を知ることで応分の代償を払うことになる。そういうことさ」
 (p176)

「相身互い(あいみたがい)」といえば、『レディ・ジョーカー』 (毎日新聞社) (下巻p348)で、加納さんが久保っちと対面した時に発した台詞を思い出してしまいますね~。しかし李歐とカズぼんの方が、より強固な繋がりになっていますね。

さて、しつこいくらい「名前」にこだわる李歐について、ちょっとした推測とラスト近くのネタバレをしてみてもいいですか? いやな方は、以下の隠し字は読まないで下さいね。
 水樹和佳(子)さんの『イティハーサ』を読まれた方ならご存知でしょうが、母親のお腹にいる赤子に、母親は「真名」を密かに名付け、出産したら改めて名前をつける(「仮名」)というエピソードがありました。
李歐は複数の偽名を利用します。それを「仮名」とし、本名を「真名」としてみましょう。本名の「李歐」を知っているのは、読み手を除けば、吉田一彰ただ一人。
一彰にしか本名を明かさなかったという事実は、とてつもなく重大で重要事項。それがここの台詞「代償」で現れていますし、ラスト近くの再会した時の李歐の台詞 「ぼくは李歐に戻った」 (p518) でも分かるでしょう。李歐として一彰に出会い、別れ、そして再会したということ。
また、一彰が出会い、別れ、再会した男は「李歐」であるし、複数の偽名を使い分けていた頃の李歐では、決してない。信じ、ついて行こうとし、迎えに来てくれる男は、「李歐」という名の男。だからあれほどの年月を経ても、揺らぐことはなかった。「李歐」の名を知った時点で、その名前だけでなく、その命も預かったも同然だから。 
 
・・・あらら、何か上手く表現できなかったなあ。すみません。

★「このぼくが知りたいんだ。あんたの理由はどうでもいい」と応えた。
「それが本当なら素敵だな」というのが、男の返事だった。「でも、嘘なら嘘で、その嘘、突き通してくれ。よし、友だちになろう」
 (p176)

名前を教えることで、「友だち」という関係の第一歩。カズぼんにしてみれば、李歐の屁理屈のような理由なんて無関係だから、そう言ったまでだろう。ところがカズぼんの返答で、李歐は彼を「頑固で一筋縄でいかない、一本筋の通った男」・・・と思ったんではなかろうか。「本当なら素敵」「嘘なら嘘で突き通してくれ」の発言で、納得したように思える。

★李歐という歓喜。暴力や欲望の歓喜。友だちという歓喜。常軌を逸していく歓喜。 (p180)

ちょっと対比するには早いかもしれませんが、『李歐』では、「歓喜=李歐」なのに対し、『わが手に拳銃を』では、「狂気=リ・オウ」のように感じられました。(特にラストシーンで) 『わが手に拳銃を』 のラストでは、このまま破滅してもおかしくない雰囲気も、部分的に感じられなくはなかったんですが、『李歐』 のラストでは、破滅という言葉も雰囲気も皆無でした。もちろんそこに至るまでは、文字通り波瀾万丈、いろんな出来事がありましたけどね・・・。

★一彰はそれ以上深く考えるのを放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない、突発的な歓喜の発熱だと思ったからだ。熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。 (p180~181)

カズぼんの描写・その10。李歐という歓喜に巡りあっても、客観的に、ひいているところはひいているし、冷めているところは冷めている。若いなりに老成している(笑) 浮かれるということを未だ知らないカズぼんがそれを知るのは、もっと後のことです。

★追うのも追われるのも、殺すのも殺されるのも、ゲームに近い無機的な顛末だといったここ二ヵ月の学習効果のほかに、いともさりげなく「二、三日で戻る」と言い残した李歐の一言が唯、それほどの威力を持っていたということだ。李歐は、その言葉通り数日で守山工場に戻り、その暁には、自分は一儲けの計画を李歐から聞かされているに違いないと一彰は思った。金儲け? そんなことはどうでもよかった。感嘆と歓喜さえ溢れ続けておれば。 (p182~183)

李歐の発する言葉は魔法のよう。無気力に生きてきたカズぼんに、生気を吹き込んだんだから。


「お前が女の子だったら、可愛い服をいっぱい作ってあげられるのに」 (p92)

2007-04-09 23:19:16 | 李歐 再読日記
2007年4月3日(火)の 『李歐』 (講談社文庫) は、ナイトゲート のp59から守山工場 のp120まで読了。

今回のタイトルは、子供時代の咲子さんへ洋服を作っていたカズぼん母が、息子に吐いた台詞。そんなこと言われても、ねえ? それを聴いた子供カズぼんは、
       「ぼくも欲しい」 (p92)
と発言。子供だからそれがどういう意味か、どうせ分かってないでしょうけど(笑)


【主な登場人物】

守山耕三・・・姫里にある守山工場の経営者。一彰の因縁の男・その1。
田丸・・・大阪府警公安部の刑事。通称《田んぼのおまる》。下の名前、出てきてたっけ・・・? 一彰の因縁の男・その2。
吉田昭子・・・一彰の母。この人もある意味で、魔性の女。
守山咲子・・・守山耕三の娘。


【今回の音楽】

グノーの『アベマリア』・・・カズぼん母が買ったオルゴールの曲。


【今回の書籍】

『プルターク英雄伝』 『ロードス島戦記』 『ファーブル昆虫記』・・・子供咲子さんが守山さんの妻と家を出て行く時に、カズぼんにあげた男の子向けの絵本。
プルタークはプルタルコスの英語読み。
また、蛇足を承知でそえますが、『ロードス島戦記』というのは、水野良さんの小説やゲームやアニメのことではありません(こちらの方が有名かもしれないので)。カズぼんが小学校に入る前後は、1960年代前半ですから、まったく年代が合いません。推測ですが、塩野七生さんの『ロードス島攻防記』に近い内容だと思われます。地中海のロードス島をめぐってのオスマン=トルコと聖ヨハネ騎士団の攻防(←そのままやん)
『ファーブル昆虫記』は今さら説明するまでもありませんね。


【さくら桜】

★そして突然、守山は「ああ、見てみ」と言い、庭先の桜を仰いだ。一彰も、ああと声を上げた。昨日弾けそうに膨らんでいたつぼみのいくつかが開き、枝という枝が淡いピンク色のシミを散らしたようになっていた。 (p120)


【今回の名文・名台詞・名場面】

ありません。 ・・・ビックリします?

今回、再読している書籍は新しく買った文庫でしているのですが、最初に買った文庫でも、今回読了部分には、付箋紙が貼っていません。
私の視点では、ないんです。どうしても見つからないんです。
付箋紙を貼るのは、ちょっとでも気に入ったところや引っかかったところに、感覚的にパッパッパッと貼っていくものなので、目を皿のようにして探すというものではないんです。

・・・次回にご期待下さい。

『李歐』 の再読は、明日の10日(火)で終わりそうです。


「コケーコッコッコッ」 (p37)

2007-04-04 00:48:40 | 李歐 再読日記
『李歐』 再読日記、始めます。
過去の読書記録を遡ってみたのですが、前回の再読から、どうみても4年以上のブランクがありますね~。それなりに内容、忘れてます(笑)

文庫の表紙を見るたびに、「複製でいいから原寸大のものが欲しいなあ~」と思います。

『わが手に拳銃を』 (講談社)との比較は、まあ・・・臨機応変、アバウトに。やるかもしれないし、やらないかもしれない。そういう方針でいきます。
「わが手に拳銃を 再読日記」を読み返していたら、大した比較はしてないようですから。

以前も意思表示しましたが、『わが手に拳銃を』あっての『李歐』であり、『李歐』あっての『わが手に拳銃を』 だというのが、私のスタンス。どちらにとっても表裏一体。そして別物。まるで義兄弟のようだ(←何それ)

それではいつものように、注意事項。
最低限のネタバレありとしますので、未読の方はご注意下さい。よっぽどの場合、 の印のある部分で隠し字にします。

***

2007年4月2日(月)の 『李歐』 (講談社文庫) は、ナイトゲート のp59まで読了。
(偶然にも「わが手に拳銃を 再読日記」の初回分と同じページ数だ・・・ビックリ!)
しかし『李歐』の方が分厚いので、このペースだと9~10回分は必要ですね。

今回のタイトルも、笑えそうな部分を取り上げていけたらいいなと考えていますが、どうなりますやら。今回は、これしかないですよね?(笑)


【主な登場人物】
「わが手に拳銃を 再読日記」とほぼ一緒・・・それではあまりにも芸がないので、『わが手に拳銃を』とちょっと比較してみます。

吉田一彰・・・主人公。今思うと、<彰之シリーズ> の福澤彰之とよく似ている気が、しないでもない。どちらにしろ、典型的な高村作品キャラクター。
『わが手に拳銃を』に比べて、李歐と運命の出会いを果たすまでは、えらく無気味だ(苦笑) そう思わせるエピソードの最たるものが、高校生のカズぼんが、同級生の女の子の家の二階の窓から侵入しようとして警察沙汰になった・・・というもの。
こ・わ・い・わ!! むっちゃ怖いわ!! ここは何度読んでもゾッとする~。私はあんまりカズぼんには感情移入、しにくいな。ファンの方、すみません。

橘敦子・・・一彰が大学で指導を受けている橘助手(両作品とも、下の名前が出てこない)の妻であり、一彰と不倫関係にある女性。プッツン度(笑)は、『李歐』の方が上かもしれない。

笹倉文治・・・「ナイトゲート」の常連客。『わが手に拳銃を』よりも狡猾か?

川島・・・「ナイトゲート」のマネージャー。『わが手に拳銃を』より、気持ち悪いかも(爆)

李歐・・・登場してますが、名前はその時点で不明。前作の『わが手に拳銃を』から、タイトルロールにまで昇進したのですから、紹介しないわけにはいきません。現時点での『わが手に拳銃を』との違いは、カタカナと漢字くらい・・・なわけないですが、お楽しみは後回しにね♪


【今回の漢詩】
『わが手に拳銃を』と同様に、私が分かる限りで、引用された部分と、全ての詩と読み下し文を載せます。中国語変換できない字もありますし、読み下し文は書籍によって多少の違いがありますので、ご了承を。

杜甫の七言古詩「飲中八仙歌」 (p17~18)
カズぼんは、 知章騎馬似乗船 の部分を 我坐電車似乗船 に改作して、悦に入ってました(笑)

知章騎馬似乗船   知章の馬に騎るは船に乗るに似たり
眼花落井水底眠   眼花は井に落ちて水底に眠る

汝陽三斗始朝天   汝陽は三斗にして始めて天に朝し
道逢麹車口流涎   道に麹車に逢いて口より涎を流し
恨不移封向酒泉   封を移して酒泉に 向かわざるを恨む

左相日興費萬錢   左相は日に興きて万錢を費やし
飲如長鯨吸百川   飲むは長鯨の百川を吸うが如し
銜杯楽聖稱避賢   盃を銜みて聖を楽しみ賢を避くと称す

宗之蕭灑美少年   宗之は蕭灑たる美少年
擧觴白眼望晴天   觴を擧げ白眼もて晴天を望む
皎如玉樹臨風前   皎として玉樹の風前に臨むが如し

蘇晉長斎繍佛前   蘇晋は長斎す繍仏の前
醉中往往愛逃禅   醉中往往 逃禅を愛す

李白一斗詩百篇   李白 一斗 詩百篇
長安市上酒家眠   長安市上 酒家に眠る
天子呼來不上船   天子呼び来たるも船に上らず
自称臣是酒中仙   自から称す臣は是れ酒中の仙と

張旭三杯草聖傳   張旭は三盃 草聖伝わり
脱帽露頂王公前   帽を脱し頂きを露わす王公の前 
揮毫落紙如雲烟   毫を揮い紙に落とせば雲烟の如し

焦遂五斗方卓然   焦遂は五斗 方めて卓然   
高談雄辯驚四莚   高談 雄弁四莚を驚かす



【さくら桜】
『李歐』の影の主役は、さ~く~ら~♪(ペペペン) さ~く~ら~♪(ペペペン) (文部省唱歌「さくら」)
ちょっと気になった桜の描写と、それに狂わされていく人物たち(笑)を、取り上げてみましょうか・・・と、読んでいる最中に、ふと思いつく。・・・いつものように、自分で自分の首を締める行為。

★四月初めのこの季節には、千里丘陵に咲き乱れる桜の淡いピンク色が、いつも真っ先に一彰の努力を圧倒した。その朝も、アパートの隣の民家から張り出している桜の大木を見たとたん、網膜にしみ込んだピンク色が間もなく身体じゅうに広がり始めて、校舎に着くころには、何ひとつまとまった言葉が出てこないまま、春爛漫に染め上がった脳味噌が発狂しかけていた。 (p11)


【今回の名文・名台詞・名場面】

★毎朝、あるのは重力だけだ。吉田一彰は、しばらく目が覚めたという感覚もないまま、布団の上にだらりと伸びている自分の身体に重力を感じ続けた。 (p9)

『李歐』、冒頭部分。ここを読むたび、シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』を、なぜか思い出す。・・・未読なのになあ。

★ペダルを漕ぎながら出てくる語彙は、いつも似たような乏しさだった。
空っぽ。無為。無明。だるい。
 (p10)

カズぼんの描写・その1。いや・・・いつの時代でも、学生って、そんなもんよね?

一彰は、不快も重なると滑稽になってくるのを発見して、いつの間にか一人でにやにやした、それも、おおかた季節のせいだった。春になると一彰の自律神経は狂いだし、笑うと内臓の筋肉が緩み、血管が拡張して血の巡りがよくなるやいなや、ところかまわず発情する。ぱっと欲情の花粉が飛び散ったが最後、考えるより先に身体の方が動き出す。 (p13)

カズぼんの描写・その2。
しょっちゅう「不快」を感じている某刑事さんも、カズぼんを見習って前向きになったらいいのに(笑)

★いったん何かを心に決めると、そのための冷静な算段以外は、事の是非や損得の判断や感情などの一切が消えてしまう。 (p22)

カズぼんの描写・その3。これも怖いわ~。


さて、以下は一彰と李歐の運命の邂逅シーンをまとめてみました。お楽しみあれ。

★男はすぐにまた目を逸らせたが、最初から虚空へ揚げられていた右腕はそのままで、しかもその右腕は、方の付け根から手指の先の指までが、一度も停止することなく踊るように動き続けていた。一彰が思わず目を留めたのは、その腕一本のせいだった。 (p42)

★一彰が見ている間に、その腕は指先まで一直線になって虚空に立ったかと思うと天を仰ぐ五本の指がゆっくりとばらけていった。その一本一本が生きもののようにしなり、揺れながら、弧を描いて絡み合うと、そこには何かの調べとリズムが流れ出して、それが手首へ肘へ肩へと伝わっていく。闇を泳ぐ白い手指と黒い腕の、それだけの動きだけでも息を呑むほど美しかった。 (p42~43)

★男は降りてくる一彰を数秒見ていた。そして、一彰がにらみ返すよりも早く、その目は突然、よく切れる薄刃ですうっと刺し身を引くような、強烈な流し目を残して一彰から逸れていった。と同時に、男の二本の足は路地へ滑り出し、今しがたの腕一本と同じ動きがその全身に乗り移って、二本の腕と足が天地四方へうねり出したのだ。 (p43)

★新地の路地裏でひとり舞い始めた男の周りには、一彰のほかは誰もいなかった。一彰は、自分が幻惑されていることに硬直しつつ、目を奪われ、息を呑んだ。男の腕も足も、まるで生きている蛇だった。たおやかで鋭く、軽々として力強く、虚空を次々に切り取っては変幻する。それが天を突く槍に化け、波うつ稲穂へ、湖面のさざ波へ移ろっていく。 (p43)

★いったいこいつは、辺り一面に見えない磁力線をほとばしらせて、見る者を狂わせようとしているのか重い、さらには、自分の眼前で艶やかにうねる身体の彼方に、ふいに広大な空間が広がっていくのを見、そこを吹き抜けていく大陸の風を見たような思いにとらわれて、密かに放心した。 (p43~44)

★一メートルの距離であらためて相対したのは、年恰好は自分と変わらない二十歳前後の男だった。ちょっと見たことのない整った目鼻だちをしており、その中でも目は、黒曜石のような光沢を放つ黒目と白磁の白目が、鮮やかな切れ長の枠の中に納まっており、ゆったりと落ちていく瞼の下でその黒曜石の黒目がすうっと動くのだ。次いで瞼が上がると、再び現れるくっきりとした白と黒は、今度は眩しすぎて爆発しそうな感じになる。 (p44)

★「あんた、誰だ」と、一彰は尋ねた。
即座に、「ギャング」という一言が返ってきた。
一彰は、胸のどこかがふわっと揺れるのを感じた。突然訳もなく、楽しいような、胸がときめくような、支離滅裂な気分がかすめていって、思わず笑った。男もまた、いきなり左右に開いた唇の間から真っ白な歯を覗かせ、すぐにまた表情を消し去った。
 (p44~45)

★後ろから男の晴朗な声が飛んできた。
「ヘイ! あんたが気に入った」
「俺もだ」一彰は振り向いて応え、何だか奇妙に心が弾んでいると思いながら、路地をあとにした。
 (p45~46)

はい、以上が一彰と李歐の初対面でした。李歐は舞って、カズぼんはそれを見て、ちょっとだけ言葉を交わし、別れる。ただそれだけの場面なんですが、高村さんは惜しむことなく李歐の描写にとことん言葉を費やしているなあ・・・ということが、入力してみて改めて気付きます。多分、合田雄一郎さんの描写以上に、愛を注がれているとしか思えないほどの、表現力の素晴らしさ、語彙の贅沢さ。李歐の魅力を、余すところなく読み手に伝えようとしておいでですね。

★「あんな芝居をしなくても」と一彰は応じた。
「君が芝居みたいな生活をしとるんや」
 (p52)

廖大聚(リャオダージュイ)のナイスツッコミ!

★ふと、今夜はいくつもの人生のオルゴールのドラムが突然一斉に回り出したように賑やかだと思った。自分の人生が虚しいほどあざとく感じられた。 (p58)

カズぼんの描写・その4。