皆様こんばんは。業務MAです。
数日前のポカポカ陽気が嘘のように、真冬のような寒さですね。
寒の戻り。そう、5年前のあの日もこんな風にとても寒い日でした。
あの日のことは今でも鮮明に覚えています。なぜなら、全く違う
畑への人事異動と、東日本大震災という人生観を変える出来事
が同時に起こったからです。
あの日ほど己の無力さを、そして物の摂理に抗うことの
困難さを思い知った日はありません。
あの日の午前10時頃、私は内示を受けるため会議室に呼び出
されました。言い渡されたのは、業務部(外注管理やラベル作成、
資材手配など営業の裏方の仕事を担う部署)という全く畑違いの
セクション。どんな仕事かイメージは全く湧きませんでした。その前
の部署はそれなりに専門的な部署で、その年診断士の試験にも
合格し、ようやく方向性が見え始めた矢先のことでした。またイチ
から勉強か…。正直余り前向きな気持ちにはなれませんでした。
そして、辞令も出終わった午後、新しい部署に挨拶に行こうかと
思った矢先、大地震が起こりました。激しい揺れに、机や棚の
ものが落ちないよう押さえるのがやっと。何分続いたでしょうか?
随分長くゆれていたように記憶しています。
社内は騒然となり、もはや人事異動どころではなくなります。
出張者は無事か?東北の関連会社の状況は?情報が錯そうし
被害の実態が、全く見えません。
ようやく社内が少し落ち着いてきた夕方近く、新しい部署に挨拶
に行くと、「あなたが来月から担当する外注生産委託先が
被災した」と告げられました。聞けば茨城県鹿島にあるその工場は、
津波と液状化で設備が大きく破損し、1~2ヶ月は動かないであろう
とのことでした。その他2つあった同じ茨城県内の外注工場は、内陸
にあったため津波の被害こそ免れたものの、激しい揺れで設備や
ライフラインが損傷。やはり数週間は操業できないであろうとのこと
でした。目の前が真っ暗になりました。
その夜は私も帰宅難民となり、オフィスで一夜を明かしました。急な話し
で引継ぎの準備もろくに出来ていなかったので、引継ぎ資料を作りながら
ラジオの中継を聞いていました。次々と悲惨な状況が伝えられます。また
余震も間断無く続きます。結局殆ど眠れずに朝を迎えました。
そして翌朝、ようやく動いた電車で帰宅し、テレビ見て、改めて被害の甚大さ
に茫然としました。
あれから5年。緊急事態から引き継いだ仕事は、何とか在庫だけは切らすまい
と無我夢中で取組み、営業と生産現場の板挟みになりながら、必死にもがき
続け、曲がりなりにもサプラチェーンを守り通すことは出来ましたし、その中で
現場で得た様々な経験や人との出会いは、貴重な財産になりました。
また、そんな合間を縫って捻り出した時間で細々と行ってきた診断士活動は、
当塾との出会いに結びつき、更なる可能性をもたらしてくれました。
しかし何よりもこの5年間、逆境の中にあって心の支えとなったのは、
自分の第二の故郷でもある被災地東北の人々の、厳しい環境い立ち向かい
ながらも懸命に生きる姿でした。
とにかく本業の方に必死で、この5年間募金くらいしか東北の皆様のお役に立つ
ことは出来ませんでしたが、将来的には、少しでも復興の手助けになることがしたい。
それが今の切なる願いですし、私が学生時代お世話になった東北への恩返し
としてすべきことであるとも考えています。
東の空、千葉方面で石油タンクが炎上し、人の波が新宿駅の反対方向にぞろぞろ続いている様子を見て、世紀末の映画でも見ているかのような錯覚を覚えました。
9日に、出発してキルギスについて2日目でした。
帰国までの10日間、ずっと現地のNHKワールドに釘づけになっていて、商品のないスーパーマーケットの映像を見て、キルギスから、食料品を持ち帰った方がよいのでは?と思ったこともありました。