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国宝金印は古代史を解く重要な物証なのだよ!( ^)o(^ )

2024-11-23 09:44:19 | 古代史

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#江戸時代に志賀島で発見された有名な国宝金印「漢委奴国王」印が偽物だという主張が中々消えません。今回も、そのような趣旨の動画を発見したので、本物の可能性が極めて高いことがひとことで分かる意見をコメントしました。多くの皆さんが不自然に思う、何故、志賀島に埋められていたのか?ですが、現存する最古の歴史書「古事記」が真相を暴露していました。これが分かると、この疑問が消えるはずです。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

【禁断の古代史】金印は「日本人の嘘」だった!歴史捏造の裏に隠された恐るべき計画古代日本の闇に迫る!【都市伝説 ミステリー】
都市伝説ふしぎ発見
@YouTube

@katumoku10
江戸時代に金印が発見された当時、印面のサイズは分かっていたようですが、金の純度が95%というのは分かっていなかったようです。20世紀になって他の漢代の金印が発見されて分かったのです。また蛇鈕は元はラクダだったのを変更したとの指摘があります。ですから、金印が偽造だというのであれば金印を偽造させるための発見当時の詳細な指示書が出てくれば贋作の可能性は捨てられませんが、それがない現状では本物だと認定せざる得ないと思いますが、いかがでしょうか?

 

@セカイK1
金印は糸島市の細石神社の宝物であったとの話もあるから志賀島出土は捏造の可能性はあるが
金印の金の成分が95%で漢代の他の出土した金印と一致してるから本物である事は確実
江戸時代には漢代の金印の成分を知る術は無かったですから
日本では文字が普及していなかったのだから1世紀や3世紀の出来が8世紀に創られた記紀に書かれていないのは当然

@katumoku10
本物である可能性が極めて高いと思います。弥生時代に倭人が漢字を使っていた証拠が最近いくつも出てきています。漢字が普及していなかったのはおっしゃるとおりですが、伊都国に来ていた華僑らと接触していた大夫らは漢字を使用していた模様です。125年に作られた室見川銘板は国内で作られた最初の金文です。金印やこの銘板が何故作られたのかも推理しています。詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」「【わかった!】室見川銘板のなぞ」をご参照ください(;^ω^)

 

范曄「後漢書」倭伝に107年倭国王帥升が160人の生口(奴隷)を後漢安帝に献上したとあります。帥升は原本ではイト国王師升とあった模様で、師姓は周代より前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表すと「風俗通義」に見られます。つまり、57年に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと推理できます。

宋史 王年代紀 第十八代王素戔嗚尊が奴国宮廷楽師師升らの反乱で、捕らえられて金印の在りかを白状させるために拷問された様子が古事記にありました(^_-)-☆

「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

金印は、すでにスサノヲの部下のアズミ族が持ち出して、逃げる途中、志賀島に立ち寄って土の中に隠したものが、江戸時代の百姓によって偶然、発見されたものと考えられます。師升らは金印が手に入らなかったので、倭国王と認められるために160名ものスサノヲの部下らを奴隷として献上したと推理できます。(^_-)-☆

師升王が伊都国に都を移し、125年に祭祀を整えたので記念に作らせた真鍮製文鎮「室見川銘板」が1948年に室見川河口近くで偶然発見されています。祭祀にこだわっている内容「高暘(神仙の住む扶桑国)が左(たす)くる王が永宮を作り、鬲(れき)を齊(ととの)ふ」(訳は、出野正『「室見川銘板」の意味するもの』より)から奴国宮廷楽師の師升が作らせたと推理できます。

その室見川銘板に「佐」が「左」、「作」が「乍」とあり、国宝金印の「倭」が「委」と同様に「ニンベン」を省略する減筆が当時の流儀であることが分かりますので、これらのことから国宝金印は本物であると考えられます。

また、師升ら奴国宮廷楽師の反乱の史実は、「日本書紀」仲哀天皇四年に博多付近を儺県(なのあがた)とあることから分かります。「儺」は「追儺」つまり、「神夜良比(神やらい)」「鬼やらい」の意味の文字です。

さらに、景初三年(239年)六月に魏への朝貢のために帯方郡に渡った倭国の大夫難升米という人物の「難」は「儺」であり、儺升は「神やらいの升」という意味になります。

つまり、難升米はスサノヲを殺した師升の子孫(年代的に孫か曾孫)の魏志倭人伝の伊都国男王と分かります。難升米に魏の正規軍の軍旗「黄憧」が直接与えられていますので、倭国の軍権を持つ、本当の倭国王だったと分かります。卑弥呼の政治を補佐する「男弟」とされた人物が伊都国男王難升米だったのです。

ですから、卑弥呼は政治的な理由で倭国の女王とされたと分かります。イト国を伊都国と書いたのは、「伊」は聖職者を意味し、さらに殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)を連想する国名です。伊尹は「史記」や「孟子」にある放蕩者の王を追放したことで評価が議論される人物なのですから、奴国王を殺して倭国を奪った師升の事績と一致します。イト国を伊都国と書ける人物は師升王の子孫の難升米しか考えられません。邪馬台国問題もこの推論によって解決に導かれました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

国宝金印と室見川銘板はこの史実を証明する重要な物証なのです。

さらに日本書紀の編者らも古事記の作者多人長(おおのひとなが)も王年代紀を宋に献上した東大寺の僧奝然(ちょうねん)も「スサノヲと師升の史実」を知っていた証拠でもあります!

つまり、当時の人々は日本の歴史を狂わせたこの史実を分かっていたのでスサノヲを疫病神の元締めと見て、熊野信仰祇園祭などを行っていたのでしょう!(^_-)-☆

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