アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

真田丸終盤の史料ラッシュ

2016-11-19 06:00:10 | つれづれ
さてさて、大河ドラマの真田丸もいよいよ最終版にさしかかってきたところだが、真田幸村がもし生き残っていたら・・・おそらく今ほど人気にはなっていなかっただろう。


 まさに源義経や赤穂浪士と同じで、日本人にとっては散ってこそ・・・の美学というべきか。その点で大坂夏の陣を見ると興味深い。
 今回の三谷脚本は、いろんな仕掛けっぽいものもたくさんあって、歴史マニアにはツボにくるシーンが多かった。

 先日放映された、井伊の赤備えについて来年のドラマを応援するセリフには、思わず拍手してしまったが・・・その他もろもろ・・・やめておこう、長くなりそうだ。
 そんな中、幸村の最期後藤又兵衛の最期についての史料が出てきたというニュースが、立て続けに出ている。これもドラマ効果か。

 さらに、豊臣時代の大坂城の石垣が限定公開されているという話もある。そう、歴史マニアには常識だが、今の大阪城の天守の位置は豊臣時代と異なるのだ。
 当然、当時は野面積みだったわけで、今の天守の上部に黒い色を付けて、金を貼った姿はスッキリしないと思う小生だ。

 ちなみに、豊臣系のお城は黒いものが多く、徳川系は姫路城を始め白いものが多い。現代人の我々にお城=白というイメージが強いのは、とことん豊臣の痕跡を消そうとした徳川の執念の効果である。例外となると松本城とか熊本城か。
 さて、話を幸村と又兵衛に戻すと、以前の大河「軍師官兵衛」では、後藤又兵衛が長く登場していたが、終盤バタバタといなくなり、ラスト夏の陣で再登場していた。


 記憶にない方も多いと思うが、一説には又兵衛が徳川家康に深手を負わせたとか、殺したというものもある。もちろん、幸村が家康を殺した説もある。
 誰がやったかは別にして、少なくとも、この戦いで家康が大けがを負ったことは間違いなさそうだ。若い側室まで連れて物見遊山状態だった家康にとっては誤算だったはず。

 ただ、家康が死んでいたとしても徳川政権は揺らがなかったはずで、信長や秀吉を見ていた家康が、自分が死んだあとどうやって政権を維持するかを、確実に準備してきたことがそのとおりとなったわけだ。
 歴史にIFはないが、逆にいえばそれを考えるのはロマンになる。三谷脚本では、武田勝頼は通説と異なり、愚鈍な当主ではなく、一方で秀忠の愚鈍さはさらに強調されていた。

 本当のところはどうだったのか・・・考えると限りなく思いが広がる。伊達政宗は真田幸村と同い年だが、お互いがあと10年早く生まれていたら・・・とか。
 今回のドラマで小生が思ったのは、石田三成が信長に仕えていたら・・・だ。日本史自体がものすごく変わっていたはずだ

 事実上三成のアイディアで行った度量衡の統一と検地によって、大名のサラリーマン化がおこり、転勤という今に通じる制度も可能になった。
 徳川政権は、まさにその制度をうまく活用していったわけで、成功事例をうまく自分のものにして取り込む手法は、今のトヨタが見事に踏襲している。

 この能力とアイディアが信長という天才と組み合わさっていたら・・・妄想ばかりが広がる小生である。
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