>匿名希望 20/01/29 AM09 【印刷用へ】 >『自然科学』って何だろうか/リンクより引用 >* * * * *
>『自然科学』って一体全体何でしょうか?
それは、自然現象に関する個人の考え (非現実) でしょうね。
>wikipediaには >>科学的手法により一般的な法則を導き出すことで自然の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称<< と書かれています。
そうなるでしょうね。自然科学は、自然に関する実験と観察を対象とする哲学ですね。
>しかし、この説明、ちょっと見は当然のように見えますが、今の私には少々違和感を感じています。 >そもそもなぜ『自然科学』という学問が生まれたのでしょうか?
それは自然現象を見て不思議に思う人がいたからでしょう。というよりも、不思議なことばかりですね。
> 昔から人間が共通認識として自然現象に対して感じた不思議さを解明したいという自然の欲求から必然的に生まれた学問ではないでしょうか?
自然現象に関する各人の思い付きですね。
>そして、地球生物の中で唯一『人間』のみがなしてきたものであり、得られた知見から多くの『科学技術』が生まれ、人間にとって計り知れないほどの恩恵を与えてきています。
そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
>勿論、兵器のような人間にとってあだになってしまった技術さえも生んでしまいましたが・・・
それは考えの使い方によりますね。
> いずれにしろ、本来『自然科学』は『全ての自然現象の謎』を解き明かす学問のはずではなかったでしょうか?
そうですね。自然現象は無限ですね。解き明かすことができたら大したものですね。
>で、そう言うと恐らく、皆さんは「そんなことは当たり前だ」と言うでしょうが、実際を見て見ましょう。 >本当に現在の自然科学はそうなっているでしょうか? > 私がWikipediaの説明に違和感があると感じているのは、冒頭の『科学的』という言葉です。 > 私がこのコーナーを作った目的でもあり、再三書いてきたのですが、アマチュアゆえに感じてしまっている現代科学のあり方への捨てがたき疑念からこの『科学的』という語彙に一種の反発を覚えてしまっているのです。 > 現在の『科学的』という言葉は、科学アカデミズムの世界で、既に確立した真理だと学者が信じている教科書定説理論に沿うことのみを意味しているようです。
科学には、自然現象に関する大切な考え (哲学) が羅列されていますね。科学に関する考えは、科学哲学になる。政治に関する哲学は政治哲学になる。歴史に関する哲学は、歴史哲学になる。宗教に関する哲学は、宗教哲学になる。などなど。無哲学の国の人は能天気になる。
>ですから、それとは異質のものはたとえ実際にあっても「そんな自然現象はない、嘘だ。とんでもだ。」とはなから無視またはそれを言う人へのひどい人格攻撃までなされています。
現実直視がなされていませんね。現実の内容は見ればわかることですね。Seeing is believing. 考える必要はない。答えは一つです。楽ちんです。
>しかし、これこそ、本末転倒ではないでしょうか?
そうですね。科学には、実験・観察が大切ですね。
>私が前述で『全ての自然現象の謎』と言いましたが、現代科学は、確立したとされている理論で説明可能と思う自然現象のみが自然現象だと勝手に決めつけ、それ以外は幻としてしまっている『ご都合主義的選択的』自然科学になり下がってしまっている気がしてなりません。
自然現象以外は、自然現象でなくても何の矛盾も無いでしょう。人生に関する考えは、人生哲学であっても良いのではありませんか。
>そして、本来は『自然現象の謎』を解明するのが本質なのに、曖昧なところがあっても「つじつまがあっていればそれでよい」というスタンスで「できないからそれ以上そこは深入りしない、する必要性はない」というのが「あきらめればわかる」という言葉に如実に現れているのです。
考えの内容は人様々ですからね。矛盾のない文章は全て正しい考えを示しているでしょう。辻褄が合わなければ考えではない。既存の解釈の辻褄の合わないところを指摘して自己の正しい考えを示せば科学の進歩に貢献できます。
>そういう意味では、私は『自然科学』はその歴史において本来の筋からずいぶん変節してしまったという気がしています。
矛盾が指摘されて、新しい考えが出てきますね。ですから、科学は頭の中で限りなく進歩するでしょう。
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