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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

倉本圭造氏  

2022-05-06 13:33:54 | 文化

 

>プレジデントオンライン   >結果を出した菅首相も1年で退陣させる…「日本はダメ」しか報じないマスコミが日本をダメにしている   >倉本 圭造 - 11 時間前

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>日本のマスコミは、なぜ「マスゴミ」と嘲笑されるようになったのか。 >経営コンサルタントの倉本圭造さんは「あらゆる現象を『権力vs反権力』の闘争に見たててしまう日本のメディアのあり方は、すでに限界を迎えている」という――。   

 

自己主張がない。ただいやじや・いやじゃと駄々をこねるガキ。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教徒>の中で、議論のできない日本人について次の様に述べています。

、、、だが彼 [ハビヤン] は常に、その「破棄した部分」しか口にせず、その「内なる自らの基準」は明示していないのである。これは、、、、、今の日本人も同じであって、「反論」はできるが、その反論の基準となっている自らの思想を理論的・体系的に明示せよと要求すると、できなくなってしまう。従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的”と考える。、、、、(引用終り)

 

>「だから日本はダメなんだ」と報じ続ける日本のメディア  >コロナ禍という危機の中で、国内メディアは機能不全を露呈させました。   

 

それは脳足りんにるものですね。    

 

>私が特に問題だと考えているのは、冷静さを失った感情的な報道姿勢です。   

 

その人は歌詠みの素質のある人ではありませんか。感情理論を示して人気をさらいます。     

 

>いわゆる「出羽守(でわのかみ)バイアス」の問題です。 >「出羽守」というのは、出羽国(現在の山形県と秋田県)を統治する者……という古い役職名とかけて、「欧米“では”~、日本“では”~」と他国の例を引き合いに出して語る人を指す俗語です。 >最近では「欧米では~、日本では~。だからもう日本は“おわり”だ!」と話してばかりいる人は「尾張守」と呼ばれているとか(尾張は現在の愛知県西部のこと)。 >「バイアス」は偏見を意味します。   

>つまり「出羽守バイアス」は、常に欧米を理想化し、日本が「ダメな理由」ばかりを話す人が持つ偏った見方を表します。   

 

現実現実の比較ですね。子供の好む比較ですね。これは日本人風の比較ですね。子供は現実非現実’ (あるべき姿) の比較はできませんからね。         

 

>コロナ禍で日本国内が混乱する中、「政府批判側の極論」を言う人たちの「出羽守バイアス」のかかった情報が、ワイドショーを中心にして連日のように発信されました。 >新規感染者数の動向に一喜一憂し、外国の事例を基に日本政府の体たらくを指摘する――。  >こんな状況が2年近く続いてきました。 >いかにも20世紀的な紋切り型です。 >私は、あらゆる現象を「権力vs反権力」の闘争に見たててしまう日本のメディアのあり方はすでに限界を迎えていると考えています。   

 

そうですね。反権力は伝統的な反骨精神の表われですね。権力に対する天邪鬼ですね。だが、権力自体は大切ですね。有能な人物に権力を付与することにより社会は推進力を得ますね。そうでなければ社会は停滞します。          

 

>本稿では、2020年から続くコロナ禍を振り返りながら、日本のメディアの問題と期待される「新しい役割」について考えてみたいと思います。 >菅義偉前首相は1年で退陣したけれど…   >第一に、「出羽守バイアス」は日本人にどれほど影響を及ぼしてきたのでしょうか。  >例として、日本政府のコロナ対策が「どの程度の出来だったのか」という一般的イメージについて考えてみましょう。  >20215月、法事で実家に帰る用事があった時に、母親やその周囲のママ友さんたちの「気分」について聞いたのですが、あまり政治に興味が無さそうなグループでも「日本政府って本当にダメねえ」と評判になっていたのが印象的でした。   

 

気分による判断ですね。   

日本人には意思がないが恣意がある。だから、我が国では恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意思の代わりに利用する。鍛えられた恣意は意地・根性・大和魂などとよばれている。そして、日本人は意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。意思に関する討論の代わりに、恣意に関する腹の探り合い (談合) をする。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をする。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。だから説明責任は取れない。言い訳のできない理由なき反抗のようなものになる。悔し涙が出る。かくして日本人は感情的な民族になるのです。     

 

>当時は欧米でワクチン接種が先行し、一気に「平時に戻りつつある」との印象が広がりました。 >対して出遅れた日本では「コロナ対策は大失敗だった! 日本はもうダメだ」という世間的な印象が拭い難い状況になっていたのでしょう。  

>各社の世論調査における「政府の新型コロナ対策を評価しない」と回答した人の割合は最大70%に達しました。  >当時は任期満了を迎える衆議院議員の総選挙を控えた時期だったこともあり、この数字が菅政権が就任1年で退陣する原因にもなりました。   

 

菅首相は残念でしたね。国民に正しい教育を受けさせることが必要ですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)    

 

>しかし、「日本政府って本当にダメねえ」という印象を排除して新型コロナ感染状況のデータを確認すると、2020年の日本の死者数は欧米と比べてかなり抑えられました。 >それどころか「超過死亡がマイナス」=「例年よりも死者数が少ない」状況でした。  >つまり世界で稀に見るトップレベルの結果であり、データ上は「コロナ対策に成功した国」だということが分かります。   

 

すると菅政権は風評被害を受けたことになりますね。わが国のマスコミが正しい判断を広めなかったからですね。マスコミの質が本当に悪い。       

 

>繰り返された「批判のための批判」  >確かに、コロナ禍の初期では台湾や中国、ニュージーランドなど、日本よりも感染者を抑え込んだ成功例はあります。 >しかし、それらの国では国民に罰則付きの強い行動制限を課すなど、「自粛」を基本とする日本とは条件が大きく異なります。 >当時の論調を振り返ると、こうした外国の成功例を踏まえ、「台湾はスゴイなあ! 日本は本当にダメだね」という出羽守バイアスがかかった議論がメディアでは大展開されました。 >成功例とされた外国と同等の「対策」を望むのなら、日本政府にもっと「権限」を与える必要がありました。  >しかし、「台湾はスゴイなあ! 日本は本当にダメだね」と言った次の日に「政府の私権制限に反対」と主張するようでは、支離滅裂としか言いようがありません。  

 

支離滅裂の発現をあざ笑う風習はわが国には存在しませんね。これも礼儀正しい日本人の為ですかね。      

 

>これは「政府を批判するな」という話ではありません。  >メディアの機能として「批判」はとても大事なことです。  >批判を基に政策が検証され、より適切な方向に変えていくことで社会は機能していくからです。  >社会の問題解決には批判は欠かせません。 >「政府批判ができればそれでいいじゃないか」という話ではなく、「どの程度の問題なのか」を適切に情報として取り上げられないと「批判」が現実離れしていくのです。 >とにかく「政府はけしからん」と騒いでいるだけでは役割を果たしていないのです。 >また、対策を担う当局者としては、あまりに現実離れした議論に引っ張られるとかえって対策がスムーズに進まなくなってしまいます。  

 

そうですね。日本人は議論が出来ませんね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

>「絶対善の俺たちvs絶対悪の政府」という二元論の弊害  >この2年間、日本のネット空間でも「出羽守バイアス」の影響を受けた放言をよく見かけました。  >例えば、「欧米は人命や人々の生活を大切にする高潔な政権だが、日本の自民党政権はクズだから国民に全くお金をかけようとしない」  >「大量のコロナ失業者を見殺しにしている」 >「やった政策といえばアベノマスク配布だけ」といったものです。  >どれも根底的に間違っていることがわかります。 >冷静に事実を確認すると、日本政府はそれなりに頑張っていて、国際比較で見ても70点ぐらい取れていることは明らかです。  >にもかかわらず、日本における「反権力が自己目的化」したような人たちの間では、「世界の恥だ」「日本に生きていることが恥ずかしい」「国民の命なんてどうでもいいと思っているクズどもの政権」などと大騒ぎする事が常態化していました。   

 

まともな議論のできない民族の哀しさがよく表れていますね。自己の世界観を持たない人たちの歌詠みのようなものか。       

 

>日本における「政府批判」がどんどん妄想の中に取り込まれて機能不全になっていく様子は、かなり頭をかかえるものでした。  

 

日本人は、筋の通った考え (非現実) を文として表すことができません。それは日本語文法に時制というものがないからであります。だから非現実の内容は哲学 (体系的な考え) にはならずして、空想・妄想の類になります。   

お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になりました。    

 

>「政府批判」をするために、いちいち「政府が完全に無能」だと全否定する必要はそもそもないのです。 >仮に今の政府が70点取っているのを認めても、残りの30点の部分で「もっとこうすべきだった」と批判はできるのです。  

 

そうですね。人人により考えは違いますからね。矛盾を含まない文は全て正しい。だから考え (非現実) の正解は無数にある。これが現実 (事実) に関する内容の文と違うところです。        

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>しかしメディアが「絶対善の俺たちvs絶対悪の政府」というストーリーに耽溺(たんでき)すると、「70点を取っている政府」それ自体を否定して大騒ぎすることになります。>結果として騒いでいる内容が、現実からどんどん遊離していってしまうわけです。    

 

メディアの関係者は哲学の勉強が足りないですね。現実直視と自己の哲学を組み合わせると科学的な発言になりますね。各人は議論が可能になります。   

 

>メディアの仕事は政府を批判するだけではない  >本来のメディアの仕事は次の2点にまとめることができます。 >① 政府が発表した「今の対策」をちゃんと過不足なく、必要としている人々に知らせる   >② ①をやったうえで、今の制度のどこに不備があるのか? 対象が間違っているのか? 周知が足りていないのか? 金額が足りないのか? 手続きが複雑すぎるのか? といった点を取材し、情報を伝える  >国民に必要な情報を伝えるとともに、考える材料を提供するのがメディアの仕事のはず。   

 

そうですね。読者に考える材料を与えるのがメディアの使命ですね。      

 

>ところが実際は、「反権力を叫べるなら中身はどうでもいい型陰謀論」で盛り上がってしまっているように思います。   

 

陰謀論は妄想ですね。   

 

>日本政府はコロナ対策として大規模な財政出動を行い、かなりの大盤振る舞いをしたにもかかわらず、「欧米と違って日本の自民党政府はお友達以外に興味がないから何もしてない」といった世界観で盛り上がられると、そもそもの事実認識が根底的に間違っているうえ、「その先の具体的な話」、つまり「本来なされるべき現実に基づいた批判や改善提案」がかきけされてしまっているのです。

 

そうですね。大切な議論の進展が阻止されていますね。        

 

>「右の陰謀論」より「左の陰謀論」のほうが恐ろしい   >デマや陰謀論と聞けば、政府を擁護する保守派(いわゆる“右派”)の間だけのもので、政府を批判する知的で高潔な俺たちの間ではそんなものは無い……と思っていませんか?   >しかし、私が「右の陰謀論」より「左の陰謀論」に厳しいのは理由があります。  >確かに自民党の支持者の中には、「中国や韓国は大崩壊する!」「2020年のアメリカ大統領選挙で勝ったのはトランプ!」などと言っている人もいます。 >とはいえ、こうした言説は一見してバカバカしいことがわかるし、自民党もリップサービスをして彼らを基礎票としてうまく取り込みつつ、実際の政策ではある程度バランスを取って調整しています。  >本気で信じている人を除き、「右の陰謀論」は見分けがつきやすいのです。  >検証するまでもない根拠のない言説です。   

 

そうですね。根拠のない言説ですね。     

 

>しかし「左の陰謀論」はどうでしょうか。 >簡単には真偽の見分けがつきにくい言説が目立ちます。  >それを言っている本人たちは、「事実に基づいていない妄想の中にいるのは“右”の奴らだけで、国際的視野が豊富で知的で批判精神がある俺たちは常にちゃんと現実を見ている」と信じ込んでしまっている事が多いのが厄介な点です。 >一見すると知的な言葉を並べ、客観性を装ったデータを提示し「政府を批判したい人」が寄ってたかって押し上げる――。  >結果、彼らはどんどん現実から離れていきます。   

 

彼らは知的な言葉に酔いしれているのですね。わが国の伝統ある歌詠みのようなものか。     

 

>ウクライナ戦争で問われるメディアの力量  >ロシアによるウクライナ侵攻を境に、安全保障やエネルギーの問題がメディアでも大きく取り上げられています。  >「リアルな議論」が必要な課題が沢山あります。 >例えばドイツでは国防費を国内総生産(GDP)比で2%以上に引き上げる方針を打ち出し、ロシア産天然ガスに依存してきたエネルギー政策の見直しも急激に進んでいます。  >安全保障やエネルギー問題に関する外部環境がこれだけ変わったのだから、「現実に対する責任感」があれば今までとは違う「リアルな議論」をせざるを得ないと誰でもわかるはず。 >しかし今の日本では、そういう議論ができているでしょうか?   

 

日本人は現実直視ができないから、リアルな議論は無理でしょうね。   

 

> 軍事的均衡状態を維持するための独りよがりの空論が、まだ日本にはのさばっているのではないでしょうか。   

 

そうですね。日本人の脳裏にはお花畑がありますからね。独りよがり以外の何物でもありません。      

 

>最近の日本では、毎年冬には電力需給の逼迫ひっぱくにより大規模停電の危機が発生するようになりました。  >この大規模停電が起きてしまう理由は、単に原発を再稼働するかどうか、再エネを導入するかどうか…という単純な問題ではなく、電力制度改革の細部が実情と合っていないことが原因です。 >しかし、今のメディアは何が本当の原因なのかを深堀りする記事が少なく、単純に犯人探し的な論争だけが飛び交っている中で、電力の安定供給という重要な政策課題が混乱し続けてきているのです。   

 

電力の不安定供給はメディアの混乱に起因するのですね。単純な犯人捜しの論争は捕物帳として日本人に人気がありますね。勧善懲悪により人々は満足しています。        

 

>大事なのは「どうせ自民党政府など、自分たちの利益のことしか考えていないバカばっかりだから」というような思い込みからの単純化しすぎた構図で犯人探しを行う記事ではなく、今の電力制度がどういう利害対立に落ち込んで、どこに問題が起きているのかを深く考えていく動きをサポートする事であるはずです。   

 

そうですね。   

 

>「全てが政治闘争に見える世代」から主導権を奪い返そう   >とはいえコロナ禍の後期には、単に「政府はけしからん」と嘆いて見せるだけの中身のない議論ではなく、病床確保のための広域連携のあり方などをテーマに具体的な対策を深堀りして報じるメディアも明らかに増えてきたように思います。

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>電力制度改革についても、単に「日本政府がけしからん」的な記事ではなく、ちゃんと実情を深堀りした記事も日本の大手新聞でもいくつか見られて感銘を受けました。   

 

大学で論文を書いていれば現実を深堀りする習慣が身に付きますね。 現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)       

 

>私はよく、「複雑化した現代では、単なる政府批判でなく問題解決のためにどうすればいいのかちゃんと取材して考えるメディアが必要だ」と主張をしているのですが、同世代のメディアの人から「全くそのとおりだ」という丁寧な賛同のメールを頂くこともよくあります。  

 

政府批判は伝統的な他力本願・神頼みの変形ですね。逆恨みしている。   

 

>あらゆることが「権力vs反権力」の政治闘争と捉える人が多かった団塊世代が、徐々に社会から引退しています。   

 

そうですね。自分が実質的な政治参加をしていないからですね。ノンポリ・政治音痴ですね。政治に責任感がない。  

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)     

 

>メディアの中でも団塊世代の下の世代に主導権が移り、雰囲気が大きく変わりつつあると思います。  >社会的な課題を「自己目的化した反権力」「騒いで留飲を下げるだけ」のネタにするのではなく、メディアは課題解決のために知恵を寄せ合って考えるためのハブになるべきです。   >これが「新しいメディアの役割」なのではないでしょうか。

 

そうですね。知恵のハブを作ることが大切ですね。反骨精神を示すだけでは足りませんね。   

 

>罵り合いをやめて、リアルな議論をしましょう。 >自己満足の権力批判をしている場合ではありません。  

 

そうですね。しかし日本人には世界観がない。だから、未来社会の内容に関する興味も持つこともなく、未来社会の建設に情熱を注ぐこともない。    

 

>社会の中で辛い思いをしている人がいる。 >そこに手を差し伸べる方法をちゃんと考えられる社会をつくる一歩になるはずです。  

 

そうですね。世の中には予期せぬ不幸に見舞われている人が大勢います。手を貸してあげることが自分の幸福につながります。   

 

>---------- 倉本 圭造(くらもと・けいぞう) 経営コンサルタント 1978年生まれ。 >神戸市出身。 >兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼーに入社。 >「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面し、両者をシナジーする一貫した新しい戦略の探求を開始。 >社会のリアルを体験するため、ホストクラブやカルト宗教団体等にまで潜入するフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。 >著書に『日本人のための議論と対話の教科書』(ワニブックスPLUS新書)、『「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?』(amazon Kindleダイレクト・パブリッシング)など多数。   

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