(略)
> 『国学と日本浪漫派と京都学派と吉本隆明と』
> 歴史は残酷である。 >その時にどれほど正しく正当に見えていても時間の判定は厳格で少しの誤りも見逃さない。 >200年前の本居宣長の国学だけでなく半世紀前の加藤周一の随筆も思想も良し悪しが全てあからさまになるのですから恐ろしい。
それは時代の進歩というものですからね。人類の進歩ですね。楽しみですね。頭の体操になります。
> 今宣長の『国学』を自分の思想哲学であると主張するものは現実離れした歴史認識の『作る会』系極右学者でも一人もいないし阿呆臭い子供じみたネットウヨにも一人もいないだろう。 >しかし67年以前には逆に日本人の生きた行動指針であり帝国の国家方針だったのである。
世の中の様変わりですね。現実は千変万化します。
> 一時代を築いた国学の延長線上にあったのが、敗戦までの日本浪漫派であり京都学派であるが、その敗戦後の崩壊した延長線上に吉本隆明が孤独なピエロとして存在するから哀れである。
わが国は、無哲学・能天気の国ですからね。真面目な考えは成り立ちませんね。 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)
> 日本の知識人においては実生活は、思想とは分離していて上位にあり、危機的な場合には『思想』は実生活に簡単に屈服した。
日本人の書き物は食べるための手段ですからね。自己の世界観を明示しているというわけではない。
>その実生活とは直接には小集団での内側での束縛、間接には、一切の価値に超越し、科学的な分析の対象であることを止めた国家・日本の精神的束縛を内容とするものであった。
実生活は、全て序列メンタリティで統一されていますね。小集団内部での束縛も、国家の精神的な束縛も序列制度にのっとって働いていますね。だから、それ以外の活動が犠牲になっているのです。
>日本で唯一超越的なものは『日本』だったがこれこそ知識人の戦争協力の内側の構造だった。
日本の超国家主義 (国粋主義) は日本人の自己慶賀の仕組みですね。おめでたい話には違いありませんね。
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の重要性を深く認識することが必要である。次に、我々の意思と世界観を表現する技術を手中に収めなくてはならない。さすれば、我々は相手の意思や世界観にいても焦点を合わせた考え方ができるし、議論も可能になり相互理解を深めることができる。国際的な協力を得て未来社会の建設に邁進し人類社会の発展に貢献することも可能になる。
> ~後略~ >--------------------------------------------------------- >以上です。
.
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます