>サバルタンという言葉がある。 >「みずからを語ることのできない弱者」というような意味だ。 >サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指した。 >歴史は常に支配階級によって書かれ、社会に受け入れられていくのに対し、底辺層サバルタンの歴史はいつも断片的で挿話的なものにしかならず、つまりサバルタンはみずからの力でみずからの歴史を紡ぐことを許されていない。
声なき民になっているのですね。
>つまりサバルタンの歴史は、つねに自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいる。
彼らは自主・独立の精神を持つことは不可能ですね。
>サバルタンは西洋と東洋、宗主国と植民地といった対比で使われるが、日本の戦後メディアと弱者の関係はサバルタンの構図に類似している。 >メディアは弱者の側に立つと称して勝手に代弁し、加害者=悪を糾弾する。 >現実世界での金や地位、支配力などの物理的な強弱はともかくも、インターネットも含めたメディアの空間では、弱者こそが最も「力」が強い。 >なぜなら弱者を正面切って批判するのは難しく、非難を浴びやすいからだ。
誰を非難するかの問題ですね。弱者の側に立てば自己の非難は免れる。
> 弱者を装うことによって、力を得ることができる。>これがマイノリティ憑依である。
弱者を現実的に利用する方法ですね。
>だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。
彼らの自分の目線は何処にあるのでしょうかね。
>市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。
そうですね。権力者のマスメディアにとっては、市民様・庶民様ですね。
> 「弱者である」ということはメディアの空間では無敵だから、それに対して政府や企業の側、あるいは言論人などがそれに批判を加えても、まったく揺るがない。
そうですね。弱者は無敵ですね。だが、低俗ではありませんか。
>なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからだ。
弱者は便利なメディアの隠れ蓑になっているのですね。
>だから彼らは、外部から叩かれれば叩かれるほど「悪から叩かれる自分たちはやはり正しいのだ」と意思をより堅固にしていってしまう。>「私たち記者は正義。がんばる」という通信社記者のツイートが話題になったことがあったが、まさにこの心情である。
無哲学・能天気の身の上では、よって立つところはありませんからね。
>
> 加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。 >悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。
悪がいなくなったら商売ができなくなりますね。
>なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。
勧善懲悪の再現ですね。まだ子供の時代ですね。早く ‘考える人’ になりましょう。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
>つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。
現実のマイノリティがメディアの善そのものなのですね。批判精神のない人間は、批判するのに苦労しているようですね。やはり、’あるべき姿’ の内容我必要ですね。
>それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。
悪が無くなれば、飯の食いあげですからね。あくまでも処世術に徹していますね。
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