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軟な読解・勝手な解釈

2015-07-28 12:56:01 | 国際・政治
マッカーサが国内に住んでいたころの我が国と、今の日本では国内情勢も違うし、国際情勢も違う。だから、憲法の内容も変えられて然るべきである。前文の哲学は変える必要がないかもしれないが、憲法の各条文は現実対応策であるから、現実が変われば、その対応策も変わって然るべきであろう。

そう考えると、今回は、'憲法という本を正さずして安保法制という末に走り、その場しのぎと偽善に陥る' ものであろう。
目の前の変化には強く囚われるが、その奥にある 'あるべき姿' には無頓着である。軽薄ということか。

相手の意見を勝手に解釈する癖がついていたのでは、国際政治においても、大きな間違いをしかねない。
しかも、それが我が方に有利な解釈であるとすると、思い違いにより国は大きな怪我をする。
我が国の首相には、世界史を書く力はない。だが、その歴史修正主義者には成れるのか。

我が国伝統の和歌・俳句は、単語の集まりである。文章にならないから意味がない。
一旦発せられた言葉は、相手にどのように受け取られても仕方がない、というのは歌詠みの言うことである。歌詠みは、これで満足しなくてはならない。
だがしかし、文章の解釈においては、イエスはノーではなく、合憲は違憲ではない。
解釈の仕方で、憲法の条文はどのようにでも読めるというのであれば、憲法の草案を練る努力に意味はない。
相手の発した単語と単語を勝手に結び付けて、勝手な解釈をし続ける悪弊により、我が国民は碌なことにはならない。

・>中国を完全に甘くみていたのである。
・>そして、イギリスやフランスが日本を支持してくれると思い込んでいたのだ。
・>ところが、その中国の利権を巡ってイギリスと対立関係となった。
・>イギリス、フランス、そしてアメリカ等が日本と険悪な状態になり、ついに孤立してしまった。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切である。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできない。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。文章・考えの世界から逃げを打つのである。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできない。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならなければ、考えではない。

読解は文章に対して真摯に行うものである。単語に対する勝手な解釈と混同してはならない。


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