フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。(p.91)
>日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。
そうですね。日本語は、過去・現在・未来の世界に分かれていませんね。
>言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。
そうですね。日本語は現実の内容を表現していますね。現実を映す鏡のようなものです。
>判断より気分に興味をもつ。
そうですね。日本人にはリーズンがない。リーズナブルな判断 (rational judgment) には興味がない。気分・雰囲気の表現に特化していますね。
>意味より感受性に関心がある。
意味の表現には文章を必要とします。感受性には意味がない。だから、文章は不要です。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) で表現することも多いです。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。
そうですね。英語では、理屈に合ったことしか考えられませんね。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
全ての文章には意味がある。意味が通らなければ矛盾がある。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。
考えは、人人により違っている。だから正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを表すものとなる。そのためには対話・議論が役に立つ。
>一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。
無哲学・能天気の国民ですからね。相手の論理・哲学にも親しみを持つことはありませんね。’理屈なら子供だってわかる’ といって相手を軽蔑する。
>たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。
そうですね。’存在する’ は意味ないですね。存在しない内容は、日本語では言葉にならない。存在しない内容 (考え) を口にすれば狂言 (道理に合わない言葉) になる。
お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になりました。とても真面目ではいられない。
>”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。
肯定があれば、否定もある。’存在する’ と ‘現実’ を認めれば、’存在しない’ と ‘非現実’ をも考えに入れなくてはならない。
>「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。
そうでしょうね。現実・非現実を認めれば、概念も認めなくてはなりませんね。概念そのものも人工でから、我々の実生活にはなじみませんね。
>他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。
そうですね。日本語は現実の内容を説明するための言語ですからね。
>数え方を例にとってみよう。>単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。>たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り)
そうですね。日本語は具体的ですね。アングロ・サクソンの言葉は味気ないですね。
また、同著書の別のところ (p.227) でフランク・ギブニー氏は、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
>孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。
そうですね。日本式スタイルは歌詠みのようなもので、意味も無く議論の対象にもなりませんから孤立しますね。独りよがりのようなものです。 趣味には論拠がない。There is no accounting for tastes.
>これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。
そうですね。議論・対話は客観的でなくてはできませんね。
>しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (略)。>多くの小説家や他の文化人は、外国語、とくに西欧語との接触を故意に避けているが、これは自分のスタイルがその間に外国語に伝染し、失われると考えているからである。(引用終り)
そうでしょうね。わが国の小説家や文化人は、孤立していないと曖昧なものが失われると感じているからでしょうね。
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